罠の上で

「着いたよ」


 そう言って男が止まった場所は、お世辞にも快適とは程遠いような場所だった。空気は淀んでおり、辺りにはゴキブリどころか小虫の気配一つも無い。


 だが陰気な気配とは裏腹に、遠くの方からは談笑をする声が微かに聞こえてきた。歓声のようにも悲鳴のようにも聞こえる音程は、暗闇の中に広がる亡霊の怨念か何かにも感じる。


「ここが、貴方達の住む領地なのですか?」


 俺はなるべく自然な風体で、男に話しかける。


「ああ、そうだとも。確かに少しばかり空気が濁っているが、この濁りのおかげでネズミやノラネコはやって来ない。おまけに高さもあるから洪水だって怖くないぞ」


 男の言う通り、ここはかなり地上に近しい場所にあると思われた。恐らく建物の床下か道端の溝にでもあるのだろう。ネズミやネコの心配は無いかもしれないが、人間が手を下してくる可能性は大いにあり得る場所だ。


 だがその割には、周囲から人間の気配が何も感じられない。店や人家なら人間の声や足音が伝ってきても不思議では無いし、車や電車が通る騒音も感じられない。地下と地上、互いに息を殺し合っているかのような空気が漂っている。


 辺りを見渡していると、男の不気味なまでの笑顔がぬっと目前に現れた。


「早速だが君には、ちょっとした試験を受けて貰いたい」


「え、試験ですか?」


「そう。ここに住む為の、ちょっとした手続きみたいなものだ」


 そう言うと男の背中の翅が開き、中から鈍い光を放つ棘状の物体が現れた。


 針だった。人間が壁や衣服の縫い付けに使うような細長い針が今、俺に向けられていた。


「安心したまえ。痛みは一瞬だ」


 見れば針の先端には、同胞達のと思われる体液が染みついている。それを覆うかのように謎の液体が微かな光を反射させながら、潤いを与えていた。


 俺は反射的に後ずさりをしたが、男は笑みを一瞬たりとも曇らせない。


「落ち着きたまえ。なに、ちょっとした安定剤みたいなものさ」


「安定剤にしては、やけに物騒な見た目ですが?」


「実際のところ、少しばかり物騒な代物だ。こいつが体内に入ると頭と全身が麻痺を起こし、俺達の言いなりになるんだ」


 その言葉に俺は跳躍し、壁に張り付いて男を見下ろした。男は俺の行動に驚くどころか寸分変わらぬ笑顔を張り付けたまま、赤子のいたずらを窘めるような目つきで俺を見た。


「大人しくしてくれよ。こいつは二回分注入しないと、効果が表れないんだ。まあ場合によっては、一回で大人しくなる事もあるけどね」


「……どういう意味です?」


「さっき言っただろ? ってね」


 その言葉を聞いた途端、身体から血の気が引く思いがした。神経を尖らせた今なら分かるが、あの針の先端に付着した液体は、こいつを連れて来た女性が醸し出ていたモノと同じ匂いがする。彼女は確かに見目麗しい女性だったが、コギタの友は彼女の美貌にではなく、この怪し気な薬物によって骨を抜かれたのだろう。


 だがそうなると一つの疑問が残る。あの液体が何かは知らないが、恐らくは人間の所有する毒物を盗んできたモノに間違いは無い。


 しかし人間が俺達に使う薬物は、基本的に即殺そくさつする為の代物だ。身体に麻痺を起こし神経を狂わせる薬物など、一体何の為に用意したのだろう。


 だが今はそれも後回しだ。少なくとも今の俺はその危険な薬物を向けられた、狩られる側の生物だ。あの男をどうにかしない限り、俺はニコらを探すどころか、自分の価値すらも見失った意志無き存在と化してしまう。


 下を見ると、男の姿は無くなっていた。逃げたか仲間を呼びに行ったのかとも思ったが、あの様子ではそれも考えにくい。


 恐らくこの闇と淀みに紛れて、俺を襲う気なのだろう。男の言い分から考えれば、奴は俺をたった一刺しするだけで自由を奪えるのだ。一発が致命傷となると厳しい戦いになる。


 ましてや相手はネズミでも大蜘蛛でも無く俺の同族だ。俺達がどういう逃げ方をしどういった道程や隙間を好むのかも、奴にはお見通しなのだ。


 それを思うと俺は、笑いを隠せそうになかった。奴は既に俺を仕留めた気でいるのだろう。現に闇に隠れてから全く攻撃をしてこず、それでいて明らかに気配を隠す事なく、陰湿なネズミのような足音で俺を責め立てている。


