元酔紅線夢譚
ミルキーウェイウェイ
第一部 時を超えて
第1話最悪な日
まあ、なんと美しい青空なのだろう……
朝早くから身支度に追われていたせいで、せっかく庭院に植えた、咲き初めの薔薇をゆっくり眺める余裕すらなかった。
湘夫人は、自分がこの時代に来た日の青空も、こんな風に澄んだ青さであったことを思い出していた。
結局は――
「あの日、
この日は大礼式で、丞相の親族も列席者に含まれている。
しかし湘夫人は、側室の身の上だから式典が始まる前に、ひとりだけこっそり抜け出そうと考えていた。
宮城の主殿である大明殿の前には、夥しいほどの文武百官が規則正しく列を成していた。
その中には、高官とその夫人、宦官、女官、武官、
多分とんずらだ。
これ程の人数なら二人くらい消えたってどうってことないだろう、と考えたのか。
いや無理だろう――
二人共、何処に行ったって目立つ存在だった。
(キラキラっていうか、ムダに眩しい乱反射ですぐに正体がバレそう……)
二人は共に宰相格であり、伯父と甥の関係であり、また湘夫人の養父と夫である。
(二人揃っていったい何処へ行ったのかしら?…………よし、今のうちに私も離れるとしよう。そうと決まればっ!)
湘夫人は裳裾を引き上げ、その場からとっとと退散した。
列に加わる手前で本当に良かった。
あとのことは正夫人に任せれば大丈夫だ。こっちは晴れがましいが、あの窮屈で退屈極まりない席に着くのはまっぴら御免だ。
(側室の身分って便利!最初の頃は、このことであの人と喧嘩してたけど……)
礼装に身を包んだ臣下達や貴賓は、この国の母となる女性の乗った輿の到着を待ち、列の区切りを示す、きらびやかな錦織の
やがて、合図の銅鑼と太鼓が打ち鳴らされると、開いた門扉の内側から、一台の豪華な輿とお付きの女官達が姿を現した。
輿は真っ直ぐに進み、所定の位置まで来ると静かに置かれ、中から
皇后のみが身に着けることを許された豪奢な髪飾りと首飾りが日の光を受けて煌めき、深紅の繻子、綸子の衣装には金糸の刺繍で花鳥が美しく描く……
瑞獣を彫った
主殿の前では、
そして皇帝、皇后が誓いの杯を飲み交わし、二人は互いに手を取り合う。
皇帝陛下!皇后陛下!万歳!万歳!万歳!……
これを遠く離れた回廊から眺める者が二人いた。
一人は初老の男性、もう一人は端正な顔をした青年だ。
二人は伯父と甥。服装は、礼装でも官服でもない平服であった。
彼は、皇帝の妃達の中でも一際輝くように美しい女性、奇氏を苦々しい思いで見つめていた。
「今回はあの高麗の女、奇氏が第一皇后になるのを防ぐことが出来たが、いつまでも無理だろうな。第二皇后の位が空いているからな。陛下の寵愛を一身に受けているあの女は、今にこの国を破滅に導くだろう……」
「確かにその懸念はあります。皇子が生まれれば、宮廷での奇氏の影響力は絶大なものとなるでしょう。既に彼女の周りは高麗人の文官達で占められていますから……」
彼の甥、
「彼女は、私達が手元で孵した
いつ間にやって来たのかと思うくらいに、湘夫人の忍び足は上達していた。
「ちー坊!何でここに居るんだ!?」
丞相は、湘夫人のことをいつまでもこう呼んでいた。
「お前はここに居たら駄目だろう……
「え~嫌です……
二人は互いに顔を見合せて、それもそうだな、と答えた。
「じゃあ、そろそろ戻るか……」
「……はい」
――やはりあの女を陛下に近付けたのが間違いだった、と後悔した。
本来ならば皇帝の目に留まる身の上ではなかった彼女だったが、稀に見る〈冨貴の相を持つ女人〉だから、と熱心に後押しした結果がこれだった。
「……お前達が、いつまでも幸せでいられるよう頑張るからな!」
「ありがとございます、伯父様」
湘夫人は朗らかに笑い、二人の間に入った。
これが彼女のいつもの定位置だ。
「されど奇氏とて、こちらに借りがあるのを忘れていないはず。ここで彼女と仲違いしてしまうようなことあらば、我が一族の将来も危ぶまれるでしょう」
「トクトア、お前…… かの国が差し出した
直情なバヤンは顰めっ面をした。
それとは真逆にトクトアは、見る者を魅力するアルカイックスマイルで答えた。
「それも必要かと…… ただし、権力を行使するのはあくまで私達でなければなりません。高麗もまさかこうなるとは夢にも思っていなかったはず。彼女は高麗王より地位が高くなってしまうでしょうから。力を蓄えるようとする高麗を牽制するのに使うのもありかと」
「いっそのこと権力を握らせてやれ、か……」
バヤンは舌打ちした。
「お二人共、言葉が過ぎますわ。畏れおおくも皇帝陛下がご寵愛される女人ですのに……」
湘夫人は艶やかに光る
六百年後……
鏡の前で、ポツリと呟いた。
「この世は夢、幻の如くなり。って誰か言ってたわね。本当、あっという間に歳をとるのか……」
『
幼い頃から、占いが趣味の祖母に幾度となくこの言葉を聞かされた。
「そもそも占いなんかで人の結婚相手がわかるだなんて、そんなこと信じないわ」
今時白い馬に乗った貴公子様なんているのだろうか?という疑問が絶えず頭の中をぐるぐると回っている。
「お祖母ちゃんたら…… きっと、白い車の間違いだと思うわ」
その歳まで占いを信じてたじゃないか。
実家暮らし。
独身。
恋人なし。
年齢は三十を過ぎている。
職業は作家。
一昔前は、流行作家ともてはやされ得意の絶頂だった私は、秘書をかかえる程の収入があった。
ところが今はどうか。
いったい何処でどう間違ったの、自分の人生はなんだったのか?
