Joy & Pain

Joy&Pain

 彼女の視線の先にはいつも彼がいた。彼女は彼を愛していた。拉致して部屋に監禁して、一日一本ずつ髪の毛を抜いてプレパラートに載せて、その髪の細胞が死滅するのを顕微鏡で覗きながら一日を過ごしていたいくらいには。彼が平均的な髪の本数を有していれば、丸坊主になるまでに二百年以上楽しめるライフワークになるだろう。しかし彼女はそんなことはしなかった。いつもそんなことを考えるほどに気が狂っていたけれど、実際に行動に移すほどには狂っていなかったから。彼女は彼を見つめるだけで、かろうじて満足であった。

 彼の苦痛や悲痛は彼女にとっても苦痛であり悲痛であった。彼の悲しむ表情を見るだけで、彼女の心はぐらんぐらんと揺れ、涙があふれそうになるのだった。愛する人に声をかけるでもなくじっと陰から見つめ続ける彼女の心は一般的な観点から見て歪んでいるといえたが、愛する人の苦しむ姿を見て喜ぶほどには彼女の心は歪んでいなかった。だが一方で、彼の喜びは彼女の喜びではなかった。彼の喜びの源が彼女になることはないから。彼は無意識のうちに彼女を悲しませ続けた。その結果、彼女はほとんどどころか完全なる逆恨みで彼を憎んでもいたが、その憎悪すら愛の炎の薪として燃えていく以上の効力を持つことはなかった。

 彼は彼女の脳のようでもあった。すでに彼女の心にとっての喜びも悲しみも彼が支配していて、つまり感情を司るのは彼であったのだから。彼女は彼を脳として認識することにしていた。“運命の人”なんて言葉では足りなかったし、彼にとっては運命ではないと承知の上でもあったので、あのひとは私の脳味噌である、と彼に自分にとって不可欠な役割を与えることで、無理矢理自分を納得させたのである。食事をとるのは明日も彼を見つめるため。眼鏡を作るのはもっと彼の輪郭をくっきりととらえるため、早寝早起きするのは彼の姿をなるべく長時間追い続けるため。酩酊して前後不覚になるわけにはいかないので禁酒、煙草の煙で彼の姿がぼやけさせるなど愚の骨頂なので禁煙。恋の病は、むしろ彼女の健康に貢献した。

 

 彼はあまりに鈍感で愚直でおまけに不細工だったため、己が女の目線を受けているとは思いもしなかった。毎日見かける彼女の姿を認識はしていたが、偶然以上の言葉を見出すことは無かった。そこまでの偶然ならばいっそ運命を感じても良かろうに、それすら心に芽吹くことがなかったのが彼の鈍感かつ愚直かつ不細工たる所以のひとつともいえよう。

 彼はしかしその鈍感と愚直の利点を意識せずうまく作用させることにより恋人を作ることに成功し、また三年後には結婚というゴールかつ墓場に滑り込むこととなる。彼女はそれでも彼の姿を追うことをやめなかった。私の脳味噌が他人と結婚したので頭かちわります、というほどの勇気と狂気は彼女にはなかったし、一方で彼と脳味噌を同一化させる異常さに気付かないほどの狂気だけは持ち合わせたままだったから。鈍感かつ愚直かつ不細工というイメージから想定されるように彼は子沢山となり、ほどほどに愛する妻と子供と幸福な人生の道のりを順調に歩んでいた。彼女は、彼にそっくりな子供たちを遠目で見つめながら思った。

 私の脳味噌の子とは、私自身にとってはなんなのだろうか。脳味噌の子供、それはすなわち“心”ではないのか。心とはつまり私自身ではないか。あの子供たちこそが、私自身といえるのではないか。

 そのくだらない妄想は、しかし彼女にとっては真実で、そしてこの上ない喜びであった。彼の喜びが、はじめて彼女の喜びへと繋がったのだ。


 彼女は彼によって、つまり脳からの信号によって身体だけは健全な日々を過ごし、結果長寿を保つこととなる。彼の死を彼の家の外から看取ったあとも、自らの心、すなわち自分自身である彼の子供たちを物陰から見つめ続けた。彼の子供たちは、毎日出会う老婆の姿を認識してはいたが、鈍感かつ愚直かつ不細工であったため、彼女の人生に思い巡らせることは一度もなかった。

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Joy & Pain @frog_bungei

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