サリアンの恋人
本宮ことは
序
「……姫様、
耳元で、お目付役の爺が囁く声がした。
それまで、テーブルいっぱいに供された色とりどりの菓子に目を輝かせていたラナルディアも、さすがに神妙な顔になって、華麗で広すぎるほど広い応接間の壮麗な扉が開くのを見守った。
まだ
「爺、違うでしょ。許婚殿ではなくて、リドラール殿下とお呼びしなくては」
ラナルディアは、しかつめらしくこまっしゃくれた表情を浮かべると、傍らの老人に囁き返した。
「殿方は、ちゃんと名を呼んで差し上げないといけないのだって、お母様がおっしゃっていたわ。他の人と同じような呼び方では、おと……おとこごころ、が、傷つくのですって」
「そうですな。姫様は博識であらせられる」
「で、爺。おとこごころ、って、なにかしら」
いくら聡明で博識とはいえ、そこはやはりまだ八つ。己の役割はわかっていても、結婚というものがどんなものなのか、具体的には理解できていない。なにしろ、婚約者に会うのは、今日が初めてなのだから。
目をやれば、テーブルの向こうには、先ほど応接間に入ってきた自分の両親――ジランドラル国王と王妃がいる。どこか表情が堅いような気がするのは、二人も緊張しているのだろうか、とラナルディアはいぶかったが、すぐに首を振った。
(ううん。お父様とお母様が、堅くなられるはずがないわ)
だって二人はジランドラル国王と王妃なのだ。この国の守護神と国母。神にも等しく、なんでも出来る至高の存在なのだ。
だったら――スフ国のリドラール王子について、なにか含みでもあるのだろうか、とラナルディアと考えた。
二人はここに来る前に、リドラールと謁見したと聞いている。その折に、なにか、気になるようなことでもあったのだろうか。
(リドラール殿下……どんな御方なんだろう)
これまで何度も繰り返してきたその問いを再度心に浮かべながら、ラナルディアは扉の向こうからやってくる人影を見守った。
見慣れない顔の護衛の騎士、文官がぞろぞろ入ってくる。その人影に埋もれる――いや、護られるようにして、線の細い若者が一人、ゆっくりと進んできた。
(きっとあれがリドラール殿下だ)
身につけている物が周囲よりもひときわ豪奢なところから、ラナルディアはそう見当をつけ、じーっとその青年を見つめた。
年は十七だと聞いている。周囲の護衛がいかついせいか、服が豪華で大きく見えるせいか、やけにひょろっとした印象だ。
砂色のわずかに癖のある髪。
どこにでもいそうな、ごく普通の青年。一度会っただけでは、すぐに記憶から薄れてしまうような。あらかじめもらっていた肖像画とはずいぶんと印象が違う。
(お父様や
王族というと、派手で押し出しのいい自分の身内しか見たことのないラナルディアは、そんな感想を抱いた。なんだかとても新鮮だ。
そして、その感想は、ラナルディアの姿を認めたリドラールが、相好を崩して満面の笑顔になった瞬間から、好感に変わった。
(よかった……。とても、とても、お優しそうな方)
リドラールは。ニコニコと微笑みながら、ゆっくりとラナルディアの許へと近づいてきた。そして、胸に手を当てると、きっちりと一礼する。
「お初にお目にかかります。スフ国第三王子、リドラール・エル・フィス・ライカンロード・メクル・ラル・スファーリアルです。お会いできて嬉しいです、ラナルディア姫」
正式な名乗りに、ラナルディアは姿勢を正すと、ドレスの裾をつまんで優雅に腰を落とした。
後ろから爺、向こうからは両親が見ている。無様な真似をさらすわけにはいかない。
「こちらこそお目にかかれて光栄です。リドラール殿下。ジランドラルが第一王女、ラナルディア・エル・フィル・アーオラスタ・メクル・ロム・ジュールスティでございます。なにとぞ、よしなに」
「肖像画で拝見していた以上にお可愛らしい。どうぞこれから仲良くしてください」
「はい! よろしくお願いいたします」
「我々はうまくやっていけそうですね」
リドラールは開けっぴろげな笑みをラナルディアに向けた。
正直、平凡でどこにでもいるような青年だけれど、その笑顔だけは違う。
日の光のように、陰のない満面の笑み。顔じゅうで笑っているかのような。見ているだけで、こちらまでつられて微笑みたくなるような。
政略結婚とはいえ、夫となるべき相手がこの人でよかった、とラナルディアは天に感謝した。
彼のいうとおり、自分たちはきっとうまくやっていける。
幸せになれる。
絶対。必ず。
*
ジランドラル国での短い滞在の間にも、リドラールはこまめにラナルディアの許を訪れた。
後になって考えれば、十七の青年と八つの幼女では、婚約者の逢瀬といってもほぼ子守りのようなものだと思う。色気めいたものや恋情からはほど遠い。
実際、ラナルディアも兄かなにかに対するような気持ちで、腕にぶら下がったり、足にしがみついたりしていたし、リドラールも、彼女に触れる際は頭をよしよしと撫でたり耳をつまんでみょーんと両側にひっぱったりしていた。ほとんど子犬がじゃれているようなものだ。
しかし、その短い間に
彼が帰国の途についた時には寂しくてたまらなかったし、来たるべき婚礼のときまでには、もっとすばらしい貴婦人になって彼を驚かせてやるのだと、心に深く誓ったりもした。
だから。
だから、思ってもみなかったのだ。
まさか、これっきり、彼に会えなくなるだなんて。
彼が、その後すぐに、亡くなってしまうなんて――。
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