エピローグ

「あー……。腹へったぁ」


 青葉生い茂る頭上を見上げて、彰はだるそうな声を漏らした。


 なかなかに大きな独り言だったが、返ってくるのは名も知らぬ鳥の鳴き声だけ。特に何があるわけでもない郊外の森に分け入る者など、そうそういないのだから当然といえば当然だ。


 春の森独特の、若葉の匂いが染み込んだ空気を思い切り吸い込み、はぁ、と彰は辛気臭いため息を吐いた。木漏れ日が降り注ぐ森の中は昼に近い時刻でも涼しく、湿気を僅かに含んだ大気と相まって、とても清々しい空間となっている。


 が、しかし。


 いくら新鮮な空気だろうが、吸い込んだところで空腹を満たしてはくれないのである。彰は朝飯もそこそこに、もうかれこれ三時間以上も森の中を歩き回っている。そろそろ気力とか腹具合とかその他諸々が限界に近くなってきた彼は、作業を一時中止して色々と充電しているところだった。


「あ~っ!」


 聳え立つ木々をぼへ~っと彰が眺めていると、横手から大きな声が飛んできた。


「サボってるしっ!」


 少女特有の高く綺麗な声を弾ませて、声の主は彰のそばまでやってくる。動きやすそうなパンツスタイルに身を包み、小ぶりなリュックサックを背負った菜央は、口を尖らせて彰を睨み上げた。


「彰くん、真剣に探してる?」


 腰に手を当て、眉根を寄せ、ジト目で見上げてくるという、いかにも怒ってますといったポーズだが、小柄で華奢な彼女がやってもいまいち迫力がない。


「探してるよ。でも、デジカメなんて小さいもん、この森ん中で見つかんのか?」


「見つかんのか、じゃないの。がんばって見つけるの!」


「さいですか。ほんと、無駄に元気だなーお前は」


「それが私の取り柄だからねっ!」


 ぐっと誇らしげにサムズアップした菜央は、やる気ゼロの彰に代わって付近の捜索を始めた。


 狐憑きの件が解決してからちょうど一週間。菜央はすっかり元の元気娘に戻っていた。今日はその菜央に付き合って、ここらで失くしたというデジカメを探しているわけなのだが。


 広い森の中で、手のひらほどの大きさのデジカメが見つかる確率など、お世辞にも高いとはいえない。おまけに、どこに落としたのかは菜央の曖昧な記憶頼りなため、午前中いっぱいを使ってもまだ見つかっていないのだった。


 朝飯の直前に呼び出され、最低限のカロリーしか摂っていない上に、ず~っと歩きっぱなしの探しっぱなしで、彰はもうへろへろだ。


「ん~、うん! 今度はこっち探そう!」


「へ~い……」


 言いながら、藪を踏み越えていく逞しい幼馴染の後ろを彰はのろのろとついて行く。


 驚いたことに、菜央は一週間前に自身の周りで起こったことを朧げにだが覚えているという。学校では二宮にお礼を言っていたし、鎌鼬三兄弟に会いたいなとも喋っていた。


 普通はあんな体験をしたら、意気揚々と被害にあった場所には来ないだろうが、プラス思考の塊みたいな菜央にとってはこれが当たり前らしい。


 二宮の話では、白玲はこの森に戻ってきている、ということだった。溜め込んだ負の感情を取り除いてやったから、もう人に憑いたり、害を為したりはしないのだとか。こうして何時間もうろついても平気なのだから、本当に心配はいらないのだろう。


 そういえば、二宮はどうしているだろうか。彰は思い返す。一時間ほど前に、手伝ってくれ~と電話で頼んだ時、用事があるからといって断られてしまったことを。


 せっかく道連れにしてやろうと思ったのに。と、少しばかり意地の悪い感想が浮かぶ。


「あ~っ!」


 あれこれと考え込み、完全に上の空だった彰は、休憩を見咎められたときよりさらに大きな菜央の声で現実に引き戻された。あからさまにサボっていたのがばれたのかと思ったが、そうではないようだ。菜央は棒立ちで森の奥を見つめている。


 その先にいたのは一匹の動物であった。


「狐? へぇ、珍しいな。こんな真っ昼間から出てくるなんて」


 狐は夜行性で警戒心が強い動物らしいから、こんなところで、それも昼間に見かけるなんてかなり珍しいことだ。


 観察するようにじっとこっちを見つめていたその狐は、ふいっと視線を外して身を翻す。そのままどこかに消えようとする狐を見て、棒立ちだった菜央が何の前触れもなく走り出した。


「ちょっ……おい! 待てよ!」


 彰の制止も無視して、菜央は狐の後を追っていく。


「待てって! 迷子になったらどうすんだバカ!」


 突然のことで出遅れた彰は、遠ざかっていく菜央の背に向けて声を張り上げ、慌てて彼女を追いかけていった。











 整備されていない森は、ひどく走りにくい。雑草で足元が見にくい上に、地面はやたらでこぼこしていて、木の根や石に躓くこともしばしばだ。


 菜央はさすがに慣れているのか、跳ねるように木々の間を駆けていく。空腹で力が出ない彰には、彼女に追い付いて引き止めるほどの余力はなかった。


 菜央が足を止めたのは、走り出してから二分ほど経ったころであった。密集していた樹木がそこだけ極端に少なくなっていて、ぽっかりとスペースが開いている。陽光を遮る葉がほとんどないため、場違いなほどに明るいところだった。


