第十六話 おうちでトレーニング2


「ひとまず準備運動です。筋肉を伸び縮みさせて、血の巡りをよくするイメージで」


 琴吹さんは肩を回したり、足をぶらぶらさせたりした。


「柔軟運動じゃなくていいの?」

「柔軟は、百害あって、一利なし」

「なぜ川柳?」

「準備運動は、身体を温めて、脳や筋肉に『これから運動するよ』と指令を送ってあげればいいんです。これから酷使する筋肉や腱をぐいぐい伸ばしてもマイナスでしかありません」

「ふうん」


 俺のなかでちょっとした悪戯心が芽生え、思わずにやっとしてしまう。


「とか言って琴吹さん、実は身体硬いんじゃないの?」

「え? いえ、わたし柔らかいですよ」

「硬いのがバレるのが嫌だから、柔軟運動をやりたくないんじゃなくて?」


 琴吹さんはむうっとむくれた。


「わたし身体柔らかいもん!」

「『もん』って……」

「見てください!」


 と、前屈する。手がぺったりと床についた。


「ほら! どうですか!」

「あ、うん。なんかごめんな」


 ちょっとした冗談のつもりだったのだが、こんなに必死に否定してくるとは思わなかった。腹筋から縦線が失われたところに筋肉の柔軟性まで疑われて、意固地になってしまったらしい。怒りのポイントまでボディビルダーっぽい。


「床につくだけじゃありませんよ。ほら!」


 琴吹さんは自分のふとももを抱いた。身体はすっかり折りたたまれ、なんなら脚のあいだに頭が差しこまれているほどだ。


 俺は弾かれるように天井に顔を向けた。


 前屈することでジャージの上がずり下がり、白い背中が丸見えに。ついでにジャージの下が尻のほうに引っぱられ、腰と、肌よりも白い布――ようするに下着――がちらっと覗いていた。


「ほらほら! どうですか先輩! 見てますか!」

「見てない!」

「なんで見てくれないんですか! ほら、柔らかいわたしを見てください!」

「ちらっと見たからもういいだろ!」

「なんでちらっとなんですか! まじまじと見てください!」

「見れない事情があるんだよ!」

「見てくれるまでやめませんよ!」


 ――進むも地獄退くも地獄……!


 でも待てよ、琴吹さんから俺は見えないんだから、適当にごまかせばいいのか。


「うん、見た。すごいな、柔らかい」

「でしょう!」


 身体を起こす気配を感じ、俺は視線をもどした。

 琴吹さんは得意顔で胸を張っていた。


 まただ。また琴吹さんがピュアすぎて、俺が不純な感じになっている。


 そりゃたしかに白い背中とか白い布にドキッとはした。でもちゃんと顔をそむけたし、不純ではないはずなのだ。琴吹さんが純白すぎて、ライトグレーの俺が相対的に真っ黒に見えるだけ――のはず。


 もう筋肉関連で琴吹さんをいじらないほうがいい。運動より疲れる。


 俺は琴吹さんにならい、ウォーミングアップをする。あまり負荷の大きい運動ではないのに、すぐに鼓動が早くなり、息があがって、身体がぽかぽかしてくる。


「では、プランクしましょう」

「プランク?」

「次世代の腹筋運動です」


 そういって琴吹さんは床にひじをついた。


「ひじとつま先で身体を支えます。ひじは垂直に、身体をぴんと伸ばして。お腹を引っこめると腹筋だけでなく、骨盤を支える腸腰筋ちょうようきんも鍛えられますから、腰痛の予防にもなります。これで一分」

「……」


 ――すげー地味な運動……。


 腹筋運動というと、うつぶせに寝た状態から「ふん! ふん!」と上半身を起こす運動をイメージするが、このプランクというやつはどちらかというとヨガっぽい。


 ――これなら楽勝では?


 どんなきついエクササイズをやらされるかと警戒していた俺はほっとした。


「……五十八、五十九、六十!」


 琴吹さんは力尽きたように床にペタッとうつぶせになった。

 しばらく息を整えてからおもむろに起きあがり、うっとりとした表情でお腹をなでた。


「うん、いいバーン感」


 ――バーン感ってなに……?


 俺の人生で初出の単語だ。


「さあ、つぎは先輩の番ですよ」

「よし」


 さっさとやって、さっさと終わらせるか。

 そう考え、俺はプランクの姿勢をとった。


 その瞬間。


 ――あ、もうつらいです。


 その間、実に二秒。こんなに負荷が大きいとは露ほども考えなかった。


「ほら、先輩! お尻が上がってますよ! 身体は真っ直ぐに!」

「ぅぐっ……!」

「あごが上がってます! 引いて!」

「くぅ、うう……!」

「お腹、引っこめてますか! でないと効果半減ですよ!」

「も……、もっと……」

「え?」

「もっと優しく言ってくれないとできない!」

「優しくって……」


 琴吹さんは困惑顔だ。


「優しく、お、応援するみたいに……」

「先輩、頑張って!」

「そう、それ! そういうのもっとちょうだい!」

「先輩、わたしがついてます!」

「そう、もっと……。――もっと……!」


 ――マネージャーみたいに!


