ユイちゃんには逆らえない!

リョウゴ

一章

第1話

 ────過去というのは人が社会に生きる以上、影のように付いて回る。


 誰でも大なり小なり人はそれぞれ過去を抱えているものだ。誰かと遊んだ記憶、幼い日の失恋、テストの成績。そういったものに対して何をしてきたかを小さく、時に大きく積み重ねて、変わっていく。


 要は人は何事もなく急には変われないのだ。だから俺は、変わる時期を見定めて色々した。


 まず俺は勉強をした。それは受験勉強もだが、人付き合いする上でどうすればいいのかを必死に考え、練習した。幸いなことに俺が何か変な行動をしていても周りの反応はなにも変わることはなく、練習しほうだいだった。


 だからなんとか外見に関しては無難な感覚を身に付けたし、自然に喋ることは出来るようになった。いや、多分だぞ……まともに喋ってくれる人なんて同級生に一人居たかどうかだったし。


 ────あれもこれも。全て、高校では楽しく過ごす事を夢見て頑張った。


 そうしてやって来た春の季節。俺は今日から通う高校を見上げると、暖冬で開花が早かったからか、桜並木には緑が目立ち始めている。


 それが否応なしに視界に映る。足下は桜色で埋め尽くされていて、気持ち楽しく他の入学生たちに倣って歩みを進める。


 満開の桜を見ながら入学式、というのは流石に夢を見すぎたかな。なんて苦笑しながら。


 入学生が通る道の両脇には、部活動勧誘の行列が発生していた。野球部やサッカー部、バスケ部、美術部に書道部。他にも沢山あるらしい。


 運動部だけでなく文化部も豊富だ。パンフレットで知ってはいたが実際目にするとやはり高校、沢山の部活があるんだなぁと感激してしまう。


 そうやって舞い上がる俺を冷やかすかのように、ぶわりとひときわ強く風が吹き抜ける。


 身を切るような強く冷たい風に、足元に広がる桜色の絨毯は解けて舞い上がっていく。


 その桜の風の先。列から外れた所にひとり、少女が立っていた。


 彼女は、桜吹雪に黒紫の髪を靡かせてただ一度────微笑んだ。


「──────。」


 たったそれだけで彼女以外のあらゆるものが彼女を際立たせるために存在するのだと、錯覚した。


 自然、俺は彼女の一挙手一投足に目を奪われる。白磁のように澄んだ肌も綺麗に伸ばされた背筋も、強風に細められた目も。彼女の柔らかな表情一つさえも全てが俺の心を握って離さない。


 こんなにも一瞬で心を奪われたというのに。その全ては決して俺に向けられたものではない。


 そもそも、彼女が俺を認識しているかどうかも分かりはしない。


 けれど俺は歩くことも忘れて呆然と彼女に見入っていた。誰かにぶつかり、少しだけ睨まれたけど、その悪態が今の俺に届くわけもない。鼓動が煩く響き、抑えようとする度に更に強く強く、あの少女のことを考えてしまう。


 だってしょうがないじゃないか。こんなの、初めてだったんだから。


「きみ、大丈夫か?」


 気付けば、俺は呆然と足を止めて『科学部』と書かれたプラカードを持った白衣の女生徒に肩を叩かれていた。


「……あ、はい。すいません」


 ────あの場にいたのはまさしく使だった。


「ずっと突っ立ってたけど、早く行かないとホームルームに間に合わないかもよ?」


「…………あ、やべっ。すいません、ありがとうございます!!」


 我に返った俺は時計を確認する。今のは予鈴だったが、モタついていたらあっという間に本鈴のなる時間だ。


 そう考えるとのんびりなんかしていられない。俺は白衣の先輩に頭を下げ、急いで教室へと向かった。




 この高校は進学校。全力で勉強して入った俺が言うのもあんまりだけど、決して低くはないが、高くもないような進学校。


 所謂自称進学校とかいうやつだ。実力ギリギリの入学をしたのはこの学校を希望する中学の同級生は殆んどいなかったからだ。


 原因は実家から絶妙に遠いのと、その偏差値の微妙な高さ。多分、ちゃんと確認はしていないけど他に同級生でこの高校に進学した人はいなかったはず。


 つまりこここそは新天地。誰も俺のことを知らないのだ。転機にはもってこいだ、いざ高校デビュー。


 初めて着る制服のブレザーの着心地はあまり良くない。肌触りが悪いとかではなく、なんとなく、硬い。


 それこそ俺の緊張感が服にまで伝わってしまっているのかって思うくらいだ。もしかして、本当に伝染してるんじゃないか?


