ご近所の看板姫さま。
奇水
序段 看板姫さま、市井にて饂飩屋を営むまでの事
「我が国はいつ滅びるか解らないからな」
というのが彼女の父の口癖だった。
何処まで本気であったのかはさすがに解らない。解らなかったが、仮にも皇家の末女であった彼女に対しての過剰きわまりない教育をしたことを鑑みれば、その言葉は本音であったようでもあり、いつも陽気で冗談の絶えなかった父の普段の様子を思い返せば、それらの諸々の修行も思いつきの冗談でやらせていたのかもしれない。
そう。
修行だった。
世間の人間が考える皇女がやらされる修行とはどのようなものか、彼女は知らない。いわゆる花嫁修業のようなものは確かにやらされたが、炊事洗濯のような家事というのは自分以外の皇族はやらされなかったはずだ。いやいや、思い返せば菓子づくりや刺繍などが趣味だった姉もいたはずで、姉上らもあるいは自分のような修行をやらされていたのかもしれない。だけどあの人らは自分ほどの根性はなかったのだろう。あるいは自分ほど無駄に負けん気が強くはなかったのだ。彼女は記憶を掘り返しながら、今となってはほとんど意味のない推測を積みかさねていく。もはや何処にも存在しない姉や兄や父の姿を瞼の裏に思い返しながら、考える。多分、父はほかの兄弟にも自分と同様のことをやらせてみて、最後までついていけた人間は自分しか残らなかった――というのが一番ありそうな可能性に思えた。
炊事にしても洗濯にしても、一日でやらされたのは並大抵の量ではなかったし、その上に武術やら軍事政略、歴史地理数理宗教神学、ありとあらゆる学問も同時に修めることを強要された。あれらのすべてをこの身のうちに収められたというのは自分の器が大きかったというよりも、やはり無駄に負けん気がほかの兄弟よりもあったからに違いない。天才よ神童よと讃えられた姉や兄達に比して、彼女はほとんどその技量のほどを褒められたことがなかった。知識であれ武術の腕であれ、彼女を上回る兄弟は何人もいた。
そんな兄弟に比べられるのは惨めに思えたし、なんで自分だけがこんなことをやらされているのかということについては、疑問を覚えなかったこともない。
しかし、今となってはそれらの修行のおかげでこうやって生き延びられている訳だから、やはり感謝しなくてはいけないのだろうと彼女は思っている。
これらの成果は無駄になってしまった方がよかったものだろう。多分、やらせていた父にしても教えてくれていた師範かたがたにしても、自分がこんなことを役立たせることなく一生を終えることを望んでいたのは、絶対に、それこそ間違いのないことだった。
大陸より侵攻してきた央国に和国が屈したのは、もう二年も前のことになる。
まがりなりにも独立を千年に渡って保っていた和国であったが、その時より央国の藩国となりさがった。皇族はほとんどが戦死、あるいは処刑され、生き残った者もほとんどが幽閉され、あるいは支配者たる央国の宮廷に送られるか慰み者として将軍達の后とされた。
それ以外の皇族の血に連なる者たちの多く――貴族と呼ばれていた者たちは、家財を没収され、公職を追われることを余儀なくされた。
いずれかつての支配者階級にいた者たちは零落の一途を辿り、敗戦以降において行動の制限を受けなかった者はいなかった。
ただ一人の例外を除いて。
「よし、煮えた」
彼女の胴体より巨大な寸胴鍋にかぶせていた蓋を台に乗って取り、中身がちゃんと煮えているかを確認すると、台に乗ったままで「そっちはどう?」と三つ隣で同じく鍋をみていた青年に声をかける。
「もうちょっと」
「やっぱり、ちょっとそちらの火力弱っているのか」
「かな。買い換え――は、できませんね」
「高い」
切り捨てるようにそういってから、彼女は「まあいい」と台から降りてとことこと歩き出す。
「もうちょっとなら、看板あげてくる」
「はい」
ちんまりとした小柄な体に着物、割烹着という何処からみても町の料理屋さんのおばちゃんという格好をしている彼女は、入り口の裏においてあった暖簾を手に取ると引き戸をあけて表にでる。
日が昇ってまだ四半刻とたたない時分だ。夜気の残り香は大気に微かにあったが、それもすでに人いきれにもみ消されつつある。
「今日もいい天気かの」
彼女――和国の末の皇女にして陰の姫将軍、生身でありながらも「万夫不当」を謳われた歴史上最初の女、そして今や王都のうどん屋の経営者にして看板娘である煌姫は、今日もいつもどおりに暖簾をかけ、にっこりと笑った。
「さあ、今日も一日、がんばろう」
元姫にして看板娘――彼女のことを知る者は、密かに「看板姫さま」と、そう呼んでいる。
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