 俺は『マネージャー』というものに憧れを持っていた。もちろんホテルの支配人や芸能人の世話人のことではない。


 運動部の女子マネージャーである。


 練習を終えて汗だくの部員に駆け寄りタオルを差しだす、その姿、その仕草。青春の甘酸っぱさを凝縮したような光景。


 運動が苦手な俺はそれを遠くから羨望のまなざしで見ていることしかできなかった。


 しかし、奇しくも、チャンスが巡ってきたのである。これを逃してはこれからの人生、マネージャーに応援してもらえることなんてないかもしれない。


 だから、いましかない。


「ぐぉ……!?」


 腕が、脚が震える。膝をつきそうになる。

 しかしそのとき、


「もうちょっとですよ、先輩!」


 と琴吹さんの――いや、マネージャーの声が聞こえて、俺は持ち直した。


「いけます! あと十五秒」

「ぐ、ぬううう!」

「あとひと踏ん張りです! 十秒!」

「く、く、く……!」

「六、五、四、三、二」

「う、お、お、お……!」

「一……、ゼロ!」

「だあ!」


 べたっと俺は床に倒れ伏した。


 ぜいぜいと荒い息をする。


「よく頑張りましたね先輩! これ、ご褒美です」


 彼女はバッグから密閉容器をとりだし、蓋を開けて見せた。

 琥珀色の液体のなかに並ぶ輪切りのレモン。


「レモンの……蜂蜜漬け……!」


 タオルより、スポーツドリンクより、マネージャー力の高い至高の一品。


 俺は震える腕で身体を起こした。レモンの輪切りを一枚つまみあげ、皮ごと噛む。凍っていたものが時間経過でほどよく解凍され、ソルベのようになっている。


「甘い……! 酸っぱい……!」


 やりきった達成感と最高のご褒美で、俺はほとんど泣きそうになっていた。


「ありがとう、マネージャー……!」

「ま、マネージャー? なんの話ですか?」


 琴吹さんはきょとんとしている。


 やばいやばい。頭に酸素が回らず、妄想と現実の区別がつかなくなってしまった。


 俺は大きく深呼吸した。徐々に頭が冴えてくる。

 すると、踊るように鼓動する心臓や、身体の先まで巡る血液、筋肉の心地よい疲労が感じられた。


 苦しさはあった。しかしそれよりも、充実感や達成感が上回った。


 運動も悪くない、そう思えた。


 テンションの上がった俺は琴吹さんの手を両手で握った。


「ありがとう。俺、好きになりそうだ」

「え!?」


 彼女はすっとんきょうな声をあげた。俺が運動を好きになるのがそんなに意外なのだろうか。


 琴吹さんの目は泳ぎ、そわそわと髪をなでたり胸に手を当てたりしている。


「きゅ、急に言われても……」

「すまん、そりゃびっくりするよな」

「は、はい……。でも嬉しいです……!」


 と、手で口元を覆う。運動する仲間ができて、ということだろう。


「だからさ、琴吹さん」

「……はい」


 彼女は気をつけするみたいに背筋を伸ばした。


「プランク以外の運動も教えてくれる?」

「……………………はい?」


 琴吹さんが蝋人形みたいな顔になった。


「いや、だから、プランク以外の。胸とか脚に効くやつ」


 ぽかんと口を開けて、固まる琴吹さん。


「あんまりきつくないやつね。いくら好きになりそうって言っても、そこまで本格的にやるつもりはないから」


 固まっていた琴吹さんは、ようやく搾りだすように言う。


「あ……好きって……そういう……」

「ん? いや、好きっていうか、好きになるかもって段階だけど」


 彼女はなんだかちょっと残念そうな顔でうつむく。

 しばらくそうしたあと、琴吹さんは顔をあげた。その表情は、なにかを決心したような真剣なものだった。


「わたしは――」


 俺をまっすぐに見て言う。


「わたしは大好きですよ」

「だろうね」

「前から――これからもずっと」

「ライフワークってやつだね。俺も、この心臓がどきどきする感じは癖になりそうだ」

「わたしも……いま、すごくドキドキしています」

「? プランクをやってからもうけっこう時間がたってるよね? まだどきどきしてるの?」

「……先輩のせいです」


 潤んだ瞳で、責めるような視線を送ってくる。


「え、どうしたの……?」


 琴吹さんはバッグをつかむと、戸口のほうへ駆ける。

 立ち止まって振りかえると、


「『スクワット』で検索してください」


 という言葉を残して去っていった。


「え、なにそのCMみたいな捨て台詞」


 俺はぽかんとして彼女を見送った。

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