第8話:黄昏町エスペラント VS 七森ブルース

 白球はキャッチャーミットに吸い込まれていく。バットは空を切り三振になる。スリーアウトだ。少女は小さくガッツポーズをした。




「ナイスピッチング! 赤坂!!」




 黄昏町エスペラント VS 七森ブルースの試合は最終回を迎えた。


 七森ブルースのエース、赤坂葵あかさかあおいは体力の全てを削って最終回まで投げきってみせた。失点は3点。全国レベル相手に十分すぎる健闘ぶりだ。人一倍奮闘したのはいうまでもない。もちろん、バックにはこれまで一緒に戦ってきた心強い仲間たちが守ってくれたから最小限の失点で抑え切ってみせたのだ。


 0 - 3 で、攻防が入れ替わる。


 7回の裏、七森ブルースの最後の攻撃だ。3点差をひっくり返すことは容易ではない。これまでチームはノーヒット。出塁できたのは時たま出るフォアボールだけである。葵はベンチに戻りタオルで汗を拭い水分を補給した。とても悔しい気持ちが胸の内から湧き出るのがわかる。自分は体力の限界で次は投げられない。相手ピッチャーはどうだ。息も切らさず、未だに涼しい顔をしていた。どれだけバケモノなのだろうか。リトル時代から対戦を夢見てきた球磨雪那くませつなと自分のレベルの差はまだまだ埋まらないという事実が彼女に重くのしかかった。




「葵、大丈夫ですか……?」


「う、うん。大丈夫だよ……といっても、ちょっと流石に次の回は投げられないかな。だから、ここでサヨナラを狙うしかないよ」


「そう、ですね……」




 隣に腰かけてきた有栖燕ありすつばめもわかっているはずだ。逆転するために必要な4点を取ることがどれだけ無謀なことかということを、もうこの試合で十分に理解できている。




「ストライーク! バッタアーウト!!」




 まったく手も足も出ない。先頭の5番打者、そして6番打者があっという間に三振に終わってツーアウトになった。やはり、誰もあの怪物に勝てない。中学生で時速150キロはイカレてるとしか言いようがなかった。しかし、、、




「ド、ドンマイドンマイ! まだまだ試合は終わってないよ! 米田くん! かっとばせー!」




 最後まで絶対に諦めてたまるものか。


 まだだ。葵は諦めなかった。まだ、チャンスは必ずあると声を出した。それに触発されてベンチに活気が戻る。これも彼女の一つの武器だろう。彼女のおかげで勇気が湧いてくるのだ。お通やムードにはさせない。何がなんでも出塁して最後の1球まで諦めない。これが七森ブルースの野球である。


 ツーアウト、ランナー無し。最終バッターの米田に精一杯のエールが送られた。




「米田ー!! 監督命令だ!! 死んでも塁に出ろーーー!!」


「そ、そんな無茶なっ!!」




 7番の米田はラストバッターだ。しかし、2人出塁できれば9番、葵の番が回ってくる。そうすれば、なんとか出塁して、1番の燕に回って逆転コースを狙える。これしか黄昏町エスペラントに勝つ逆転勝利の方程式はなかった。


 これまで、七森ブルースの幾度となく奇跡を起こしてきた。今回だってきっと奇跡は起きる。そう信じた。




「ボール、フォア!!」




 ここにきて四球だ。




「え? まじ??」


「よく見た! 米田!!」


「もうけもうけ! 田中も次、ボール見ていけ! あいつ、コントロール乱れてきてるぞ!!」


「よーく見ていけーーー!!」




 ツーアウト、ついに、ランナーが出塁した。


 これが最後のチャンスである。もしかしたら、もしかするかもしれない。七森ブルースの逆転劇が始まるのだ。そして、田中もフォアボールになるのは時間の問題だった。




「葵、あのですね……」


「燕ちゃん、まだまだこれからだよ!」


「……はい」




 この時、葵は逆転劇のイメージをしていた。それしか脳裏になかった。隣で何かを話そうとした親友の言葉も想いも伝わらないほど、彼女は試合に集中していたのだろう。いや、全力のピッチングだったのだ。えらく疲労して一部の思考しかできなかったのだろう。今は全力で田中のことを応援するということしか頭になかったのだろう。次は自分の番なのに、ネクストバッターサークルに待機することも忘れているほどに、、、


 田中も四球になり、ツーアウト、二塁となった。




「おいおい、二者連続フォアボールってマジかよ!!」


「俺たちのチームってほんといつもこれだよな!!」


「おい、赤坂! 次、お前の番だろ!!」


「あ、そうだった……っ!!」


「あ、葵……ヘルメット、ヘルメット忘れてます!」


「あっ、いっけねー……てへぺろん」


「てへぺろんしてる場合かよ! お前、もう限界なんじゃ……」


「赤坂、だいぶ疲れ切っているな。いや、お前に次を託すしかないんだが、大丈夫か? 打席立てるか?」




 まだ、息が整っていない。まだ、肩で息をしている。


 だけども、自分が打席に入らないといけないことは葵も理解していた。このチャンス、燕に繋ぐのは自分の役目なのだと。




「もうお前に頼るしかない。いけるか?」


「はい! 必ず出塁してみせます!」




 葵は燕の方へ振り返った。燕は今にも泣きだしそうな顔をしていた。


 何故、泣きそうな顔をしているのか葵はわからなかった。感極まったのか?正直、葵は面をくらってしまった。行ってきますって言おうとした言葉が詰まる。ここで泣かれたら自分も泣きたくなる。