 …………そんなわけないか。


 ハチャメチャに緊張してしまったせいかとても下らないことを考えている気がする。只今絶賛入学式中である。しっかりしないと。


『────新入生代表の言葉、新井結音』


「はい!」


 どうやら新入生代表はこのクラスに居たようだ。こういうのは大抵入試の成績が良かった人がやるもの。果たして、学年代表はどんな人なのだろうか。


 列の後方に座る俺からは彼女の姿はあまりよく見えないけれど、とても気になる。


「今日は────」


 明るい髪色で少し背の低い女の子だった。高めの可愛らしい声でハキハキとした喋り口だったお陰か、彼女の話はとても聞きやすい。


 朗らかな笑顔で高校では何をしたいか、その意気込みを語る学年代表。どうやら受験が終わってからはスキーを始めたらしい。


「────ありがとうございました」


 拍手。あっという間に話は終わってしまった。


 そう思ったのは、俺が彼女の話にそれだけ聞き入っていたからだ。これからの学校生活を本当に楽しみにしている様を語る学年代表の姿は太陽みたいに眩しかった。


 高校はちゃんと楽しく過ごしたい、そう改めて俺は思った。




「──よっ、俺は八倉。八倉一郎だ。君は?」


 教室で肩を叩かれて振り返った先に居たのは、八倉一郎と名乗る美男子。


 明るめの茶髪、整った顔。キラキラしてる笑顔。聞けば十人中九人がこれはイケメンと答えるだろう。


 あとなんかめっちゃ近いしついでに良い匂いする。至近距離でイケメンオーラ(いい香り)を感じる……!!