あの渾身の力作は、新境地を切り開く筈だったけど――大失敗に終わった。
もう失意のどん底。
黒縁メガネ、真っ黒いおかっぱ頭のきっちりかっちり黒スーツの秘書は、さっさと私を見限り、唐草模様の風呂敷に荷物をまとめると、まるで闇に紛れる盗人の如く去って行った。
「ア――ハハハハハ!
実家が出版社の女友達が、他人の不幸な身の上話を聞いて大笑いした。
「あんたの場合さ、悲喜こもごも、面白おかしく言うから大変そうに感じられないのよ!ねえねえ、エッセイ書かない?あんたの書くエッセイ好評だったんだからっ!あの古今東西体をはった美容法とか、おもしろ名画解説、最高よ!きっと癒されると思うよ。読者もだけど、あんた自身もね」
向日葵みたいな笑顔を見ていると、なんだか元気が湧いてきた。
「じゃあ、書いてみようかしら!」
「そうこなくっちゃ!」
こうして友人に勧められて、エッセイを書いているが、当然それだけやっていける筈もなく。
「生活が大変。一旦……実家へ帰ろうかな……」
小説の失敗がじわじわと心を蝕んでいっている気がした。
身体の不調を感じた私は、街を離れ実家に帰ることにした。
実家は牧場・ハーブ園をしている。
動植物と触れあっていると心も癒され、自然と身体の不調も改善された。
――少しずつ前に進めばいいよ。
私を心配した蘇州とグラースの祖父母はそう電話をしてくれた。
「謝謝……」
「Merci……」
――ありがとう、頑張るよ。
今は実家から約四、五㎞離れた場所にある、食品工場で箱詰めのパートとして働いている。
「よろしくお願い致します!」
工場の作業と雰囲気にも慣れ、それなりに楽しく働いているが、休日は何処にも行かず、のんびりと実家の畑の草刈り等をして過ごしている。
本は、しばらくは書きたいとは思わなかった。
(あれだけ書くのが好きだったのに……)
ところが人生悪い事ばかりではない。
初めての恋人が出来た。
同じ工場で知り合った彼で、誠実そうな人だった。
付き合って下さい、なんて言葉はなかったが、なんとなく付き合うことにした。
ところが同じ工場で働く若い女に奪われた……
それも
付き合い始めたばかりだったからショックだったが、すぐに立ち直れた。
(彼のこと、それほど好きじゃなかったのかも知れない……)
すっかり自信を失った私は、立ち直りたいがために相手の気持ちも自分の本心もどうか、なんて考えなかったのだ。
当然、そんな恋愛は上手くいくはずもない。
こんな自分自身にも腹が立った……
*∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*
私は、鏡の前で気合いを入れる。
「よし!服装もバッチリ!今日はお気に入りのワンピースで行くわよ!!」
皆さんお察しの通り、この日はお見合いだ。
両親は結婚について何も言わなかったが、近所の世話好きのおばさんが、あちこち声を掛けたらしい。
話はトントン拍子に進んで、なんと相手の人と会う約束まで取り付けてきた。
超一流のポン引き?とかしたおばさんには、決して嫌とは言わせないゴリ押しオーラがある。
よく話に聞く、隣近所に住む世話好きのおばさんの「ちょっとちょっと!すごく良い人いるのよ!!」は要注意だ。
〈素敵〉〈良い人〉〈会うだけだから〉の言葉に引っかかると大抵ろくな目に合わない。
はっきり言ってハズレの方が多く、せっかくの一日を虚しく棒に振る羽目になる。
やっぱり自分から動き、何処かの居酒屋の暖簾から厨房を覗く方が、ずっと良い人と知り合えるかも。
なのに私を含め、自分から探そうとしない〈他人任せな夢見る馬鹿者〉のなんと多いことか。
私は初めてそのことに気づいた。占いを信じた私も、大が付く馬鹿者だが。
待ち合わせの指定場所は、K宮博物院の○○門前――11時頃。
これはおばさんの指定だ。
父の車で送ってもらって来たが、約束の時間に、まだ一時間くらいあったので、父と一緒に元朝の特別展〈モンゴル帝国の至宝展〉を観賞することにした。
因みに、元朝の資料は余り残されていないとか。
かつて遊牧民だったからか、記録を残すということに特にこだわりはないのか。
驚いたことに、高い技術で製作された数々の芸術・美術品は、どれも素晴らしく、目の保養になった。
「ほーよく集められたな。大したものだ」
父は感心していた。
白磁の壺に鮮やかなコバルトブルーの彩りが美しい青花瓷、宝石のような七宝焼の香炉、鹿がモチーフの黄金の冠、チンギス・ハーン愛用?の馬の鞍。
