神に愛された男

諸行無常

第1話 神に愛された男

 彼は落ちていた。地上に向かってかなりの速度で落ちていた。たったの数秒間。だが彼が一生を振り返るには十分な時間であった。

 彼が生まれた時、彼の父親は死んだ。その後、母親の手で育てられた。彼の母親は自由奔放で自分のことで精一杯であり、自分のことしか考えていないような女だった。常に彼を部屋に閉じ込め遊びに出かけた。酷いときは次の日に帰ってくることさえ在った。その間彼はご飯も食べることができず、水をのむことさえできない時も在った。


 ある時、母親は彼を置いて帰って来なくなった。

 彼が発見されたのはアパートの大家が、家賃の取り立てに来て鍵の掛かっていなかった部屋の中を確認した時だ。

 既に彼は衰弱し、痩せ細り、何時いつ死んでもおかしくない状況だった。だが彼は死ななかった。強運にも彼は生き延びた。しかし、それは強運などではなかった。彼は施設に引き取られ、そこで少年時代を過ごすことになる。

 施設では、悪が蔓延り年上のものが年下を操り万引きを繰り返させた。彼も仕方なくやらされていた。そして、警察に捕まった。

 施設の子供達は彼がやったと証言した。全て彼がやった事になっていた。彼はやらされたと主張したが彼の証言を信じるものは居なかった。そして、彼だけが少年院に入れられることになった。

 彼は生来の真面目さから少年院でも真面目に過ごした。しかし、それが気に食わないものが彼を毎日殴った。看守は見て見ぬふり。彼の味方は誰も居なかった。

 少年院を出ても、社会は彼を受け入れなかった。やっと見つけた車の整備会社では先輩社員が会社の売上を横領していた。彼は先輩社員に目をつけられ仲間に引き入れられるのを拒んだ。そこで、先輩社員は証拠を揃えて彼を横領犯として警察に密告した。

 結果彼は業務上横領罪で起訴され有罪とされ、同僚の証言で、横領の行為態様が悪辣であるとして執行猶予はつかなかった。

 そして8年の実刑を終え、彼は高いビルの上に登った。人生に絶望し、運の悪さを呪い、自分の手で人生を終えようと屋上から地上へ向かって飛び出した。



 そして、数秒後、彼は死んだ。


 その数秒間のうちに彼の頭に響いてきた声がある。


 私はヘパイストス、神だ。私はお前を許さない。私はお前に苦難を与え続けた。時にはお前が死なないように手を尽くした。それは、お前を助けたのではなくお前に苦難を与え続けるためだ。それをお前の手で私の復讐を終わらせることなど許さない、こんなことで私の復讐が終わるわけがない。終わらせることなどできない。お前が死んで終わらせるのなら、私はお前から全てを奪い、お前に死なない体だけを与えよう。そして、お前が本当に後悔するまで苦難を与え続けよう。


 気がつけば彼は水の中にいた。ただ、漂っていた。


 彼には何も残っていなかった。すべて神に奪われた。体さえも。ただそこには魂の入れ物と呼ぶには小さく壊れやすく、そして手や足や頭さえ無い体だけが在った。彼はすべてを奪われ単細胞生物であるアメーバに生まれ変わっていた。しかし、前世の記憶がある事で思考する事もできるが苦痛も感じる。彼は、喜びはなく只苦痛だけが存在するこの体で苦難を受け続けなければならない。

 そして、神が唯一与えた「不死」という能力によって苦難が終わることはない。


 しかし、何もかも全て奪われた彼の体の中にはたった一つの「進化の芽」という希望が別の神から与えられていた。


 その神の名前はアフロディーテ。彼女はその美しさ故、彼を愛していた。それほど彼は美しかった。だから神の嫉妬を買った。アフロディーテを魅了する彼に復讐し続けることを決めた。神は彼の前世でもその前もずっと復讐し続けていた。そして、彼が死に転生するとまた苦難を与え続けたが自殺され復讐を邪魔されたことで神・ヘパイストスの怒りは頂点に達した。ヘパイストスの復讐は復讐と呼ぶにはあまりにも自分勝手で稚拙で、ただの嫉妬だった。彼はヘパイストスに対して何もしていないのだから。単にいくつか前の前世においてアフロディーテに惚れられたという理由で神から復讐されることになる彼は哀れであった。


 だからアフロディーテは「進化の芽」を彼に、神にはばれないように与えた。


「アレス、それを使って。もう一度、戻ってきて・・」


アフロディーテは目に涙を浮かべ切実な思いを込めてアレスと呼ばれたアメーバに向って言った。

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神に愛された男 諸行無常 @syogyoumujou

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