「お、俺? 村上才華、才能の才に、華道の華で、さいか」


 キョドる俺。落ち着け、こういうときのために中三を犠牲に練習したのだ。圧倒的イケメンちからに圧されるな。


 因みに八倉と村上なので名前順になっている席でかなり近かった。というか席、前後だ。真後ろにイケメン。だから話し掛けてきたのだろうが、コレはヤバい、後光が差すぞ。


 そして俺の思考が一つに纏まる────どうしてイケメンは眩いのか。


「才華、か。まるで女の子みたいな名前だ」


「あはは、よく言われるよ。ところで八倉くん、そこの窓から外に出て風を浴びてきたらどう? 大丈夫、安心して。ここは三階だからね、ちゃんと突き飛ばしてあげるよ」


 笑ってごまかした。まさか初対面のイケメンにいきなり言われるとは思っていなかったが、なんとか耐えた。


 女子みたいな名前と言われるのは全く好きじゃない。地獄に落ちろ(短気)。


「……おおう、いきなり死ねと言われるとはとは思っていなかったわ。悪い、名前、弄られるのは嫌なのか?」


「……あ、ごめん、つい癖で言い過ぎた。中学の頃に滅茶苦茶名前いじりが酷かったから俺もエスカレートせざるを得なかったんだよ」


「癖でそれか、くくくっ、はーそりゃ、大変だったんだな」


 イケメンだからだろうか、器がデカい。まさか面白がって笑ってくれるとは。


 それから何事も無かったかのようにイケメンは声の大きさを抑えて肩を組んできた。


「そうだ、才華。このクラスの女子見たか?」


「何を突然……?」


「とてもレベルが高い。特に双子だ」


「双子? 双子なんているのか」


「何てことだ、あの双子を知らない? それはチューペットを凍らせないで食べるくらいの大損だ!! ……チューペット、わかるか?」


「おお、それは大損だ。チューペットはわかる、美味しいよな、あれ」


 チューペットとはチューチューだとかポッキンアイスだとかで呼ばれる冷蔵庫に入れて凍らせて食べる二つ折りに出来るアレのことだ。


 アレを凍らせないとは殆んど別物では? 俺はそう思った。大損だそんなの。


「で、双子って?」


「新井姉妹だ。入学式はちゃんと起きてたか?」


「ちゃんと起きてたよ。新井ってことは……学年代表の事かな」


「そうだ。飛びっきりの美少女JK姉妹だろ? 入試の頃からその話題に持ちきりになるくらいだからな!」


「……話題だったのか。つかわざわざJK言わなくてもわかるわい」


 初耳だ。力強く肩を組んでくるイケメンが当然の様に話すのであれば、その言葉に嘘はないだろう。


「JKって言うとなんかイイだろ? にしても才華、本当に知らなかったんだな」


 名前を改めて呼ばれたが、どうも嫌みっぽく聞こえない。こういうところがイケメンのズルいところだ。


「で、どうする?」


 八倉くんはまだ居ない学年代表の席を指差した。本人がまだ来ていないのは……荷物運びだろう。来る前に呼ばれているのを見た。


 その真後ろの席に座るを放つ黒髪の女子生徒。恐らく彼女こそが学年代表である新井結音さんの双子の姉妹だ。


「どうするって?」


「お近づきになりたくないか?」


「……あの子に?」


 完全に周りへと睨みを効かせて近付いてこないようにしてませんかあの子。


 だってほら、彼女を中心として人口密度がドーナツみたいになってるもの。


「ははは」


 さすがにイケメンもこれには乾いた笑いだ。


 ただ────彼女を見て、俺は一瞬だけ思った。


 この人今朝見たあの天使じゃないか?


 今朝の天使は天使!! って感じだった。仏頂面を通り越した凍てつくような敵意が服を着て重力を発生させてるあの女子がまさか同じ人とは思えない。


 勘違いだろう……が、それはそれとして一瞬だけでも思ったのだ、その真偽はとても気になる。


「やはり行くのか、俺も行こう」


「八倉院」


 俺が立ち上がるのを見て、八倉も立ち上がる。


 ……それから少ししてイケメンフェイスを歪めた。


「……八倉院ってなんだ八倉院て」


「じゃあ正倉院」


「誰が校倉造りだ」


 そう言いながら自然に八倉も着いてくる。なんでついてくるんだこの人。


「なんか面白そうな匂いがするんだよな、君」


「とんでもねぇ理由だった」


 え、どんな嗅覚してるの? 面白そうな匂いってなに。戸惑う俺に、八倉は問い掛けてきた。


「で、どうやって話しかけるか決めてるのか?」


「……そりゃ挨拶とかほら、色々……」


「この状況でか?」


 彼女を中心としたドーナツ化現象。ただこれは全てが様子見であり、誰かが破れば直ぐにストローで吸われるタピオカみたいにわらわらと集まってくるに違いない。さながら彼女はタピオカ専門店か。いやタピオカ専門店ではないが……?


 正直俺のコミュニケーション能力はあまり高くないという自覚はしっかりとある。答えはすぐに出た。


「……無理だね。俺には無理」


「だが俺は行ける。ついてこい」


「自信満々だなあ」


 さすがイケメン、タピオカミルクティーは好物というわけだ。


 へらへらと空洞になっている彼女の元へと歩み寄る。なんとなく視線が刺さるなかを堂々と歩く八倉くんは超カッコ良かった。


「お、おおおお、おおは、おは、はは、おはようございます」


「おい」


 ──俺は秒で手のひら返しした。ダメだこのイケメン!!!!?


