第六話 来ないなら来ないで気になる
鉄板が冷めるのを待って台所へ持っていき、スポンジでこする。
「なにニヤニヤしてるの?」
梨子がリビングから俺を覗きこみ、顔をしかめていた。
「食器洗いがそんなに好きだったなんて知らなかった」
「好きでも嫌いでもないけど」
「お兄はそればっかりだね。好きなものってないの?」
「あるよ」
梨子は「なに?」と俺を見つめる。「ない」と答えてしまうのがなんとなく悔しくて、勢いで「ある」と言ってしまったが、たしかに「これが好き」と自信を持って言えるものが俺にはなかった。
必死で頭のなかの引き出しをひっくり返した。しかしなにも見つからない。
答えは頭のなかではなく手元にあった。
「たこ焼き」
「たこ焼き?」
梨子は俺の手元の鉄板に意味ありげな視線をそそいだ。
「それであんなに笑ってたの?」
「俺、笑ってたっけ?」
「爆笑してたでしょ」
そうだ、琴吹さんがたこ焼きを熱がって涙目になった顔が可笑しくて笑ったんだ。
「すまん」
「なんで謝るの?」
「うるさかったかと」
「ひとと暮らしてれば声や音くらいするでしょ。そんなことでいちいち文句は言わない」
梨子は「でも」とつけ加えた。
「お兄のあんな笑い声、久々に聞いたな」
そして微笑する。
梨子がこんなに柔らかく微笑むのを見たのは、俺のほうこそ久々な気がした。
しっかり水気を切った鉄板を持って部屋にもどる。
鉄板をたこ焼き器にセットして、さてどこに片付けようと考えるも、しまい込むような場所もないので仕方なくそのままの場所に置いておいた。
琴吹さんのあの顔が思い浮かび、「くく」と笑いが漏れた。
今度、梨子にたこ焼きを焼いてやろう。チョコ入りを食べてもらって、味の意見を聞きたい。
俺は気持ちを切りかえて教科書の英字に目を移した。
まるでCoocle翻訳みたいに頭にパッと訳がひらめく。
ゾーンに入ったなどと喜ぶ隙間もないほど濃密な集中力で、俺は課題にとりかかった。
◇
翌日の土曜日は、琴吹さんは遊びに来なかった。そのつぎの日の日曜日も彼女はやってこない。
いままでの勉強の遅れをとりもどす大チャンス――にもかかわらず、俺はノートの余白を貧乏揺すりみたいにシャープペンでとんとんと叩くことしかできていなかった。
はかどらない。それならはかどらないなりに手を進めればいいのだが、ゾーンを体験したあとだと非効率に思えて気が進まず、だから上の空でシャープペンをとんとんしている。
とんとん。
とんとん。
トントン。
最後のトントンは俺のとんとんではない。ドアがノックされた音だ。
「は、はい」
ちょっと声がうわずってしまった。
ドアが開く。そこに立っていたのは梨子だった。
「なんだ、梨子か」
「なんだってなに」
梨子はむっとしたが、すぐにニマっといやらしい表情に変わった。
「コトじゃなくて残念でした」
「いや――」
否定の言葉は喉から出てくる前にしぼんで消えた。
――あれ? 俺、期待してたのか?
多分、梨子が思っているようなくっきりした感情ではない。ふと、読書にのめり込む琴吹さんや、たこ焼きを頬ばって悶える琴吹さんの姿が脳裏によぎっただけだ。つぎはいったいどんな姿を見せてくれるんだろう、と。
でもそれってやっぱり期待してたってことなんだろうか。よく分からない。第一、なにを期待するっていうんだろう。
「なあ、なんで琴吹さんは俺の部屋に遊びに来るんだろうな」
「知らないって言ったでしょ」
「心当たりもない?」
「嫌なの?」
「そうではないけど」
「ならいいでしょ」
梨子は俺から顔をそらし、メガネをくいっと上げた。
琴吹さんが俺の部屋に遊びに行くのを推奨しているかのような言い様だった。仕草も白々しい。
「でもさ、琴吹さんって忙しいんじゃないの?」
「部活はやってないけど」
「そうじゃなくて、引く手あまたっていうかさ。人当たりがいいし、その……」
ベッドで無防備をさらす姿やキス顔を思い出した。
「男子が勘違いしたりとか」
自分で言いながら、なぜか少しもやっとする。
梨子は怪訝な顔になった。
「意味が分かんないけど、コトはほとんど男子と話さないよ」
「……そうなの?」
「なんて言うのかな。身持ちが堅い?」
「身持ちが堅い……?」
――あのガードゆるゆるな琴吹さんが?
梨子の話す琴吹さんと俺の知っている琴吹さんが同一人物とは思えない。
――俺をからかっているふうでもないし……。俺にだけガードがゆるい? でもなんで?
「とにかく、早くお風呂に入ってね」
梨子はドアを閉めて行ってしまった。
ひとりきりになると寂しさのようなものが胸に去来した。
物の少ない部屋は俺をニュートラルな気持ちにさせてくれた。ノイズや誘惑のないこのユートピアにいるときだけは、学校で感じるような孤独感にさいなまれることもなかった。
なのにこんな気持ちになってしまったのは、どうやら琴吹さんが置いていった本やたこ焼き器のせいらしい。
俺は小学生のころのことを思い出していた。
うちは転勤の多い家庭で、小学生のころは毎年恒例行事のように転校していた。だから友達と胸を張って呼べるような子はいなかったし、誰かをうちに招いたことなんてもちろんない。だから梨子もそのころは俺にべったりだった。
小学校三年生の秋、遠足で自然公園に赴いたときのことだ。昼食後のレクリエーションで鬼ごっこをすることになった。クラス委員の男の子と女の子が鬼になって、捕まった子は鬼と手をつなぎ、まだ捕まっていない子を追いかける。いわゆる手つなぎ鬼というやつだ。
俺はあまり運動が得意ではなかったから、頭を使い、低木の陰に隠れた。最後まで捕まらなかった子が勝ちなのだから、できるかぎり体力を残しておくのが正解だと考えた。
わあわあと歓声をあげて鬼から逃げ惑うクラスメイトたちを、俺はちょっとバカにしながら盗み見ていた。
目論見どおり、クラスメイトが半分以上捕まっても、俺は見つからないままだった。
しかし俺は嬉しいどころか、ひどく不安になっていった。
もしかして、誰も俺のことを探してないんじゃないか、と。
転校してきて間もない俺の存在なんて、みんなの頭のなかにはないのではないか。
手をつないで走り回っているクラスメイトたちが急にうらやましく思えてくる。対して、その輪に入れない俺がみじめだった。
俺はわざと低木の横から足を出した。するとクラスメイトのひとりがそれを見つけ、鬼に引き入れてくれた。
俺はほっとした。
これで、いい。わざと捕まるなんてゲームのルールからはずれているが、仲間はずれより、ずっと。
最近、学校で感じている孤独感は、低木に隠れているときの気持ちによく似ていた。
しかし、いま部屋で感じている寂しさは、それとはちょっと違う気がする。
ぶるぶると首を振った。
ノスタルジックな気分に浸っている場合ではない。
俺は勉強机に向かった。
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