「見失っちゃった……」


 僅かに息を弾ませて、菜央が呟く。


 そういえば、追いかけていた筈の狐の姿はどこにもない。彰は菜央の背を見て走ってきたので当の昔に狐を見失っていたが、菜央にはここに着くまでしっかり見えていたようだ。


 彰は日差しが燦々と降り注ぐ温かな空間を見回した。


「お? 誰かいる」


「ほんとだ」


 それほど広くはないこの場所には先客がいた。少し離れた所に、木造りの祠のようなものがあり、その傍に佇んでいる。なんとなく、二人はそちらに足を向けた。恐らく二人とも、この時は全く同じことを考えていただろう。


 なんか見覚えがあるな、と。


 人が近付く気配を感じたのか、背を向けていた彼は彰たちへ振り向いた。


「あ、やっぱり二宮くんだ」


 予想通りの人物に、菜央が驚いた声を出す。


「池永、と篠原さん? 君たち、どうしてここに?」


 眠たげな目をほんの少し丸くして、二宮は尋ねてくる。心底不思議そうだ。


「そりゃこっちの台詞っつーかなんつーか……。俺らは狐を追っかけて、偶然ここに辿り着いただけで」


「そうそう! なんかね、こっちに来て~って言ってる感じがしたの」


 胸の前で手を合わせ、二宮の方へ乗り出し気味になって、菜央は彰の言葉を繋げた。


 呼ばれてる気がした? なるほど、それで。と、彰は菜央の突然の行動に合点がいった。気のせいと言うには、思い当たる節がありすぎるのだ。場所、案内役、そして人物。結びつけない方が彰には難しかった。


「ふぅん……」


 元の眠そうな目に戻った二宮は、彰と同様の結論に達したのか、納得したような声を出し、シャツの胸ポケットから四角いものを取り出した。


「僕がここにいるのは、白玲から頼まれごとをしたからだよ。これ、返してあげてくれって」


「あ~っ! あたしのデジカメっ!」


 本日三度目の大声を出した菜央は、目をキラキラさせてお気に入りらしいデジカメを受け取った。カメラの調子を見て、無事なことを確認した彼女は、大事そうにそれをリュックサックにしまい込む。


 そのやり取りを横目に、彰は先ほどから気になっていたものへ体を向けた。木造りの祠らしきもの。自然物の中にひとつだけ、ぽつんと存在する人工物を前にして、彼の脳裏に引っかかるものがあった。


「なあ、この祠って、もしかして白玲が封印されてたやつだったりするのか?」


「そうだよ。今はもうこの中に白玲はいないけどね」


 またあの祠へ封ずるのか、と彼女は言っていた。この古びてほとんど崩れかけの祠がそうなのだろうか。そう思って聞いてみたのだが、どうやら当たりらしい。


「そっかぁ。こんな所にず~っと閉じ込められてたんだ。それって、ちょっと可哀想だね……」


 観音開きの小さな扉の中を覗き込み、声のトーンを落として菜央は言った。


 どうなのだろう。封印された妖怪の気持ちなど、彰には分からない。ただ動けないだけで意識があるのか、それとも長い睡眠のようなものなのか。封印というものがどういうものなのかも知らないので、彰に言えることなど何もない。


「あたし、一週間ずっと一緒だったから覚えてるんだ。あの人から、すっごく寂しい、辛くて堪らないって気持ちが伝わってきて、痛いくらいだった。どうして、あの人はこんな所に閉じ込められくなちゃいけなかったんだろ」


 彰は勘九郎の言った言葉を思い出していた。


 妖にも心はありますから。


 妖怪も人間と同じように、寂しい、辛いといった感情を持つ存在なのだと、そういう意味を込めて彼は言ったのだろう。


 もしかしたら、白玲にも彼女なりの理由があって、人に取り憑くという行為におよんだのかもしれない。考えてみるが、彰は菜央の疑問を解く答えを持たない。場がしんみりとした空気に包まれ、沈黙が三人の間に下りた。


