3-7 仙崎誠、子どもあつかいしないで



 数年ぶりにあった尾藤教授は、当時となにひとつ変わらぬ容姿で、あたかも俺や彩音と変わらぬ年頃の若者のようで、本来の齢を感じさせない。


「お久しぶりです、尾藤教授。お変わりないようで」

「ずいぶん他人行儀なことだ、誠君。私はいまでも君を我が研究室の徒だと思っているのだがね。やれやれ、やはりあの狸爺のところへ君を送り出したのは間違いだったかもしれないな」

「その節はどうもお世話になりました。まさか、妹が尾藤教授の研究室へ入ることになるとは。言動共に、少々乱暴なところもありますが、どうぞよろしくお願いします」

「ふむ、その言葉はいったん保留しておこうか。なにを突っ立っている。掛け給え」


 来客用ソファの隅で肩をすぼめている晶子にチラと目をやる。手元には飲みかけのコーヒーとどら焼きの包装紙。持って行った手土産を、お前が食べてどうすんだ。

 が、わざわざ口にすまい。尾藤教授の前というのもある。それよりも言葉にしたい質問は別にある。


「尾藤教授、今日僕が呼ばれた理由はなんでしょう」


 その問いに、彼女は口の端を吊り上げて、


「君が昨夜、不謹慎にも、いや不躾にも、あのようなメッセージを寄越したからだよ」


 1+1は、という問題に対して、2sin90°と返すような答え。一見してかみ合っていないような問答だが、彼女の中ではきっと帳尻が合っているのだろう。しかも俺がそれに首を傾げれば、にやにやとその様を眺めるところも相変わらずだ。

 察するに、俺と晶子を引き合わせたかった、というところだろうか。なぜ晶子がここにいるのかは皆目見当もつかないが、俺はまんまと尾藤教授の謀りにはまった訳だ。


 もういちど、晶子を盗み見る。俯いたまま、手をこすり合わせたり、鼻の頭を掻いたり、ときたまコーヒーで唇を濡らしている。


「では、なぜ晶子……妹がここに?」

「その質問を私にするのは誤りだ。晶子くんがここへ来たのは、彼女の意思だ。言いたいことがあるならば直接言い給え。聞きたいことがあるならば直接聞き給え」


 尾藤教授の眼力に堪えかねて、たまらず首を真横に向ける。改めて見据えた晶子の恰好は昨日のまま、髪は飛び跳ね気味、目元はうっすら隈取られている。


「お前な、教授のところに来るんだったら、身だしなみくらい整えてこい」

「う、ん……」


 あっけないくらいに素直にうなずく晶子。様子がおかしい。


 いや、昨日の夜から晶子の様子はおかしかった。あえていうなら、その程度が大きくなっている、ひどくなっている、というべきか。教授の前で畏まっているにしても、借りてきた猫というよりかは刈り取られた羊みたいな弱々しささえ見受けられる。


 ぎこちないやり取り。以前までだって潤滑な関係だったかといえばはなはだ疑問だが、例えるなら、いままでは空回っていた歯車が、こんどはぎちぎちと歪にかみ合ってしまっているような。兄妹水入らずという言葉があるが、油すら差していないような。

 ならばこの尾藤教授こそが油というのか。馬鹿な。彼女自身が俺に命じたではないか、「言いたいことがあるならば直接言い給え。聞きたいことがあるならば直接聞き給え」と。そもそも、瑞々しく見えるだけで、真実は年かさ重々の老体にオイリーさを期待するのが無体というものか。


「いま、失礼なことを考えなかったね」

「いえいえ滅相も」


 視線を戻す。

 俺が、晶子に言いたいこと。それは昨夜にグラタンを頬張りながら話したこと。

 晶子が、俺に聞きたいこと。それは。


「あなた、本当は院進したかったんでしょう。だったら、すればよかった」

「言っただろ。うちにはふたりも大学に通わせるだけの経済的余裕がなかった。それだけの話だ」


 とっさに投げかけられた質問に、反射的に切り返す。昨日とまったく同じ調子、まったく同じ内容。


「お金が厳しいっていうんなら、私だってアルバイトなり奨学金を借りるなりする」


 それに対する俺の答えもやはり変わらない。

 そして、


「子ども扱いしないで」


 しかし、一晩経ったいまでなお、その言葉に対する回答を、俺は持ちえなかった。

 子ども扱いしないで。その真意を、意図を、胸の裡を、どう解釈してやればいい。

 胸を衝かれ、虚を突かれ、放心する俺のかたわら、くつくつと奇妙な音が聞こえたかと思いきや、そのボリュームは次第に大きくなっていき、そしてそれは尾藤教授の不気味な含み笑いで、