「…………何。発生練習なら窓の外に向けて言ってくれる?」


 挙動不審の挨拶に、彼女は氷のような眼差しを返す。大分辛辣だった。八倉くんはまるで腹に氷柱をぶっ刺されたかのように八の字に折れた。


「死んでしまうとは情けない」


「死んでねぇよ!! 」


「あ、すいません。うちの八倉が迷惑を掛けました。ほら! 下がるわよっ!」


「才華母さん……」


「その名前で呼ぶんじゃねぇよ今すぐ表で発声練習するか? ああ、外に出るの面倒だよな手伝ってやろう、さあ窓の外に体を乗り出せ」


「お前っ、手伝うって突き落とすつもりだろ!? やだよふざけんな!!!」


 やいやいふざけ始めた俺ら二人に向けて彼女は冷ややかな目線を向けた。


「……それ、漫才か何かのつもり? まだ晴宮さんの一発芸の方が面白いのだけど」


 第二声すら辛辣だった。


「晴宮さんって誰?」


「……晴宮さんは晴宮さんよ」


 いや誰。


 しかし彼女の表情に僅かながら羞恥の色が伺える。俺は紳士なので追求はしない。


「晴宮さんって誰なのかもっと詳しく教えてくれない?」


「その頭……何処かで見たわね。ミルクティーに入ってなかったかしら? ほら、最近話題の。太りそうなところ、そっくりじゃない?」


「いやタピオカじゃないが!? ひどいな、おい!!」


 しかし八倉は紳士じゃないので追求して返り討ちに遭っていた。


「ともかく、騒がしくするなら────」「────よーっし!着いたあー!! あーー重かったぁ!!」


 彼女の声を遮るように叫びながら教室に入ってきたのは学年代表、新井結音。


 ドスーン、と顔の前まで積み重なっていた本の束を教卓に置いた。あの量、十キロはあるだろう。


 俺だと、持てるかどうか怪しいな。


「ふぃー、終わった終わったー」


「お疲れ、結音ちゃん」


「お疲れだよ妹ちゃんは。労っとくれー……って君は……んー?」


 新井結音さんが俺に詰め寄る。彼女のふわふわな茶髪が額を掠めるほどに近付いてきた。その近さ、吐息すら当たるほど。


 美男美女ってなんでこう、良い匂いがするの?


 すごい、なんの匂いかはわからないけど良い匂い。いや息がとかじゃなくて。いや息もそうだけど。マジ近い。なにこれ近っ。ふわ、ちかすぎ。


 彼女の柔らかな睫毛から覗く黒瞳がじーっと俺を観察。むり、余裕がなくてもう顔なんか向き合わせられるわけないぞ。


「な、なに?」


「んんー? んんんんーっ??」


 下がる俺。同じだけ距離を詰める学年代表。


「お名前をお伺いしても???」


「村上、才華……漢字は、前の席順見たら書いてある……」


「おお! やっぱりサイ君だ!! 覚えてる? 私! 小学校の頃によく遊んでたユイだよ!」


「ゆ、ユイ? ……ああ!思い出した! ユイちゃんか!?」


「おお、当たった!! いえーい!」


「──!?」


 俺は言われて思い出した。


 何故か手を出してきたが、勢いに呑まれて結音ちゃんとハイタッチする。


 ユイちゃんは小学四年の頃に引っ越す前まで仲の良かった子だ。よく公園で遊んだのを覚えている。


「わあユイちゃんか……昔よく遊んだよね! 懐かしいな」


「ねー!」


 突然の再会に完全に俺は当初の目的を忘れて舞い上がってしまった。懐かしい懐かしいと思う一方で、ただひとつだけ違和感があった。


 ユイちゃんってこんな明るかったっけ? もっとこう、大人しかったような……。


 まあ、外見ではなく性格の話である。そんなの思い出補正かと言ってしまえばそれまでだ。


 そうやって結音ちゃんと感動を分け合っていたら、先生が教室に入ってきた。


「あ、倉木先生、ちゃんと運びましたよー、ほんと乙女に運ばせる量じゃないですよそれー」


「おう、ありがとうな。よし、じゃあ席に着けー」


 先生の塩対応に結音ちゃんは可愛げのある文句を良いながら着席する。


「ほらな、面白くなっただろ?」


「そう?」


 八倉くんが俺の背中を叩いて席に戻る。それに倣って俺も自分の席へ戻った。



 ────我が校の一学期のイベントはテストだけではない。


 4月の末にある勉強合宿。五月の中間テストの直後と七月の期末の後に控える球技大会。あとは6月の半ばに行われる体育祭だ。


 文化祭は9月の末にあるが一学期の内から準備するらしく、それもまたイベントと言って良いんじゃないかな。


 高校生は青春の象徴だ。どうやら大人になるとこのちょっと面倒くさそうな日常がとても大切なものに思えるらしく、俺の『楽しい高校生活を送る』という目的はきっとそれに通じている。


 後悔にしないためにはやはり積極的にイベントに参加して、全力で生き抜くしかないのだ。


 つまり学校行事、頑張ろー! という意気込みがあるのだよ。八倉くん。


「どことなく受け売りっぽいけど」


「うん。学園青春ラブコメと銘打たれたラノベを沢山読み漁って思ったことだもん。高校生活の予習は充分してきたよ」


「ラノベはしょせんフィクションだと思うんだが────」


 黒板を見る。先程委員会の割り振りが決まった。その結果が書いてある。


『学級委員:(男)村上才華』

『学級委員:(女)新井凜音』


「────だとしてもこの結果を呼び寄せるならあながち間違いじゃあないな。ほんと面白いな、お前w」


「わかるでしょ八倉君、助けてよ……無理だよ、新井さんずっとあの態度だよ?」


「さっき進行やってた感じ大丈夫そうじゃないかね」


 そんなわけあるか。俺は先程の出来事を大まかに思い出す。


 ────真っ先に決まった学級委員に先生はあろうことか司会を丸投げしてまだ自己紹介くらいしかまともに会話がないクラスの委員決めをさせたのだ。


『さて、手早く終わらせましょう』


 ────どことなくやる気を感じさせる新井さんに、俺は負けないようにやる気を見せて司会をしようとした。


『村上くんはそこで指を咥えて見てなさい』


 ────そこで、いきなりこれである。反論してもしょうがないので、言われた通り彼女に任せた。


『この委員会に入りたい人は居ないみたいね。あなた、やりなさい』『やれ』『あら、あなたの首の上が飾りだとは思わなかったわ?』『まだ文句があるのかしら。はぁ、とても根性があるようね。良いわよ、気が済むまでその風船のように中身のないお飾りのそれ、叩いてあげるわ』