「葵、ごめんなさい」


「燕ちゃん?」




 それはエラーのことを言っているのだろうか。


 3回の表、あの燕がエラーをして、その流れから3点を失った。大きい失点だった。でも、自分たちはあの怪物ピッチャー率いる黄昏町エスペラントに3点で抑えたのだ。誇りに思うべきだった。


 だから、葵が親友にかける言葉は1つのみ。




「燕ちゃん。この試合、絶対に勝とう!!」


「は、はい……っ!!」




 そういって葵は打席に立った。絶対に出塁してみせる。何が何でも。最悪、命がけでデッドボールをもらっても構わない。相手は制球が乱れてきているらしい。なら、自分にもチャンスは必ずあるはずだ。




(本当にコントロールが乱れている? あの人が?)




 今にして思えば、葵はここで空振り三振になって試合終了にするべきだった。フォアボールも狙うな。デッドボールも狙うな。満塁も狙うな。そう自分に言い聞かせるべきだった。


 打席に入ってからわかることがある。何故か、打席に入って意外と冷静になった自分がいる。


 一見して、制球が乱れているようにピッチャーの球はストライクゾーンをとらえきれていないようにも見えた。第1球目をアウトコースをボール2個分外れた。第2球目はボール3個分高くて外れた。釣り玉だったのだろうか。続いて、第3球目はアウトロー、ボール1個分外れた。


 驚くべきことに、今までまったく見えていなかった球筋が見えた。


 一見して、相手はツーアウトと言えど、このゲーム初めてのピンチを迎えているチームだ。下手に打たれて点が入るより満塁になってもいいからクサイところを突いて、空振り三振を狙いつつボテボテゴロで打ち取る算段なのだろうか。


 しかし、らしくない。


 球磨雪那はそんな小細工も必要とすらしない程の剛速球を投げる。すでにプロの剛腕ピッチャーに匹敵するストレートを投げて我々中学生相手から三振を十分にとれるピッチャーであるはずだ。




「ボール、フォア!!」




 ありえない、ことが起きようとしている。


 球磨雪那の乱調によりツーアウト満塁になり、1番バッターに打席が回ってきた。ここで一発が出たら逆転サヨナラだ。流れは完全に七森ブルースにあった。有栖燕なら必ず奇跡を起こしてくれると皆が期待した。これまでもそうだった。今まで七森ブルースを勝利に導いてきたバッターだ。逆転劇を幾度となく起こしたバッターだ。だから、本当に最後の応援がベンチ、観客席から聞こえた。


 最終回ツーアウトになろうと、何があるかわからない。格上だろうが一瞬でも気を抜けば逆転してしまうことはざらにある話だ。球場の魔物が怪物に牙を向くことさえあり、絶対に負けるだろうと思っていたチームが奇跡を起こすことだってある。今のシチュエーションがまさにそれだ。


 球磨雪那が暴投した。




「ワ、ワイルドピッチだ!! ゴー!! ゴー!!」


「いや、待て!! ランナーストップだ!! 戻れ米田!!」




 ボールは後ろのフェンスを勢いよくバウンドして跳ね返ってきていた。


 もし、ランナーがそのままホームベースに突っ込んだら、十分に捕球が間に合っていただろうしアウトになっていただろう。ランナーは命拾いして3塁へ戻ることができた。




「米田ナイスラン!! バッターもナイセンナイセン!! ピッチャー、崩れてきてるぞ!! 有栖、失投見逃すな!!」




 確かにそうだ。ピッチャーは崩壊気味で失投も十分に考えれる。七森ブルースの天才・有栖燕を信じるしかない。


 そして、、、




「ファ、ファーボールっ!!」


「くっ……!?」




 カキンと金属バットから音が響く。ボールがバットの先に辺り、一塁側ベンチへ転がっていく。相手ベンチのチームメイトの誰かが嘘だろと声を漏らす。




「あ、有栖がゾーンに入った……」




 誰かが言った。ふざけて言っているように聞こえるが本当にこの時、燕は初めてゾーンの扉をこじ開けたのだ。


 漫画とかでよく使われている「ゾーン」だが、一流のスポーツ選手が世界レベルの試合で時たま極限状態を経験をすることがある。超集中状態でプレイすることで、圧倒的にハイレベルなパフォーマンスを発揮することが可能といわれている。例えば、ボールや人が、ゆっくり動いて見えたり、止まって見えたり、時間感覚が歪むことがある。また、野球やテニスボールが、スイカくらい大きく見えることもあるらしい。