「これは、僕の祖父から聞いた話なんだけど」


 今まで黙って話を聞いていた二宮が、不意に話を切り出した。


 ちちち、という鳥の声が、どこからか聞こえてくる。それが大事な話だと察した彰と菜央は、二宮に顔を向け、続きを待った。


 時間の流れに取り残されたようなのどかな雰囲気の中で、二宮は静かに語り始める。






 この町がまだ村だった頃、村の外れには一人の男が住んでいた。


 ある日、その男が森に水を汲みにいくと、泉のほとりに、それは綺麗な女が立っているのを見かけた。


 女はすぐに立ち去ったが、男は白い髪を持つその女が気になり、その後毎日、その姿を探すようになった。


 一月ほど経つと、男と女は二日に一度、一言二言、言葉を交わすようになった。


 さらに一月ほど経つと、男と女は時間を決めて、毎日会うようになった。


 またさらに一月ほど経つと、男と女は一緒に暮らすようになった。


 その頃にはもう、男が綺麗な女と一緒に過ごしていることは、村の誰もが知る話になっていた。


 あるとき、村に一人の坊さんが立ち寄った。


 村人に話を聞いた坊さんは、男の元を訪ね、


『お前は化け狐に誑かされている。そのままでは取り殺されてしまうぞ』


 と忠告した。


 男は初め、女を庇い、そんなはずがあるものかと坊さんに食ってかかった。


 だが、坊さんが経を唱え、女が白い狐に姿を変えると、男は恐ろしさのあまり逃げ出してしまった。


 山に逃げ込んだ化け狐は、坊さんによって石に封じられた。


 坊さんは村人に言って、森に小さな祠を建てさせ、村を去っていった。


 狐が封じられた祠に寄り付く者は、その後誰一人としていなかったという。







 二宮が語り終えても、しばらくは静寂がその場を支配していた。


 話に出てきた、狐が化けた白い髪の女。それが誰のことかは、皆まで言わずとも分かる。崩れかけた祠は、通り過ぎた年月だけを物語っていた。


「変だよ、それ。勝手に決め付けて、無理矢理に閉じ込めて。本当にその男の人が好きだったのかもしれないのに」


 ぽつりと零した菜央の表情は、悲しげだった。彼女が共有した白玲の悲しみを思い出しているようにも見える。


 彰は思う。白玲は男を取り殺す気など、一切なかったのではないだろうか。人間に惹かれ、一度は信じたからこそ、人を恨み、憎むようになったのではないだろうか。


 確かに、愛し、信じていた男に恐れられ、裏切られては、人を信じられなくなるのも無理はない、と思う。だからといって、菜央に取り憑いて、菜央の両親を殺しかけたことを許せるかというと、唸ってしまうところだが。


「ああ、そうだ。そういえば、まだ頼まれごとが残ってたっけ。篠原さん、ちょっと」


 沈んだ空気を払拭するように、わざとらしく明るい声を出した二宮は、菜央に手招きすると胸ポケットからなにやら細長いものを取り出した。白い綺麗な玉が一つだけ挿してある、シンプルな作りのかんざしだった。


「え、あたしに?」


 いきなり差し出されて、菜央は困惑する。


「白玲が、お詫びに渡してくれってさ」


 でも、と菜央は受け取ることを躊躇した。あの話を聞いたあとでは、受け取りづらいのだろう。こいつは普段は図々しいくらいなのに、こういう時は遠慮がちになるのだ。


「貰っとけよ。そういう気持ちは、受け取らないと失礼だろ?」


 仕方がないので、彰は菜央の背中を押してやった。


「……うん、そうだね」


 菜央はおずおずとそれを受け取り、大事そうに抱え込んだ。それから、リュックサックへ丁寧に仕舞う。


 話が一段落し、ふと上を見ると、陽が高く昇っていた。もう昼飯時だ。彰は久しく忘れていた空腹感を思い出した。


「そろそろ帰ろう、菜央。あ、二宮はこれからどうする? もう用事ないなら一緒に行こうぜ」


 彰が二宮に尋ねると、


「僕は少しやることがあるから、ここに残るよ」


 彼はゆるゆると首を振った。


 どうせなら一緒に昼飯でも食べようかと思ったが、用事があるというなら邪魔をするわけにもいくまい。まあ、また日を改めればいいか。と彰は素直に引き下がった。


「そうか。んじゃ、またな」


「また学校で会おうね!」


 二宮に別れの言葉を告げた彰と菜央は、他愛無い雑談に興じながら、再び森の中に分け入っていった。











 二人が見えなくなるまでその背を見送った智久は、木造りの祠へ向き直る。


 静けさに包まれるこの場所に取り残された、崩れかけの祠。明るい空間にあっても、どこか物寂しく感じてしまうのは何故だろう。


 感傷的になっているな、と智久は自嘲した。浸っている場合ではない。


「与一、小次郎太、勘九郎」


 三枚のカードを掲げて各々の名前を呼ぶと、たちまち鎌鼬三兄弟が風を纏って姿を現した。最後の用事を済ますために、彼らの力を借りるのだ。


「じゃあ、お願いするよ」


 智久は用件を一切告げなかったが、三兄弟は説明されずともやるべきことを知っているようだった。


 彼らは無駄口も叩かず、瞬く間に祠を切り刻んで小さな小さな破片に変え、そしてカードの中に戻っていった。


 祠だった木片が、春風に攫われていずこかへと流されていく。


「……余計なお節介だったかな」


 散っていくそれを無言で見送った智久は、静かに呟き、その場を後にした。


 残されたのは、春の柔らかな日差しが降り注ぐ静謐な空間。


 そこにあるものは、風に揺れる木の葉の音と、鳥の囀りだけだった。

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