 ────割って入った。なんでこの人こんな喧嘩腰なのだろうか。


 俺はその後、とにかく穏便に済ますようにとにかく新井さんを抑えつつ司会をこなしたのだ。


「……ダメでしょ、あれは」


「確かに新井姉は張り切りすぎだったかもしれないが、端から見てる分には面白かったぜ?」


「面白ければ良いってものじゃないでしょ。というか張り切ってアレならちょっと抑えてほしいよ」


「ま、難しいんじゃねぇかなー」


 八倉くんはバイトがあるんだぜ、と言って颯爽と帰ってしまった。俺は人っ子一人残っていない教室の後片付けを学級委員としてやっていた。


 どうせ黒板と黒板消しを綺麗にするだけだ。新井さんはやろうとしていたけれど、それだけの手伝いなんて要らないからとちゃんと帰した。


 ばーっとやってばーっと帰ろう。



 ……よし、終わった。


「って、これ。忘れ物かな?」


 ふと、机の下で横倒しになっているスクールバッグを見つけた。その中から何冊かノートがこぼれている。


 …………。


 机は、廊下側の一番前だ。結音ちゃんの机だろう。なら、このバッグとノートは結音ちゃんのかもしれない。


 ノートは見たところ普通の大学ノート。表紙にはNo.24とだけ書いてある。シンプルなだけあって何に使っているのか、内容が想像つかない。


「…………」


 ふと、誰もいない教室ということもあって、ノートを見てみたい欲求に刈られた。


 ほら、よくある長文タイトルよりもナントカのナントカみたいな短いタイトルの方が俺は好きなのでね?


 ユイちゃんのだし、かなり気になる。その気になり度合い、ノートそのものが吸引力を発しているんじゃないか。そう思うほどだ。


 …………ちょっとだけ。そう思って適当なページを開く。折り目の癖で書きかけのページを開くことが出来た。


 ──『倉木先生は人使いが荒い』──『大塚先生は愛妻家』──『教頭先生はカツラ』──。


「なんだこれ」


 中身は、大半が他愛もない誰かの好き嫌いのメモだ。どっかで人付き合いのコツはこうやってメモることと聞いたこともある。


 結音ちゃんはどことなく人に好かれそうな振る舞いをしていたけど、こういう努力が裏にあったんだな。と感心するまであった。


 そう思いながらペラペラとページを捲る。


 ──『:』──。


「は……?」


 明らかに様子が変わったページがあった。何度も消して書いてを繰り返したのか、黒く変色したページに、とても穏当とは思えないタイトル。思わず変な声が出てしまうくらいには動揺しつつもその内容に目を通そうとしたところで、何かが聞こえた。


 ────タッタッタ。


 それは廊下から走ってくると思しき軽い足音だった。俺は慌ててノートを置きバッグの口を閉じて机の上に静かに置いた。


 急いで荷物を片手に俺は足音を殺して足音が入ってくる側とは別の扉から入れ違うように教室を出て隣の教室に隠れた。


 徹底して隠密したのは、バレたら不味いような気がしたからだ。だけど、ここまでする必要はあったかなぁ。ないかもしれない。


 ────何だったんだろ、あのノート。


 俺は、足音の主が立ち去るまでそれを考えたけれど、結局答えは出せなかった。



 ────予想はついていると思うが先のノートは新井結音のものだ。そして、あの足音はバッグを取りに来た新井結音のものだ。


 教室に戻った彼女はバッグを回収し、そのまま下駄箱で村上才華の靴だけが残っているのを確認した。そもそも入学式の日は部活停止だ。早く帰るように学校から何度も通達されている。