フビライ皇帝が皇后の狩の様子を描いた絵――〈元世祖出猟図〉(台北故宮博物館蔵)
絵に描かれているフビライ皇帝の服がすごい。
白貂の毛皮を使った、豪華な上着を着ている。
そして最近、大都遺跡の貴族邸宅跡から出土したという、なんとなくヨーダに似てる?石像。
どこの県から見つかったのか?ちょっと曰く付きらしいダマスカス剛?の槍、今もピカピカ純金製の馬具。
そして――若い女性の肖像画二枚と金のペア
「あら?この女性、なんだか私に似てない?」
父は吹き出した。
「ハハハ、嘘だろ?絵の人の方がお前よりずっと美人じゃないか!まあ強いて言えば、色白なのと髪の色くらいかな」
その女性は、元の宰相の愛妾ツァス夫人と説明があり、油絵と中国画の二枚が存在している。
ということは画家も二人か。
油絵の方は、赤みがかった栗色の髪を黒いリボンで束ねだだけで、濃緑色の
どちらかと言えば質素な服だが、生地の質感からすると、上等な絹に違いない。
画風は繊細で美しく、まるでルネサンス絵画の美女のよう。
中国画になると、これが質素から一転、髪を結い上げて金や真珠の簪で飾って豪華だ。
身なりは蒙古の女性の服ではなく漢服。
髪の色はやや暗めにしてるのは黒髪が美女の条件だからだろう。
同一人物でも、絵の作風や技法が変わるだけで別人に見えるが、澄んだ瞳だけは同じだった。
優しい微笑の美しい貴婦人……
人懐こく、誘うような眼差し。
愛妾というくらいだから、きっと幾度も男性に官能の喜びを与えられたに違いない。あるいはその逆かも知れない。
何故か自分の身体が熱くなるのを感じた。
描いた画家が誰なのかも、描かせた宰相の名さえも不明の謎の絵。
(そういうの好き!いったい誰かしら?ミステリーね……)
それにくらべて、このヨーダに似た石像はいったい何なのだろう。
なかなか愛嬌のある顔をしている。一度何かの原因で頭が落ちたのか?見るからにフラフラ。
このまま絶妙なバランスを取り続け、未来永劫フラフラでいて欲しいと切に願う。
そして今回大注目、大発見なのが、この金の指輪だという。
誘われるかのように展示された指輪の前に立った。
金の指輪は見た目はボリュームがあるが、シンプルなデザインで、内側に何か文字が刻まれている。
(何の文字だろう?)
文字は半分切れている状態。
説明書きによると、実はこの指輪はもともとペアリングだったそうで、二つを合わせれば一つのメッセージになる、合わせ札のようになっているのだそう。
残念ながら、その片割れは未だ見つかっていないらしく、それに関する記録も見つかっていないとか。
( すごく気になる。いつか見つかるといいな……)
じっと指輪を眺めていると、背後からこちらを見ているであろう、ショーケースに映った男性と偶然目が合った。
目が合った瞬間、男性は優しく微笑んだ。
思わず振り返ってみるが、もうその男性は立ち去るところだった。
背の高く、モデルのようなゆったりとした優雅な歩み、後ろ姿に心引かれた。
(あら、素敵な人……)
時間はあっという間に過ぎ去り、指定の時間が間近に迫った。
私は後ろ髪を引かれる思いで特別展を後にした。
約束の○門の前に着くと、おばさんは旦那さんと連れだって来ているが、旦那さんは短い挨拶の後、
どうやら尻に敷かれているらしい。
見合い相手はまだ到着していない。
いや、私の勘違いで、すでにいた。
それは私の精神が、現実を直視してはならない、と無意識に目に入らないよう視覚的な情報をブロックしていたかも知れない。
見合い相手は多分挨拶の言葉を発したと思われるのだが、こっちの耳には「グエ」にしか聞こえない。
(……は?グエですと?ガ、ガマ蛙?)
紹介してくれたおばさんは「可愛らしい性格なのよ~!」なんて言っていたが、いったい全体どこをどう見てそうのたまうのか?
どう考えても誉めるところが一つもないから苦し紛れにそう答えたことは誰の目にも明らかだった。
私も自分の容姿を棚に上げ、人の美醜についてあれこれ言えた義理じゃないが、これはあんまりではないか。
(うわ…… ボランティアでも正直キツいかも)
おばさんはその場を必死で取り繕くろうとするも上手くいかなかった。
もう最後は面倒臭くなったのか、「若い二人の邪魔をしてはいけないわ!」と、相変わらず兵馬俑よろしくのご主人を従え、そそくさと帰ってしまった。
この薄情な父も娘をその場に残し、一度も振り返ることなく立ち去った。
ため息が漏れた……
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