あるいは巡らない運命の果て

詠弥つく

はじまり、もしくはおわり

 むかしむかしのあるところ。ここではないどこかに、一人の女の子がおりました。

 父と母と妹と、決して裕福とは言えなかったけれど、慎ましやかに幸せな生活を営んで生きていました。ある日のことです。彼女は隣家に住む親友と共に、街へ遊びに行きました。華やかな祭、親友と共に巡るそれは夢の中のように楽しくて。だから、彼女は約束していた帰宅時間を少し過ぎてしまったのです。夕飯に間に合わないかもしれないわ、と少し小走りで帰路につきます。親友に、ばいばいまた明日、と手を振って。到着した家の扉を叩きます。

「お母さんお父さん、私です。ただいま帰りました」

 いつもならば遅かったね、と苦笑した両親か、お腹を空かせた妹が纏わりついて迎えてくれるはずです。けれど、その日は何かがおかしかったのでした。扉は開かない。いいえ大丈夫。ちゃんと鍵は持って遊びに出たのだから。かちゃり、きぃ、ぱたん。あれ、どうしたことでしょう。家族の姿は見えません。ああ、酷いわ。帰りが遅いからって先にご飯を食べてしまってるんだ。そう腹を立てながらも少女は慌てて家族の元へ駆けていきます。ええ、その通り。食事中でした。しかし、彼女の家族が、ではありません。彼女の家族を。

 そこに居たのは美しいモノでした。長い黒髪は床に引き摺っていてそれはどうかと思ったけれど。元は白かったであろうスラックスとシャツは赤と黒とその他汚らしい色に上塗りされています。爪が妙に長く、掴んでいるのは父親の臓物でした。喉の奥に悲鳴が詰まって、かさりとも音を立ててはならないと察した体が凍り付きます。原型を留めていない足元のものは妹だったものでしょうか。逆に、生前の姿そのままに時を止め、もう二度と動きやしないのが母親です。父親は、ああ、つい先程まで息があったのでしょう。惨い痛みと近付く死の匂いの中、眼球は確かに少女を捉えて絶望していました。恐ろしく綺麗な人ならざるモノは緩慢な動作で、けれども今、振り向こうとしています。

 ああ、逃げないと私、食べられてしまうわ。そう気付いたのに、体は上手に動きません。でも、例えここで食べられずに生き残ったとて、彼女に何が残るでしょうか。愛おしい平穏はたった今ここでなくなってしまったのに。

「あれ、君は?」

 鬼は声すらも甘く、美しいのでした。それは毒蛇のように地面を這い、身を捕らえます。

「ふうん、まだいたんだ。君、ここの子?」

「…………はい」

 嘘を吐いてどうにでも言い逃れて無理かもしれないけれど逃げなければ。脳味噌はそう喚いているけれど心はもう彼の言いなりで。べちゃ、と父親が床に捨てられ、鬼は急ぐ素振りもなく近付いてきます。

「もう一人いるだなんて、誰も言わなかったよ。君は愛されているんだねえ」

 麻痺毒がすっかり回って、震える体は崩れ落ちることも、意識を失うことも認めてはくれません。

「かぞく、かぞく、家族、かあ」

 整いきった容貌に似合わない、子供のような柔らかな言葉で紡がれることばたち。

「そうだ。君が俺の家族になってくれればいい。こんなにも愛されていたんだもの、きっと愛するのも上手だろ? ほら、俺のせいで君の家族もいなくなっちゃったわけだし。俺には家族なんていたこともないし。ウィンウィン、って人は言うんだろ? こういうの」

 勿論、そんな筈がありません。反論は星の数ほど浮かんでいるというのに、どれだって上手く像を結んではくれなくて。何も言わない少女に鬼は首を傾いで、あっ、と小さく声を漏らしました。

「そうだった、ごめんよ。君はただの人間だものね」

 長い爪が少女の顔に伸びてきます。唇を薄く裂いて、溢れだし垂れる血を掬いあげ。鎖骨の辺りを彼の指先が撫でて、ようやっと体が動くようになると、鬼はふわりと笑みを浮かべました。

「ほら、これで大丈夫だ。ねえ、返事をおくれ。俺の可愛い娘」

「だれが、誰が、アンタなんかの娘になるって言うの!」

 硬直からほどかれて、いの一番に行うべきことはこの場から逃げることの筈だけど。そう言わずにはいられなかったのです。少女の知っている憤怒、憎悪、殺意を全て込めた叫びはしかし、緩い反応に潰されてしまいます。

「ふふ、そりゃあ残念。……でもね、君はもう俺の可愛い娘だ」

「何を、言って」

「早くお逃げよ我が娘。お前はとっても美味しそうだ。俺の気が変わらないうちに、逃げてしまえばいいよ。気が変わったらいつでもおいで。俺はお前の家族となれるはずだ」

 言葉は柔らかだったけれど、その瞳には確かに食欲が透けて見え。少女の体は未だ去らぬ危機を思い出します。踵を返し、逃げなければ。ああでもどこに。少女の安息の地はここだというのに。

「可愛い可愛い我が娘っ子。俺はお前を待っているよ。絶望を知り、甘く育ったお前を」

 背後で鬼が囁き続けます。その甘露を振り払い、少女は人の世に逃げ帰っていきました。

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