十 鬼多見遙香(三)
氷室さんはお母さんを促して教室を出て、すぐ側にある小さな公園へ行った。
「大久保、今日欠席したな……」
「あんたは悪くないよ、カノジョが居るんなら仕方ない」
氷室さんは驚いたような顔をした。
「知ってるのか?」
「玲菜から聞いた」
「じゃ、オレに何の用が?」
「本当にゴメン」
お母さんは氷室さんの額に触れた。
何をするのかは明らかだ、彼の心を操るんだ。
眼の前にある場景の他に、玲菜さんの姿が脳裏に浮かんだ。
氷室さんの感情を書き換えるため、お母さんは玲菜さんの情報を流し込んでいるんだ。
その刹那、わたしの頭に早紀ちゃんの姿が一瞬よぎる。
「えッ?」
今のは氷室さんから流れてきた情報だ。どうして早紀ちゃんを知っているんだろう?
お母さんは手を放した。
氷室さんは焦点の合わない眼でボーッとしている。
「ウソでしょ……」
つぶやきが聞こえたのか、氷室さんは改めてお母さんを見た。
「あれ、オレ何してたんだ?」
戸惑いの表情を浮かべる。
「キタミ……やっぱりオレ……。
大久保に謝らなきゃ、あいつの連絡先知ってるだろ?」
「あ、ここに……」
お母さんは電話番号が書かれたメモを出した。
「サンキュッ、用意いいな」
引ったくる様にしてメモを取り駆け出す。
「い、今のカノジョはどうするのッ?」
「別れるッ。オレ、もう玲菜の事しか考えられないんだ!」
振り返りもせず、氷室さんは行ってしまった。どうしてお母さんが、早紀ちゃんの事を知っているかも気にならなかったみたいだ。
「鬼多見」
呆然と氷室さんの後ろ姿見送っていると、背後から声がした。
お母さんが振り向くと、そこには名物講師の坂本先生が立っていた。
「氷室に何をしたんだ?」
「先生には関係ない」
お母さんは無視して公園を出ようとした。
「待ってくれッ」
乱暴に腕をつかまれる。
とっさの行動なのだろう、お母さんは先生の腕をつかみ返し捻り上げる。流れるように身体を払うと、長身の男が簡単に宙を舞う。
「うわッ」
お祖父さんから教わった拳法だ、先生は無様に地面に転がった。
「また、親父みたいに説教する気? あたしの事は放っておいて」
「違うッ。知りたいんだ、どうしたら人の心を変えられるかを」
すがり付く様にお母さんを見上げる。
「なに言ってんの?」
「君が特別な力を持っているのは、初めから判っていた。でも、こんな事ができるなんて……なんて……なんて素晴らしいんだッ!」
恍惚とした表情を浮かべながら立ち上がる。
「僕にも霊力があるんだ。霊が視えたり、人の心の声が聞こえたり……
でも、人の心を変える事はなんて出来ない。どうしたら君と同じになれる?」
「………………」
「頼む、教えてくれッ」
「アンタじゃムリよ」
「え?」
「人の心を操るなんて最低よ。
そんな事をしたがるヤツはクズよ。
そしてあたしは、救いようのない最低最悪のクズよ」
「君は解っていないッ、その力は……」
「ノウマク・サラバ・タタギャテイ・ビヤサルバ・モッケイ・ビヤサルバ・タタラタ・センダ・マカロシャナ・ケン・ギャキ・ギャキ・サルバビキナン・ウン・タラタ・カン・マン」
早口に真言を唱えると、先生は人形みたいに固まった。
以前、叔父さんが魔物に取り憑かれた凜に使った『不動明王金縛り』だ。
「解ってないのはそっちよ。
アンタに人に物を教える資格なんて無い」
坂本を残して、お母さんは公園を出た。
それにしても、どうして氷室さんから早紀ちゃんの情報が流れてきたんだろう?
受験を控えたカレシがいるって言っていたけど……
「おねえちゃん、食べないの?」
子供の叔父さんがテーブルの向かい側にいる。
ここは戌亥寺の台所だ、戻ってきたのか。
眼の前には
「うん、食べていいよ」
お母さんは自分の汁を叔父さんに差し出した。
「食べかけのツユは、ほしくないんだけど……
ぐあい悪いの?」
心配そうに覗き込む。
「ううん、勉強で疲れただけ」
「だったら、ちゃんと食べないとダメだよ」
「ありがとう。じゃあアイス買って来てくれるかな?
悠輝のお
「それはヤだ」
叔父さんがキッパリ断る。って言うか、小学生にたかるなよ。
あきれていると、電話のベルが鳴り響いた。
叔父さんが、椅子から立ち上がって台所から飛び出す。
電話の音が鳴り止み、すましたの叔父さんの声がする。
「もしもし、キタミです。
あ……はい。
おねえちゃん!」
何かに気付いたのか、はじかれた様にお母さんは廊下に飛び出し、叔父さんから受話器を奪い取った。
「もしもし?」
〈あ、遙香、アタシ!〉
受話器から聞こえるのは、玲菜さんの明るい声だ。
〈氷室くんが電話くれて、会いたいって言うからさ、さっき行ってきたんだ。
そしたら、アタシのコト、やっぱり好きだってさ!
これって、遙香がしてくれたんでしょ?〉
「うん……ねぇ、氷室、今付き合っているカノジョどうするか言ってた?」
〈別れてくれるってさ! きっと今頃、向こうも電話をしている頃だよ〉
一点の曇りもない、喜びに満ちた声だ。
玲菜さんにとっては、恋が成就したばかりなんだ。周りの事など目に入らないないんだろう。
でも、氷室さんと付き合っていた人は、何の前触れもなく別れを切り出されるんだ。たまった物ではない。
お母さんが受話器を置いた。
見えている物がまた変わった。
今、眼の前にあるのは知らない家だ。
『荒木』と表札が出ている。この苗字は知らないけれど、誰の家かは判っている。
インターフォンを鳴らすと、中からか細い声がした。
「はい……」
「早紀ちゃん? あたし、遙香」
「先輩……どうしたんですか?」
「あの……今、だいじょうぶ?」
「ええ……」
玄関が開き、中から早紀ちゃんが顔を出す。
眼が赤く充血している。きっと、今まで泣いていたんだ。
「早紀ちゃん……」
お母さんは早紀ちゃんを抱きしめた。
「ど、どうしたんですか?」
戸惑いの声を上げる。それはそうだろう、お母さんがした事を彼女は知らない。
「ごめんね、本当にごめん」
「なんで謝るんですか?」
「あたしのせいなんだ。あたしが余計な事をしたから……」
「私がフラれた事を言っているんですか? どうして知っているんです? それに、先輩のせいって?」
「元に戻すから……。ううん、もう元通りには出来ないかも知れないけれど……
早紀ちゃんを傷つけるなんて、思ってもいなかった。
あたしが浅はかだったせいで、お詫びのしようもないけど」
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