第二話 琴吹さん、襲来1

 鳥の鳴き声が聞こえて、俺は朝が近いことに気がついた。カーテンの隙間から白々とした光が漏れている。勉強に集中していて時計を見ることも忘れていた。


 カーテンを開ける。早朝独特のブルーとグレーを混ぜたような世界。徹夜明けの目にはまぶしくて、俺は顔をそむけた。


 ベッドとクローゼットしかない俺の部屋が目に映る。本棚すらない。教科書や参考書の類は勉強机のブックスタンドで事足りるし、それ以外の本は誕生日に買ってもらった電子書籍専用端末に集約している。


 べつにミニマムな暮らしを嗜好しているわけではない。物を増やす意味を感じられないだけだ。極端な話、部屋には睡眠とワークスペースの機能さえあればいい。


 スマホの時計を見る。4時を過ぎていた。


 ――よかった、三時間も眠れる。


 デスクチェアからふらふらとベッドに移動して倒れこんだ。



 あの日、姉小路さんから決別を言い渡されてから数日間、放課になると逃げるように下校し、それからほとんどの時間を勉強に費やした。


 姉小路さんはロックじゃないからなどと言っていたが、おそらく本音ではない。一年最後の期末テストで俺の成績ががくっと下がったのが原因だろう。それを宣告することがはばかられたから煙に巻いたのだ。きっと彼女なりの優しさだ。


 中間テストではいい成績を収めて、執行部復帰への足がかりとしたい。


 宮前さんからの返信は来なかった。既読にもなっていない。


 でもそれでよかった。メッセージを送っただけで相談をしたような心持ちになっていたし、やることは決まっている。


 つぎにメッセージを送るのは、ことを成し遂げたときだ。





 ――嘘ーん……。


 数学の小テストの点数が十点満点中二点だった。しかも部分点が一点ずつなので、実質、正解はゼロである。


 俺はぎゅっと目をつむり、しばらくしてからもう一度、点数を見てみた。あいかわらず二点だった。


 自信があった。努力の裏付けという自信が。しかし結果が伴っていない。


 教師がなにやら話しているが、まったく頭に入ってこなかった。テストを見直そうとしても数式の上を目が滑るだけだ。俺の頭は予期せぬエラーでフリーズしたスマホの様相だった。


 放課になり、俺はいつものように学校から遁走した。


 努力が足りない。基本を理解できていないから凡ミスで点を逃したのだ。ならば基礎をがっちがちに固めるほかない。


 なにかよい参考書はないかと書店や図書館に寄ってみたが、どれもぱっとせず。やはり愚直に見直しをするのが一番だと思いいたり、ドラッグストアに寄ってエナジードリンクを買って、飲みながら帰宅した。


 自宅の玄関ドアを開けると、三和土に妹の靴ともう一足、見慣れない靴があった。


 ――お客さん……? いや、もしかして……!?


 そのときとんとんと階段を降りてくる音が聞こえてきて、梨子が姿を現した。


「友達か!?」


 梨子はちょっと気まずそうな気恥ずかしそうな顔で頷く。


「でも友達はいないって言ってなかったか?」

「いないとは言ってないでしょ。まだ付きあいはじめてひと月もたってないし、友達と定義していいのか分からなかっただけ」

「とにかくよかった。ほんとよかった……!」


 梨子はハブられてなかった。俺は嬉しさと安堵でほうっと息をついた。こみ上げてくるものがあって目頭を押さえる。


「情緒大丈夫?」


 梨子は呆れたように言う。


「というか全体的に大丈夫?」

「妹がはじめての友達を連れてきて喜ばない兄がいるか?」

「はじめての友達を連れてきてテンション上がるのは、どっちかっていうと母親の特権でしょ」


 妙な説得力がある。


「そっちじゃなくて、お兄の体調」

「絶好調だけど?」

「クマ、やばいよ」


 俺は目の下に触れた。


「クマやば?」

「略す意味は分からないけど、うん」

「ちゃんと寝たんだけどな」

「何時間?」

「三時間」

「さ……」


 梨子は唖然とした。


「毎日?」

「いや」

「だよね、さすがに毎日そんな――」

「ふだんは四時間」

「……」


 絶句する。


「いや、意外と大丈夫だよ? ピンピンしてるし」

「そう見えないから声をかけたんだけど」

「なんだよ、お兄ちゃんが心配なのか?」

「全身クマに侵されろ」

「なにその呪い、怖い」


 ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く梨子。俺は「はは」と笑って、靴を脱ごうと片足立ちになった。


「おっと」


 バランスを崩してふらつく。

 その瞬間、背中に強い衝撃があって「がふっ!」と変な声が出た。

 

 背中にぬくもり。俺は首をひねってそちらを見た。


 梨子が抱きついていた。きゅっと目をつむっている。どうやら俺が倒れると勘違いしてとっさに支えてくれたようだった。


「すまん、バランスを崩しただけだ」


 梨子が顔を上げた。ぽかんとしている。自分でなにをしてしまったか理解していないような表情だった。


 その顔が徐々に紅潮しはじめる。


 どん、と突き飛ばされた。俺はよろめいてドアにもたれる。


「あ、アホ……。アホー!」


 ふだんは毒舌芸人ばりの豊富な語彙で俺を罵倒してくる梨子は、ただの悪口を俺にぶつけてリビングへ駆けこんだ。


「アホー!」


 もう一回ぶつけられた。


 ――そんなに怒らなくても……。


 騙したわけでもからかったわけでもないのに。


 ――しかし、まあ。


 俺は思わずにんまりとしてしまった。

 梨子に友達ができた。なんだかんだいって頑張っていたんだ。俺も頑張らねば。

 

 意気揚々と自室へもどり、部屋着に着替えてから小テストのプリントを鞄から取りだして――は、みたものの。


 ――まったく集中できん……。


 最近の短い睡眠時間からは考えられないくらいに目が冴えているし、身体の芯が熱く、興奮していることが分かる。いいことがあったし、気分もいい。


 なのに頭のなかはチューニングの合わない無線みたいに、サーとノイズが鳴っている感じだった。


 時間が過ぎていく。無駄な時間なんて一秒もないのに。


 気持ちが焦る。すると余計に集中が削がれていき、さらに焦る。悪循環だ。せっかくのいい気分もどこかに消えてしまった。


 勉強もできずにもがくだけの時間がどれだけ経過しただろうか。


 とんとん、と俺の部屋のドアをノックする音が聞こえた。


「はい?」


 ドアが開く。


 ノックの主が梨子だと思っていた俺は虚をつかれた。


 そこには見知らぬ少女がたたずんでいた。

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