それぞれの想い

「お前が来るのは分かっていた。俺を止めに来る事もな」


「話が早くて助かる。分かっているなら、人間を殺すなんて考えは捨てるんだ」


「いや、悪いが俺は止まる気は無い」


 そう言ってアグイは背中から、滴の包まれた器を取り出した。薄気味悪い色をした器からは、今まで見た多くの屍から臭ってきた醜悪な香りが漂ってくる。


「これがあれば、人間どもを死に至らしめる事が出来る。何億年に渡り俺達が受けてきた苦しみを、多少なりとも奴らに味あわせる事が出来るんだ」


「そんなモノ持ってどうする気だ。人間の口にでも諸共飛び込む気か?」


 そう言って皮肉っぽく笑うと、アグイは静かに触角を揺らした。


「あそこに見えるのが何か分かるか? あれは、この建物に流れる水道の貯水槽だ。わざわざ口に飛び込まなくともあそこにコイツを入れるだけで、人間は勝手に死んでくれるのさ」


 俺はアグイの言葉に、小さく笑う。


「そんな蚊の目玉程度の薬品で、健康な人間が死ぬわけないだろう? 腹を下して終わりだ」


「確かに健全な人間なら耐えるかもしれない。だが〝きざし〟にはなる。人間を殺す方法を、同胞達に示せる事に変わりはない。それにお前こそ、ここがどういう場所か分かっているか?」


「何だと?」


「ここは病院だ。健全な者より不健全な者、少しの刺激で死ぬ者が多く存在する。仮にそいつらが耐えられたとしても、弱った子供くらいは殺せるのは間違いないだろう」


 その言葉に俺の中で、強い怒りの衝動が沸き上がった。


「そんな事は、そんなふざけた事は絶対にさせん」


 ここで彼を止めなければ、俺はまたしても子供を見殺しにしてしまう。それだけはもう、何としても止めなければならない。


 俺は体制を整えると、アグイの方を向いた。


「恨むなよアグイ。俺は例えお前を殺してでも、人間達を護る」


「……やはりお前は、人間にほだされたようだな」


 そう言ってアグイは床に器を置くと、俺と向かい合った。


 俺達の命運を懸けた戦いが今、始まろうとしていた。



 アグイの強さは俺が一番知っている。対面での喧嘩なら負け知らずで、ネズミですら退けた事もあるヤマトの勇士だ。


「ベルム、俺にはもう何も無い。家族も故郷も失い、親友によって新たな居場所も奪われた。残された妹もまた人間によって奪われて、あるのはもう、留まらない人間への憎しみだけなんだ」


「一瞬俺が出てきた気もしたが、聞き間違いか?」


「お前は変わってしまった。お前が人間を護ると言うのなら、俺はもう容赦はしない」


 途端に、アグイの強烈なタックルが俺に迫って来た。俺は咄嗟に左へと避けたが、アグイはそれを見越していたかのように転回し、俺の脇腹を打ち抜いた。


 鋭い痛みが全身を駆け巡る。方向を変えた事によって勢いが落ちていたからいいが、初動のスピードでやられていたらそのまま終わっていただろう。


「本当はお前だって気付いているのだろう? 俺達は神に見捨てられた、生きざるべき存在だ。お前が人間を護っても、人間はお前に何も返してはくれない。人間が俺達を嫌うこの現状を打破する事など永遠にあり得ない!」


「何故……、そう思う?」


「何故なら神もまた人間だからだ。お前は俺達を模した神の絵を一枚でも見た事があるか? そんな寝物語を一度でも聞いた事があるか? いや無いさ。無いに決まってる。神が人の形を持っている限り、何度洪水が起ころうとも俺達は追い出される運命なんだ。だから俺はゴキブリ達の神となり、皆を導いて行く!」


 そう言ってアグイはふらつく俺に、鋭い頭突きを食らわせた。戦い慣れているせいか彼はゴキブリが痛がり、行動不能になるポイントをよく知っている。


 俺は呼吸を荒くしながらも、どうにか意識を飛ばす事だけは耐えた。


「グフッ。……確かに、俺達には神がいないのかもしれん。人間も俺達を永遠に憎み続け、絶滅するまで狩りの手を緩めないかもしれない。俺のやっている事は無意味かもしれない」


「ああ、その通りだ」


「だがそれなら、お前がやろうとしている事だって無意味じゃないか」


「何だと?」


「仮にお前が人間を殺したとして、人間が俺達を恐れてくれるか? 放っておいてくれるか? 違う。ゴキブリにやられたと知った人間は俺達をますます恨み、より殺し始めるだけだ!」


「……何が言いたい?」


「お前の憎しみの先に居るのは人間じゃない、俺達なんだ! お前の憎しみが晴れた先には、人間の憎しみが俺達に降りかかる。お前はこの世界で暮らす同胞達全員を、死地へと誘う気か!」


「……黙れ。黙れ! やられ続けてきた奴がやり返して、何が悪いっていうんだ!」


 アグイは俺の翅に嚙み付くと、強靭な顎の力で俺ごと振り回した。


 ブチンと嫌な音を立て、俺は床へと放り投げられた。見ればアグイの口元には、俺の翅の欠片がぶら下がっていた。


怪物モンスターめ! 御大層な物言いだが、お前だって自己満足でここに居るのだろう?」


「何だと?」


「仮にお前が俺を止めたとして、人間を救ったとしても誰も感謝しない。ゴキブリに命を救われたなど考えもしないだろう。それどころかお前の救った命はいずれ大人になり、俺達を殺すんだ。お前もまた未来の同胞達を殺そうとしているのを、お前は分かっているのか!」


「分かっているに決まってるだろ! 俺が何も考えず、お前と向き合っていると思っているのか?」


「ならお前は、何故人間を護ろうとする!」


「俺は! 俺はただ……」


 ふらつく脚取りでどうにか立ち上がり、俺はアグイと向き合った。


「俺は未来の無いゴキブリだ。子孫も残せないし、家族も持つべきではない。同胞達を大勢殺し、大切な者を幾つも見殺しにしてきた。罪深き俺がこの世界で生きていていい理由など、本来は何一つ無いのだろう」


 続けて俺は言った。


「俺が未来に残せるのは、俺の意志だけだ。俺は未来に希望を持っている。いつか人間とゴキブリが共存し合い、互いに鐘の鳴り響く夢を見られる世界になると信じている!」


 俺の言葉に、アグイは絶句した。


「……あり得ない。そんな馬鹿げた理想の為に、お前は生きているのか?」


「ここは人間にとって病や怪我を癒す場だが、俺達にとっては理想を語る場所だ。幼き俺達が語り合ったように、かつてのお前がそうであったように俺達は今、自分の未来の為に戦うんだ」


 俺は身体の動作を確認すると、いつでも走り出せるよう準備した。


「アグイ。お前の憎しみと悲しみは、同じ怪物である俺が受け止めてやる。幼きあの頃のように、存分にやり合おう!」


「……ああ、いいだろう」


 俺は迫りくるアグイの姿を見ながら、己の意志を高めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る