 もうわかるだろう。


 隠れることには意味がなかった。隠れて疑われるくらいなら、堂々としているべきだったんだ。


 後から村上才華が振り返って、ひとつだけ行動を変えるなら? と聞かれれば間違いなくこう答えるだろう。


 ────『下校途中のガチャガチャは絶対に外れるから引かない方がいいよ』と────。


 ◆◇◆


「こんばんはー、才華くん」


「えっ…………なんでここに?」


 扉の前に、結音ちゃんが居た。アパートの一室、親と交渉してなんとか勝ち取った一人暮らしする用の一室である。


 もう一度言う。ここは俺の家の前だ。


 そんなところに待ち構えるように立たれていたら、そりゃあ驚く。


 参ったな、さっきガチャったリアルカエルガチャ、そのうちで一番よく出る『ぷにぷにアオガエル』が俺の右手インハンドしてるんだけど。


 目当ては激レア『蛇を従えて天下統一する武将ガエル』だ。しかしアオガエル、とにかく沢山出る。むしろアオガエルしか出ない。排出率バグってるでしょ。


 ダブりどころではない。それでもアオガエルは部屋に十匹位あるのは、そもそもこのカエルは造形が一匹一匹が絶妙に差別化されている上に可愛いので捨てられないからだ。ぷにぷに。


 可愛いものは仕方ない。可愛いは正義。保護しなきゃ……!


「私んち、ここなの。もしかしたら隣の村上さんて才君かと思ってさー、ちょっと外出てみたら、ね?」


「えっ嘘、マジで!? スッゴい偶然!!」


 そう言って指差したのは、隣室。表札に新井と書いてある。


 すごい偶然だ。俺が一週間前に荷物だけ運び込んだときには隣室はまだ空室だった筈なので気付けなかったらしい。


 運命を感じてしまい、俺は感動した。ちょっと昔の話とかしたかったのだ。


 ノートの話は少し気になっていたけれど、結音ちゃんの持ち物と決まった訳じゃない。


 もしそうだったとしたら少しは止めたいところであるけれど、別にわざわざ口に出して聞くことでもない。


「…………えっと」


 結音ちゃんがなにかを言いにくそうに頬を掻く。とりあえず俺は右手のカエルをポケットにしまう。


「さて才君、問題ですっ! 私達は何年ぶりの再会でしょーか?」


「え、っと……?」


 ユイちゃんと会わなくなったのは小四の頃だ。だとすると、五年かな?


「五年ぶり、かな?」


「せーーかいです!! うん、才君が覚えててくれて嬉しいよー。正解した才君には私のうちでお茶を披露いたします! ささっ、どうぞどうぞ!」


「えっ、ありがとう……でもちょっと荷物置いてきて良いかな?」


 結音ちゃんが近づいてきて、ふわりと笑って俺を新井家の扉に入るように促そうとする。


 距離感が近いのはきっと結音ちゃん流の処世術だろう。誰にでもやっているのだと必死で思い込まないと勘違いしてしまいそうだ。


「別に荷物ごと来てくれて構わないよ?」


「俺が構うよ。置いてきちゃうね」


「うん、わかったよ」


 俺は逃げるように距離を取って、自宅の扉に入る。


「待ってるから、ね?」


 手早く荷物を置いて……。そういえば女子の家というものに立ち入るのは殆ど始めてな気がする。普通、何か持っていった方がいいのだろうか。


 今、家には贈れるものが何もない。想定外だ、どうしようもない。まさか既に待っている結音ちゃんを更に待たせて今から何か買いにいくわけにもいかないので諦めて隣室へと突撃した。


「まあ、いいよ? 全然私たちそういうの気にしないから」


 あっけらかんと結音ちゃんは言った。気にしている様子は確かに無いけれど、後でちゃんとした物を送ろうと俺は決心した。


 双子だけで二人暮らしていると聞いて、わざわざお茶なんて貰うのだし、なにもしないのは失礼だ。


 それに俺もこれから一人暮らしだ。結音ちゃん達ともお隣さんとして仲良くやって困ったときは助けてもらおうという下心はある。何が起こるかわからないし。


「こ、これは三年前に限定発売された『アーマードウシガエル』!!? なぜこんなところに……」


「あ、それお姉ちゃんのコレクションだから触らないでよ。触られたくない気持ち、才君ならわかるよね」


「まあね。下手に弄って壊したくないからな、こんなレアもの……あ、これ『剣聖アシナガエル』雷返しバージョン……!?」


 ……というか定期的にこのコレクション見たいという下心しかない。レアガエルだらけじゃん、この家。


 見たところ、結音ちゃんはこのコレクションにはあんまり興味なさそうだ。


「靴があったけどお姉さんは?」


「お姉ちゃん? 部屋でまたパソコンでもやってるんじゃないかなー。お姉ちゃん、いっつも暇があればパソコン弄ってて、しかも大体ヘッドフォンしてて周りの音聞こえてないし、実際居ないものとして気にしなくていいよ?」