「ククク。そうか、なるほど、ようやく合点がいったよ。催眠術まがいの脅迫では白状しなかったというのに、誠君が来た途端、洗いざらい打ち明けるとは。それともマットとジェフか。しかしいかんせん、それでは言葉足らずというものだ。それを自覚しているというのなら、大した女心――いやこの場合が妹心かな――だが、その様子では、あるいは自分の発している言葉の意味も理解していないのではないのかね」


 辛抱たまらず呵呵大笑とでもいうように、ついには大口を開けて笑いだす始末。尾藤教授は、俺にも及びもつかない、晶子の胸襟の裡を覗き込めたらしい。

 けれど、いまの彼女の言葉を聞く限り、当の本人すらも身に覚えのない晶子の心情を見抜き去ってしまったことになる。


 実際、晶子の方を見やれば、きょとんとした顔で尾藤教授を眺めていて、兄妹揃って間抜け面をさらしてしまう羽目になった。


「晶子君を見ていると、若かりし頃の自分を見ている気分になる。私もかつては臆病な小心者で、他者に自分の胸の裡をさらけ出すどころか、面と向かって話をすることもできなかった」

「そんなバカな――あだっ!」


 しまった。つい口を出て飛び出してしまった。飛んで行った言葉の代わりといわんばかりに、どら焼きの空箱が返ってくる。


「よろしい。少々手順前後ではあるが、君が私から聞きたかった答えを述べよう。そうすれば、自分の気持ちにすこしは整理をつけられるかね」


 尾藤教授は、いよいよことさらに演劇めいた身振り手振りを加えつつ立ち上がり、自身のデスク、本来の自分の椅子の前まで歩いていく。そして大仰に手を広げ、


「君が私の研究室へ、それも外部から進学してこられたのは、まぎれもなく君の不断の努力によるものだ。私の耳目は節穴ではない。優れた者は歓迎し、劣った者は容赦なく切り捨てる。仮にそこな不敬者が、君を落第させろと言ったならば、その口を縫い付け、磔刑に処してやろう。安心し給え、私は君を高く評価している」


 その言葉にどれほどの価値があったのか、俺には分からない。彼女の着飾った文言は、つまるところかみ砕いていえば、「私はすべての候補者を公平に採点した」ということに過ぎず、至極当たり前のことだったから。


 けれどその言葉は確かに、晶子の心になにかを訴えたのだろう。うつむきがちだった顔はまっすぐに尾藤教授の方を向き、そしてそのなにかを確認したようにうなずき、


「子ども扱いしないで」


 一字一句違わないはずなのに、ついさっき聞いたそれとも、昨夜聞いたそれともまるで異質。それは、ある種の宣誓めいていた。


「私は子どもじゃない。だから――」


 一瞬、嫌な予感が脳裏をよぎる。しかしそれはまったくの杞憂であった。


「これから大学院で勉強して、研究を続ける学費を出してください」

 言うや否や、晶子は深々と頭を下げた。晶子が誰かに頭を下げている光景なんていままで見たことがなかったから(しかもその相手が自分自身)、俺はちょっとへどもどしながら、


「前にも言っただろ。お前は好きなように研究すればいい。別に改まって言う必要は……」


 そこで晶子は俺の言葉を遮って、かぶりを振る。まっすぐに俺の目を見つめている。


「違う。これは、ただのけじめ。私が、私の意志で、大学院に進むんだってことを納得するための」


 そう言って、晶子は気恥ずかしそうに笑った。


「なんでもする……って訳にはいかないけれど、これからはもうすこし、恩に報いようと思う」


 ずいぶんもったいぶった言い様だったが、俺は黙ってうなずいた。


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