 球界を代表するなら東雲姉妹がいい例だろ。長女なんて特にプロ野球観戦でゾーンに入っている所がよくわかる。三女は、チートすぎてゾーンをさらに超えたゾーンに入れるとか意味不明なことをたまに口にするのだが。


 有栖もゾーンに入るほどの才覚があったということだ。ほら、その証拠にわかりやすく青白いオーラが薄っすら見える。球界でゾーンに入った者によく見受けられる現象だ。




「あいつ、マジでか!? この土壇場で覚醒した!??」


「ゾーンなんてプロでも一握りしか使えないだろ!?」


「いや、お前ならできると俺は信じてたーー!!」


「もう怪物も怖くねー!! 有栖ーかっとばせーーーー!!!」




 3球目。バットが真芯を捉える。やや振り遅れ気味のライト線ファールとなった。しかし、ボールは見えていた。捉えていた。150キロの球速も目に慣れ、タイミングも掴んできた。次は確実にスタンドへ叩きこむ期待さえできるというものだ。


 ツーアウト満塁。ワンボール、ツーストライク。


 誰が見ても追い込まれていたのは球磨雪那の方だった。


 天才が怪物に勝つかもしれない。


 そう思っていた。葵以外は。




(ねぇ、燕ちゃん。あの人に何を言われたの?)




 葵はつい先ほどの光景を思い出していた。


 ピッチャーがワイルドピッチをしてホームベースまでカバーに入ったところをしっかり見ていた。そして、マウンドに戻る際に、燕に声をかけていた。ようにも見えた。




(何、言われたの……?)




 そこからだ。燕がゾーンに入ったのは。


 間違いなく球磨雪那が燕に何かをした。何かを吹き込んだのか?何にしろ、きっかけを作った。葵は知らず知らずのうちに誰かに自分の心臓を鷲掴みされているかのような、例えようがない焦燥感にかられた。


 そもそも、球磨雪那を本当に追い詰めているのだろうか。葵にはどうしても燕が追い詰められているようにしか見えなかった。本当は頑張れと声を出したかったが出なかった。


 何故か、ここまでの試合の一つ一つを思い返し、燕がエラーして元気がなくなってきていることを思い返す。


 らしくなかった。


 燕らしくない気の落とし方だった。そもそもエラー自体もらしくない。それは何かに動揺していたから?それは一回の攻撃で初球顔面スレスレの危険球があったから。じゃあ、あの暴投は故意だということに気づかされる。


 球磨雪那の良くない噂は葵の耳にも届いていた。有名な話では自分のストレートを捕れるキャッチャーを探すために自分の通う中学の野球部の人たちに怪我を負わせたというものがある。あのストレートならそれも可能だろう。兄が野球をやめて妹は反抗期に入ってあのストレートは人を傷つけるようになったらしい。


 だから、今回は彼女の気分で燕を標的にされたのか? それは否だ。気分じゃない。もっと明確な敵意があったからじゃないのか。


 球磨雪那は投球モーションに入る前に首筋の汗をぬぐった。怪物でも汗をかくのか。それは不思議ではないだろう。そう見えるだろう。あぁ、彼女はとても狡猾だ。汗を拭うように見せてバッターバックスに立つ燕に首切りのジェスチャーをしたのだ。そう見えた。


 その証拠に燕の顔が強張ったのがわかる。




(そもそも、あの2人は試合始まる前に何を話してたの……?)




 試合が始まる前に燕がお手洗いに行くといって一時的に姿を眩ませた。


 少し心配した葵が探しに行った時に、2人は会っていたようだ。親友の自分には何も知らさず、球磨雪那と会っていたのだ。2人の会話は聞けていない。遠くから2人を発見したから。近づこうとした時にはもう話が終えて燕はこちらに引き返してきていた。あの時、葵は羨ましがった。ただ、何を話しをしていたのかと訊ねると話をはぐらかされた。内緒だそうだ。なら、葵は試合が終ったら挨拶しようと思ったぐらいで、燕の抱えている問題なんてこれっぽちも気づいてあげられなかった。


 燕は親友にも言えない何かを隠していた。親友に打ち明けられなかった何かがあるのだ。


 たとえば、それは怪物をブチギレさせるような話であったのならば、このシチュエーションも納得できる。


 球磨雪那は同学年の中学生相手に敵なしのストレートを投げる怪物だ。いつでも好きな時に三振が取れるのだ。それは言い方を変えれば自分の采配で好きな時に四球を選ぶこともできる。それによって可能なのは、最終回の最高の見せ場に打席に立たせたいバッターを選ぶことも可能ではあろう。


 たとえば、天才をギリギリの極限状態まで追い込み、嬉しい誤算でゾーンまで引き出して、もっと最高にヒートアップしたクライマックスを怪物と天才の互角な熱いバトルを見せることができるのなら、球磨雪那の体裁は保たれる。互角の戦いと見せかけて気のゆくまま有栖燕をぶちのめすことができる。それが、怪物の狙いだとしたら……もう、誰もこの試合を止めることはできない。


 ここから42球。


 少女の孤独の戦いは尚も続いていく。

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