「……俺を舐めるなよ」


 仮にも俺はあの血生臭いドレスを生き延び、怪物と呼ばれた男だ。陶酔しきった頭の弱いワモンに一太刀くれてやるほど軟弱ではない。


 俺は一呼吸おいてから触角を壁に伝わせ、全感覚を研ぎ澄ました。壁からは男の足音が伝わり、奴から醸し出る薬物の臭いが道筋となって見えてくる。


 俺はその場から二歩分横に逸れると、男の攻撃を躱した。鬼軍曹に比べれば欠伸アクビが出る程の遅さだ。


 男は躱した俺を見て、信じられないような目を浮かべた。


「バカな。何故避けれた? 何故避ける事が出来た?」


「同じ事を二度も言わんでいい。お前とは踏んできた場数が違う。誇大妄想も甚だしい集団の下っ端に殺される程、俺は甘くない」


 男は俺の言葉に初めて顔を歪めると、睨み付けて猛進してきた。俺はそれを難なく躱して背後を取るが、男は翅をバサバサと広げて俺を追い立て距離を取った。


 男は改めて俺の顔を見た瞬間、ぎょっとした表情を浮かべた。気付けば俺の身体に纏われていた汚れも、ほとんどが落ちていた。


「お前、まさかベルムか?」


「最近じゃその名で呼んでくれる奴の方が珍しいな」


「ドレスの怪物がここに何の用だ? 組織を潰しに来たか?」


「なに、預かり物を返して貰いに来たんだよ。だが彼女達に掠り傷一つでも付いていたなら、本気で貴様ら全員潰してやる」


 そう言って俺は、先ほど彼の翅からくすねた針をちらつかせた。針を奪われた事に気付いた男は瞬時に顔を青くさせた。


「か、返せ! それを返すんだ!」


「だから二度も言わんでいい。返して欲しければ返してやる」


 そう言って針を暗闇の虚空へ放り投げると、男は俺から目を逸らした。


 その後は一瞬だった。俺は一気に距離を詰めると、男の腹の辺りに鋭い頭突きを食らわせた。男は小さな悲鳴をあげると、気を失ってそのまま地面へと落ちていった。


 俺は地面へと降りると針を探し出し、先端に触れないようにゆっくりと持ち上げて隅に放り投げた。男の方は地面にしたたかにぶつけられたが、大した高低も無い場所なので損傷は無いに等しい。


 俺は一息つくと、背後の闇に向かって口を開いた。


「コギタ、いるんだろ?」


 俺の言葉に、コギタは物陰から出て来た。


「道はかなり入り組んでいた筈だが、よく俺の居場所が分かったな?」


「アンタの臭いが強すぎるんだよ。ふざけた変装にも意味はあったって事か?」


「さあな」


 そう言って俺達は向き合った。暗闇と靄でよく見えないが若干怯えているのだろう。開いた口から出た言葉には波が立っていた。


「一体何だったんだコイツは? 何でワモンがアンタを殺そうとする?」


「さあ、俺が人気者だからじゃないか?」


「誤魔化すなよ。……話は聞いていた。アイツはその薬物を使われて、ここに連れてこられたのか?」


「ああ、間違いないだろう」


「一体何の為に?」


「さあな。意志を奪って従順な奴隷にするか、子供でも作らせるのか。それともお前の言った通り既に殺されて、食材として何処かで誰かのランチになっているのか……」


 俺の言葉に、コギタは忌々しそうに倒れている男を見た。俺はそれを見て、また一つ息を漏らした。


「どちらにしても、ゴキブリの復権なんてのには程遠い連中だ」


「あら、そんな事無いわよ」


 その言葉は闇の奥から飛んできた。コギタは直ぐに警戒態勢を取りいつでも走り出せるように構えたが、俺はそれを若干遅らせてしまった。相手があの鬼軍曹だったら、今頃バリバリと噛み砕かれていただろう。


 その声は俺にとって、とても馴染み深い音程をしていた。優し気ながらも儚い弱さのある声は、幼少時から聞き続けたものだった。


「アグニ、どうしてお前が?」


 俺はそう言って、自信に満ちたアグニと向かい合った。

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