第三話 琴吹さん、襲来2
ショートボブの黒髪にはくっきりとキューティクルが浮きでている。さらさらの前髪の下で、好奇心旺盛な子犬みたいな目がきらきらと輝いていた。
少女は口角をくいっと上げてアルカイックスマイルを浮かべた。
「こんにちは、琴吹です」
話しかけられて俺は我に返った。
「あ、ええと……、梨子の友達?」
「はい、リリちゃんとは仲よくさせてもらっています」
小さくお辞儀する。リリちゃん、というのは梨子のあだ名だろうか。
――あだ名で呼びあうような仲なのか……。
俺はじんとした。
「梨子をよろしくね」
「もちろんです」
琴吹さんは肩に鞄をさげている。帰る前にわざわざ挨拶に寄ったらしい。律儀でいい子じゃないか。この娘なら梨子とも末永く付きあってくれるだろう。
俺は「じゃあ」と言って話を打ちきった――のだが、琴吹さんは廊下に突っ立ったまま動かない。
「どうしたの?」
「入ってもいいですか?」
――?
どうして妹の友達が兄貴の部屋に入りたがる?
しかし「どうして?」なんて尋ねたら、入られるのを嫌がっていると思われるかもしれない。せっかく梨子にできた友達だ、邪険にはできない。
「いいけど」
「お邪魔します」
琴吹さんは俺の部屋に足を踏みいれ、後ろ手でドアを閉めた。
俺は思わず彼女を二度見した。ドアを閉めるということはしばらく滞在する気が満々ということだ。
俺は急に緊張してきた。廊下に立っているときは『妹の友達』だったが、ドアが閉められて外界と区切られた瞬間、『部屋に女の子とふたりきり』という事実のほうが首をもたげてきたのだ。
困惑する俺をよそに、琴吹さんはきょろきょろと部屋を見回す。
「ほんとになにもありませんね」
そしてベッドの縁に腰かけた。スプリングがキィと小さく軋む。
「先輩、わたしと楽しいことしましょう」
「……は?」
――楽しいこと……ってなに?
心臓がどくんと大きく跳ねた。
俺はまじまじと琴吹さんを見た。きらきらとした瞳が、いまはしっとりと潤んだ色っぽい瞳に見えた。
彼女はかたわらに置いたバッグのファスナーを開き、なかからなにかを取りだして、口元にまで持ってきた。
それは漫画本だった。
「わたしと読書しましょう」
「………………………………漫画?」
俺はようやく声をしぼりだすように言った。
琴吹さんは鞄に手を突っこみ、べつの本を出した。
それは文庫本だった。さっきと同じように本で口元を隠すようにして言う。
「小説もあります」
「………………………………うん」
――っていうかそのかっこいいポーズはなに?
夏の文庫フェアのポスターみたいだ。
「ええと……、どういうこと?」
「なにがですか?」
「いや、だから、読書って……」
「そのままの意味ですけど」
琴吹さんは小首を傾げる。
つまり他意はなく、単純に俺と読書するためにここに来たということだろうか。
「楽しいこと」がそういう誘いだと本気で思ったわけじゃないが、それにしたって読書なんて――。
「梨子とじゃダメなの?」
「リリちゃんとはもう遊んだので、つぎは先輩の番です」
――そもそもなんで俺が候補に入ってるのかってことなんだけど……。
「一緒に読みましょうよ。そして感想を言いあいっこしましょう。楽しいですよ」
そう言って琴吹さんは俺に漫画本を差しだしてくる。
「わたしが一巻を読みますから、先輩は二巻を読んでください」
「そのシェアの仕方、正解だと思う?」
「はじめての共同作業ですよ?」
「びっくりするくらい不平等だけど」
「冗談ですってば」
琴吹さんは口元を手で覆って「くふふ」と笑う。
「わたしは既読なので、先輩に貸してあげます」
琴吹さんは鞄に手を突っこみ、漫画本を取りだす。
その数、計二十冊。
「そんなに持ってきてたのか」
「リリちゃんに貸してあげようと思ったんですけど、『邪魔だからいらない』とすげなく断られました」
――友達にも容赦ねえな……。
琴吹さんはベッドサイドに漫画本を積む。
整然とした俺の部屋に、雑然とした部屋の象徴と言っても過言ではない積ん読のタワーが現れた。
――ううん……。
なんだかむずむずする。壁に掛けられた額縁が少しだけ傾いているのに気づいてしまった感覚に近い。
しかしせっかく貸そうと二十冊もの本を持ってきたのに、いらないからそのまま持って帰れというのもなかなか酷だ。
――まあいいか、漫画くらい……。
「それとですね」
琴吹さんはまた鞄をごそごそやって、十冊の文庫本を取りだした。
「これも貸してあげます」
「小説も!?」
「小説もあるってさっき言ったじゃないですか」
「言ったけども」
そんなに出てくると思わなかったから。というかよく入ったな、通学鞄に。
「こっちは全部未読なのでわたしも読みます」
「え、未読が十冊? ふつう前のを読んでからつぎのを買わない?」
「ああこれ、すべて母のです。漫画も」
「お母さんの? 持ってきてよかったの?」
「うちの母、漫画家なんですよ。で、資料だって言って本とか図鑑とか写真集とか、コスプレのコスチュームとか、漫画に出す物を片っ端から買って、使わなくなるとわたしの部屋に置いてくんです」
子供のころから両親に「お兄ちゃんなんだからちゃんとしないと」としつけられた俺には、親が子供の部屋を汚すという状況がうまく飲みこめない。
「というかすごいな、漫画家だなんて。もしかしてその本もお母さんが描いたやつ?」
「いえ、これは同期の漫画家さんのヒット作らしいんですけど、研究のために買ってはみたものの、読もうとすると嫉妬で病みそうになるからとわたしの部屋に置いていったんです」