「このコレクションについて語り合いたかったんだけど……」


「あ、才君お茶、紅茶緑茶午後の紅茶と烏龍茶あるけどどれが良い?」


「烏龍茶がいいです」


「あいーわかったー」


 リビングは無地の黒いカーペットにいくつかの白いクッション、ちゃぶ台。テレビもあるし、本棚もある。部屋の彩度は薄く、中々に地味だ。飾り気と言えば大きめな観葉植物があるくらいだ。あと無数のカエルコレクション。


 もっと可愛らしいものを想像していたが、幻想の持ちすぎだっただろうか。あるいはまだ、というだけだろうか。俺は女子じゃないのでわからない……女子とは……?


「まあまあいらっしゃい才君、烏龍茶だよ」


「ありがとう、結音ちゃん」


 ちゃぶ台に烏龍茶を置くと、これまたシンプルなデザインのコップに並々と注いでいく。


「どぞ」


「いただきます」


 俺は出されたお茶を飲む。そのようすを対面に座った結音ちゃんは両手を頬杖してにやにやと眺めてくる。


 そして。


「そうだ才君、ノート、見たでしょ」


「……っ見てない、よ。ノートって、……何?」


 ────危ねええええ!!! よく今顔に出すのを耐えたな!! 流石俺!!


 驚きすぎてお茶が気管に入るところだった。結音ちゃんはにやにやとした笑いを引かせることなく俺を見ていた。美人は笑顔で威圧感を出すことが可能なの狡いと思います。対抗して俺も笑顔笑顔。


 ハッピー! ラッキー!スマイル! イエーイ! の精神だ。笑っときゃなんとかなる。笑顔は世界を救うので。


「才君、下手な嘘は良くないよ。見たんだよね、このノート」


 それはNo.25と書かれたノートだった。まるでやましいことはないと宣言するように結音ちゃんはペラペラとノートを捲ってみせる。


「こういう風に人の特徴一回書いておくとさ、忘れないんだよね。そのためのノートなんだ」


「…………」


 中身はとても綺麗だった。書き方もそうだし、書かれている内容もとても綺麗だった。好きなところ以外書いていない。


 更に踏み込んでしまえば、内容が。まるで急いで書いたかのように字が走っているし、しかも数ページだけしか埋まっていない。


 No.24のノートとは大違いだった。だいたいあのノートは途中までしか使われていなかったし、鉛筆かシャーペンか、炭が滲んで汚れていた。


 なんのつもりなんだろう……。


「────そろそろかな。才君、どう?」


「どう、って?」


 え、そろそろ……って何? こわい……。


「ノートだよー、こういうの、変かなぁ?」


「変じゃないと思うよ。こういう努力で人と仲良くなれたりするんでしょ? こんなに人の良いところ書くなんて俺には出来ない、し……ふぁあ……」


「そっか、良かった」


 えへへ、と笑う結音ちゃん。


 というか、あれ? 眠……?? ん?? 急に眠気が来たな……。


「あれ、もしかして眠い? じゃあ悪いしお開きにしよっか」


 結音ちゃんは立ち上がった。追うように俺も目を擦りながら立ち上がる。


 言われた通りにした方がいいだろう。眠気が来たからといって人の家で眠るなんてのはあまり相手の気分によろしくないだろう。


「もうちょっと話したかったけど……、そうした方が良さそうかも」


 しかし、なんの予兆もなく急に眠気が来たな。そうやってなにも考えずに結音ちゃんに着いて歩いていると、廊下の途中で突然結音ちゃんは振り返った。


 俺は慌てて立ち止まる。


「ねえ才君、ごめんね?」


 そして後頭部に突然の衝撃。


「──痛ぁっ!?」


 鈍痛に眠気が飛ぶ代わりに、背中を押すような衝撃に俺は体制を崩した。足がもつれる。


 ────眠気ぇ────ッ!!!


 縺れた足。転ぶのは不可避。


 危険を察知したのか、今の眠気が嘘のように視界に映るもの全てがスローモーションに見える。


 あ、目前の結音ちゃんに頭突きしそう。それはダメ。別のところにぶつかりそう、唇とか。それはもっとダメ。しっかりしてくれ俺の意識ーーーッ!!!


