涙の剣

山田恭

サンフランシスコにて

 水が降っていたが、雨ではなく、涙でもなかった。滝のように水が上から下へと流れている水路から弾かれた飛沫が風に乗っていた。近づけば服や髪が濡れるだろうに、子どもたちは恐れたりはしなかった。水路に近づき、手を伸ばす。写真を撮っているものもいる。十二月であれば、さすがに靴を脱いで水の中に足を突っ込む者はいなかったが、手で触れようとする者はいた。「冷たい」と言って急いで手を拭く。彼らの行動はその髪や肌の色のように人それぞれだ。

 小学校の遠足だろうか、と検討をつけながら、星見ほしみ勇凪いさなはサンドイッチに噛み付いた。ハムとチーズと野菜のサンドイッチはバンズから厚くて、ソースは零れるほどで、肉厚で――なるほどアメリカらしかった。日本なら、これはサンドイッチというよりはバーガーに分類されるだろうな、と思いながら近場のサンドイッチ屋で同じく購入したペットボトル入りのオレンジジュースで喉を潤す。味は悪くはない。アメリカ人というと肉ばかり食べていて、ドーナツとピザを両手にコーラを啜り、身長より胴回りが太いというのが相場だと思っていたが、少なくともこのサンフランシスコではそこまで極端な肥満体形はまだ見ていない。勇凪が昼食場所に選んだ公園はフードコートがあったのだが、そこにはバケツのように大きな容器でサラダを売る店があるくらいだ。肥満傾向が強い国だからこそ、野菜を食べようという意識が強いのかもしれない。

 味が悪くなければしぜんと食が進む。勇凪は指についたソースを舐めとってから、サンドイッチを包んでいた紙で手を拭いた。腕時計で時刻を確かめるが、まだ学会の午後の開始には余裕がある。十分すぎるほど。


 勇凪は二日前、学会参加のために日本からアメリカのサンフランシスコにやってきていた。American米国 Geophysics地球物理 Union学会というのが学会の名で、業界では頭の文字を取ってAGUで通じる。毎年サンフランシスコで行われている学会で、名前通り地球物理学に関連したあらゆる内容の研究が発表され、意見交換が交わされる場所だ。

 東北地方にあるT大学大学院理学研究科地球物理学専攻、博士課程後期三年の二年生というのが勇凪の立場だが、簡単にいってしまえば大学八年生だ。九年で卒業。他人より二倍以上大学機関に所属していることになる。二十代も半ばだというのに、未だに社会に出ておらず、学生をやっている。

「はぁ………」

 溜め息だって出る。いくらでも。時間を潰すのには十分なほど。


 林檎も買っていたので、袖で拭いてから齧り付く。故郷の島で食べるのと殆どで変わらぬ食感に思えたが、それは最初だけで、中がすかすかしていて乾いている感じがした。あまり美味くないな、と思いつつも、齧りながら会場まで歩いて戻る。

 未だ時差ボケが治っておらず、講演の半分以上を転寝で過ごす。

 十五時過ぎから見るものがなくなったため、ポスター会場へ向かう。外は雨が降っていた。足元が濡れる程度に強い雨がだが、傘を差している人間は疎らだ。フードを被る者もいるが、雨などまるで気にしていないかのような者もいる。中には半袖短パンの人間もいるのだから、寒さに強いのだろうか。勇凪には、コートを着ていながらも寒いくらいなのだが。


 ポスター会場の建物は講演会場の建物より背は低く、そのぶんだけ潰れて横に広がったような建物だった。中に入るとすぐに降りるエスカレータがあり、人波がそちらに流れていたので、勇凪もその流れに従った。

 降りてみると、まるで物販会場のような光景が広がっている。目の前には鉱石や化石を売っている店がある。観測装置の販売をしている店もあれば、奥に見えるのは世界一の検索機関の企業マークだ。ほかにもいくつも幾つも、見渡す限りにブースが存在しているのであれば、どうやらここは企業ブースらしい。にしては、勇凪の知るそれと比較して活気付き過ぎているように見えてしまうのだが。

 右から左へ視線を移すと、ようやく見知ったポスター会場を見つけることができた。見知った。否。勇凪の知るそれと比べると、やはり巨大だ。ポスターというのは一枚の紙に研究内容をまとめた発表形式のことだ。ひとつのポスターが基本的にA〇サイズなのだから、ひとつのポスターを貼るためのスペースはその一、二倍の横幅に通路ぶんのスペースを加えた程度の広さだから、半畳から一畳程度だろう。それが横に二十も三十も連なっており、さらに縦にも広がっている。たぶん、四百以上のポスターが貼られていることだろう。壮観だ。


 大方関連がありそうなポスターを見たあとで、企業ブースに戻ってみる。企業の展示のほかに、出店も出ており、どうやら企業の関連した物品を販売しているらしい。

 勇凪はその中に、薔薇を見つけた。

 親指より一回り大きい大きさの卵型のガラスで、中に水と小ぶりな薔薇の花が入っている。「六ドル。お子さまのおもちゃにお勧め」と書かれていたのを見て、勇凪はそれを買うことに決めた。渡す相手は子どもではないが。


 水の中の薔薇を握り締めて会場を出れば、雨が降っていた。傘を差すほどではないので、フードを被ってホテルへと帰る。

 サンフランシスコに来てから、日本と大きく違って見えるものはふたつだ。自動販売機が無いことと、物乞いの多さ。これは無関係ではないに違いない。物乞いのような貧しい人々が自動販売機を破壊して現金を奪うことを危惧して、設置していないのだろう。

 視線を動かせば、物乞いたちの言葉がいくつもいくつも見つかる。

『脚が折れた/心が折れた/立ち上がるためには助けが必要だ』

『あなたの助けが必要です。幾らでも構いません。』

『五ドルあればパパとクリスマスが過ごせます』

 看板を置いた横でギターを弾く男の前には、ギターケースの中で丸くなっている子どもがいた。

 何も言わずにコップを前にして薄着で座り込む、長い金髪の若い女性もいた。長らくこうした生活を送っているのであろう、胸元まで届く白髭の老人もいた。唇だけやけに赤く、顔が真っ黒で毛布を被って歩いている男がいた。犬と一緒に座り込んでいる人もいた。

 勇凪は彼らに己を重ね合わせずにはいられなかった。


 交差点の信号待ちの中に、ひとり汚れたスーツを着たメスティソと思しき若い坊主頭の青年が座り込んでいた。何か箱を置き、やはり物乞いかと思ったら、そうではなかった。箱の中身は金色の金管楽器と音響装置である。青年は歌い出す。金管楽器は歌の合間に吹くのだろうか。それとも彼とともに演奏をする友がいるのだろうか。

 信号が歩行可能になると同時に歩き出した勇凪には、彼の歌の続きは聞くことができなかった。

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