「リアルすぎる」
聞きたくなかった。夢も希望もない。
しかしそんなにたくさんの資料を買い求めることができるのだから、決して売れない漫画家というわけではないのだろう。
「さ、先輩。どれから読みます?」
「いや、読まないけど」
「気に入りませんでしたか?」
「いや、いまの時間は勉強に当てたいっていうか……。置いていってくれて構わないけど、ちょっと読む暇はないかな」
「そうですか……」
琴吹さんはうつむき、つぶやくように言った。その顔がしゅんとしているように見えて、罪悪感がふくらんだ。
「い、いや、その……」
梨子と宮前さん以外の女の子との免疫がほとんどない俺にとって、初対面の、しかも妹がはじめて連れてきた友達である琴吹さんとの対話はハードモードだった。
しかし。
「じゃ、勝手に読みますね」
琴吹さんはけろりとした声で言って、一冊の小説を手にとるとベッドに倒れこんだ。
仰向けになり、胸の上に本を立てるようにして読みはじめる。三角座りみたいに膝を立てるものだから、スカートがずり下がり、やわらかそうなふとももが覗いている。
俺は慌てて顔を勉強机のほうへもどした。隙だらけの女の子がベッドに寝そべっている構図は非常に目に毒だ。
もともと集中力を欠いていたから、もはや『いかに琴吹さんを意識しないか』だけに脳のリソースが使われて、勉強どころではない。しかも彼女は頻繁に体勢を変えるものだから、そのたびに意識が向いてしまう。
じっと小テストの答案を見ているふりをするだけの時間が流れていく。
「ふふっ」
笑い声。俺のものではない。琴吹さんの声だ。
俺は横目で彼女を見た。
彼女はぱっと文庫本で顔を隠した。
視線を小テストにもどす。しばらくするとまた「ふふっ」と笑い声が聞こえたので、素早く眼球を動かしてベッドのほうを見る。
そのときにはもう彼女は本で顔を覆っていた。
――くっ……。
鉄壁のガードだ。笑顔を見られるのが嫌なのだろうか。そういえばさっき「くふふ」と笑ったときも口元を覆っていた。よっぽど変な顔で笑うとか?
隠されると余計に見たくなる。俺は文庫本がどけられる瞬間をとらえようと琴吹さんを見つめつづける。すさまじい集中力だ。この集中力を勉強のほうに発揮しろと言いたい。
琴吹さんは文庫本をずらして目だけ出し、俺のほうを見た。
「なんですか?」
視線に気づかれた。ベッドに横たわる後輩の女の子を凝視していたなんて、なにか不埒なことを考えていたと勘ぐられても仕方がない。
「い、いや……」
「もしかして気になりました?」
やはり見透かされたのかと思ってドキッとする。
琴吹さんは文庫本を持ちあげて俺のほうに見せた。
「この本」
「え? 本?」
俺が気にしていたのは琴吹さんの笑顔のほうだったのだが、彼女は気づいていなかったらしい。
ほっとして、俺は勉強机に顔を向けた。
「べつに」
誘惑には負けないという意思表示だ。しかし彼女はお構いなしに内容を説明をする。
「お互いのことが気になっている大学生の男女が、アプローチしようとするたびにヘタレて未遂になるんですけど、それを繰りかえしていくうちにお互いをストーキングするようになる話です」
「なにそれ気になる」
俺はさっそく誘惑に負けた。
「でもそれ犯罪じゃないの……?」
「お互い合意のうえなんで大丈夫です」
「合意のうえでストーキングってなに……?」
ますます気になる。
琴吹さんは文庫本を俺に差しだす。
「読みます?」
「い、いや! 読まない!」
俺は振りきるように答案に顔をもどした。
琴吹さんはとくに気にした様子もなく、すぐに読書に集中した。
ときおり笑い声が聞こえてくるが、それにもだいぶん慣れてきた。BGMだと思えばかえって心地よい。
――よし。
いよいよ答案の見直しに着手しようと思った、まさにそのとき。
ぐすっ、ぐすっ、と鼻をすする音が聞こえてきた。
ぎょっとしたベッドのほうを見た。
琴吹さんが泣いていた。溢れる涙を手の甲で拭うが、止まる気配はない。完全に物語の世界に没頭している。
――というか、泣き顔は隠さないのか。
どちらかというと笑顔よりも泣き顔のほうが見られたくないと思いそうなものだが。
やがて。
「はぁ~」
と、深いため息が聞こえた。
琴吹さんは文庫本を大事そうに胸に抱いている。読み終えたようだ。
「まあまあでした」
――嘘つけ、大満足じゃねえか。
「よっと」とベッドから跳ねるように飛び降りて鞄を肩にかける。そして廊下に出た琴吹さんはくるりと振りかえって、
「ではでは、ごきげんよう」
と挨拶し、去っていった。
去り際の顔は、ちょっと前に泣いていたのが嘘のように晴れ晴れとしていた。でもまぶたが少しはれぼったくて、鼻の頭が赤くなっていて、それがなんとも愛くるしい。
俺はぴしゃりと自分の頬を叩いた。
琴吹さんの愛らしさに思いを馳せている場合ではない。ようやく集中できる環境がもどってきたのだ。
俺は答案に意識を集中した――かったのだが。
――気になる……。
琴吹さんが読んでいた小説が気になっていた。あれだけ笑ったり泣いたりさせるってことは、よっぽど面白いのだろうか。
読んでみるか否かで悩んでいるあいだにも、どんどん無駄な時間を食っている。
――ちょっとだけ……。
冒頭だけ読んで、どんな感じか確かめよう。
俺はベッドの枕元に置いてあった文庫本を手にとり、ぱらぱらとめくった。
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