「わ」


 結音ちゃんの唇が蠱惑的に震え、驚愕で目を見開く。


 彼女の黒い瞳に吸い込まれるように────待て落ち着け回避しろスローモーションで可愛い子の顔を堪能しようとするな俺ぇ!!!


 避け、あ、無理。


「ったぁー……」


 ────ドン、と俺は大きな音を立てながら床に手を突いた。しっかりと結音ちゃんを押し倒ているかのような姿勢で。


 胸を触るなんてベタなことにはなってないが鼻先が触れあうほどに顔が近い。


 それだけで顔が暑い。


 結音ちゃんは、一瞬目を白黒させてから状況を理解して顔を赤くしてあわあわと口をわななかせる。


 ────カシャッ


 その音と同時に、結音ちゃんは今の一切が嘘だったかのように────


 明らかに結音ちゃんの様子が変だ。眠い頭でもそれははっきりわかる。


「な、なに……したの」


 言いながら後頭部の衝撃の正体を探ろうと俺は振り返る。


 そこには金タライが天井に吊るされ、ふらふらと揺れていた。タライって。


 なんか古典的だ。


 しかし俺は天井にタライが仕込まれてたなんて全く気付けなかった。


 ────まさかユイちゃんが俺を罠に嵌めるだなんて。


 動揺と眠気でともかく思考がぐちゃぐちゃだ。そんな俺を押し退けて、結音ちゃんは嗤っていた。


 そのまま愉しそうに観葉植物の奥に隠れていたカメラを取り出すと、俺の前に戻ってきた。


「……ははっ、上手く行ったー、才君もうちょっと疑った方がいいよ」


 結音ちゃんがしこんでいたのは撮って直ぐに写真が出てくるポラロイドカメラというやつだろう。それで現像された写真を結音ちゃんは俺に見せ付けてくる。


 はっきりと俺の顔が映っている。俺が結音ちゃんを押し倒しているように見える写真が。


「それは……どういうつもり……?」


「……見たんでしょ? 私のノート。内容、口外してほしくないの」


の、事を知ったから……? それを見られたから……それだけのために!? もしかしてこれ、口封じのつもりだったの!?」


 超びっくり。わざと押し倒されたのがたかがノートの口封じのためらしい。たかがそれだけのために男に押し倒されるだなんてとても危険な行為、釣り合っているとは全く思えない。


 俺のその口振りが気に入らなかったのか、結音ちゃんは口をへの字に曲げて怒った。


「バカにしてるの?? 別に良いけど、ちなみに今、お姉ちゃんに助けて貰おうってつもりなら諦めた方がいいよ。今頃イケメン声優の催眠音声でぐっすり寝てるから。一度寝るといくら蹴っても起きないのよ」


 蹴ってるのか。


「コレ、バラ撒かれたくなければノートは口外禁止、いやそれじゃ生温いよね。逆らったらバラ撒く!」


 その写真でどうするか、今決めてないか? 実は行き当たりばったりなのか??


 結音さんの浅慮が見え隠れするのはちょっと可笑しかったけど、しかし困ったな。


 たかが写真1つとは言えきっとこの女子高生が全力で周りに『押し倒された、抵抗したのに……よよよ』と泣き落としにでもかかれば、間違いなく俺の反論は認められずに圧殺される。


 その様子が簡単に想像できた。今の俺は結音ちゃんの裁量1つで社会的に死ねるわけだ。


 なるほど……それはすっごい困る。マジで困る。


「わかった!?」


「………………その前にひとつ良い?」


「何?」


「むり。ねる」


「は? あああああああ!?」


 俺は眠気に逆らえずに眠る。多分睡眠薬を盛っていたんじゃなかろうか。だとすれば眠いのは俺は悪くない。仕方ないよなー、睡眠薬のせいだもん。


 ………………………ぐう。


「ああもう、お姉ちゃんにバレないように────」


 眠りに落ちる寸前に、最後に何か聞こえた気がしたけれど全部は聞き取れなかった。


多分あんまり意味はないと思うけど。


 ────しかし濃い一日だった。入学式の後に再会した女の子から社会的に死ぬか復讐を手伝うかの選択を迫られる日なんてものは、それこそ一生に一度あるかどうかだろう。


 楽しく過ごしたいのに、人の復讐に手を貸すなんてやりたくないけれど代償が社会的に死ぬのなら拒否権はない。


 どっちも選びたくねぇ…………。


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