9.油断、慢心、出し惜しみ
時間にすれば一分にも満たなかったと思う。まばたきすることすら憚られる膠着状態は、唐突に終わりを迎えた。
急に辺りの闇が濃さを増し、視界が悪くなる。何本かの蝋燭の火が消えたためだと彰が理解したときには、既に攻撃が始まっていた。
蝋燭に意識が向いた一瞬を狙い、狐たちは放たれた矢のごとき速さと鋭さで二宮へ突進した。ジグザグな軌跡を描いて、絡み合うように目まぐるしく動きながら距離を詰めてくる二匹の狐。
単純な速さよりも、軌道の読みにくさの方が厄介だ。こういう場合、焦って手を出すと隙が生まれるもの。二宮の前方を守っていた与一は、前傾姿勢を保ちつつ、狐が懐に飛び込んでくるのを待っていた。標的に牙を向く瞬間もまた狙うべき隙であると理解しているのだろう。
上下二段から躍り掛かる二匹の狐を迎撃するべく、与一の体が僅かに沈み込んだとき、暗闇を切り裂いて左右後方から狐が飛び出した。
複数を相手取る場合は、同時に仕掛けられたときより、タイミングをほんの少しずらして攻撃されたときの方が対応しにくい。タイミングが同じなら、どれか一つを突破すれば残りの攻撃をかわすことにもなる。
問題となるのは手数の多さ、そして攻撃から次の攻撃までのタイムラグの短さなのだから。
その点で考えると、狐たちの仕掛け方はベストだった。普通ならばタイミングを外されたことで意識が逸れ、対応が遅れるに違いない。ただ、与一と小次郎太にとってはその程度の遅れなど、その比類なき瞬発力をもってすれば十分にカバーできる誤差であった。
前方の二匹は与一、後方の二匹は小次郎太が瞬時に撃破した。胴体を真っ二つにされた四匹の狐は断末魔を上げることさえ出来ずに消えていく。
放たれた獣は全部で六匹。これで四匹が無力化された。残る二匹はというと。
「上だ!」
二宮の頭上にいた。彰がそれに最も早く気付いたのは、ひとえに離れた場所で戦いを見ていたためだった。二宮たちは彰の声が耳に届く前に、気配を察して頭上を振り仰ぐ。
与一と小次郎太が即座に迎撃するが、彼らの瞬発力をもってしても、頭上から襲い掛かる二匹に手傷を追わせるのみに留まった。
白玲の顔が喜色に染まる。真に彼女が狙った瞬間はここだったのだ。厄介な攻撃を退けた直後の気の緩み。そこを死角から突き、仕留める。
「……っ!」
彰に出来たのは、ただ息を呑むことだけだった。
変化は一瞬。二宮の頭上に薄紫の帯が見えた。かと思うと、団扇で思い切り煽られた蝋燭の火のように、欠片も踏み止まることなく炎の狐は消滅してしまった。
「無駄だって言ったろう」
右手に淡く光る札を持って、二宮は言う。自身の宣言通り、掠り傷ひとつ負ってはいない。彼は手にした札を無造作に振るっただけで、二匹をまとめて消し飛ばして見せたのだった。
「馬鹿なっ……!」
衝撃を受けたのは白玲だ。完璧なタイミングで仕掛けた必殺の攻撃をあっさりといなされた。それも羽虫を払うがごとき僅かな力で。驚きのあまり怒りを忘れ、呆然と目の前の結果を見つめている。
彰はほうと安堵の吐息を漏らした。二宮が噛み殺される。そう思った時は本当に背筋が凍りついた。今も手のひらがじっとりと汗に濡れている。
意識の定まらない視線を漂わせていた白玲だったが、二宮の余裕に満ちた瞳を見て、ようやく自分の迂闊さに気付いたらしい。
「くっ……!」
慌てて両腕を振り、再び六つの炎塊を作り出した。敵の前で致命的な隙を見せてしまったことに対する動揺と焦りが、動作と表情によく表れている。
怒りとはまた違った感情によって険しさの増した目で、二宮をぐっと睨みつける白玲。
「行け!」
塊のまま真っ直ぐに飛んでくる炎は、全て二宮に着弾する軌道だ。あれに当たったら大怪我どころでは済まない。避けろ。彰はそう考え、二宮へ注目した。
だが彼は避ける素振りを見せない。
足を動かさない代わりに、右手を持ち上げ、素早く空を切った。札の放つ光が尾を引いて、線を宙に浮かび上がらせる。
一筆書きで描かれたのは単純な構造の図形、五芒星。その中心に投げ入れられた札は、目に見えない壁に張り付いたかのようにピタリと静止し、弱々しかった光の線が力強さを増した。
流れるような動作で作り出された輝く星が、六つの炎塊をまとめて受け止め、無効化する。炎の塊が弾けたときの音は、風船が割れた音にそっくりだった。
攻撃の余韻にため息が重なる。
「いい加減にさ、気付いたらどう? そのままじゃ無理だって」
気だるそうに言う二宮。白玲は訝しげに目を細めた。
「なんだと?」
「相手の力量も分からないほど馬鹿じゃないんだろう? それとも本当に分かってないのかい? いくらなんでもそんな筈はないよね。もしかして……」
言葉を止め、悪戯っぽく笑う。
「他人の体に隠れてないと怖くて攻撃もできない、とか?」
あからさまな二宮の挑発に、返答は無かった。何を言われたのか分からない、といった表情で白玲は固まっている。
戦闘が始まってから何度目かの沈黙が下りた。だがこれは今までの沈黙とは違う。空気が凍りついた、という表現が正に相応しい。
「……ククッ……」
くぐもった笑い声が漏れる。音の発生源は俯く白玲の口だ。こういう言い方はおかしいかもしれないが、白玲は何かに取り憑かれたかのように笑い続けた。
しばしの間、不気味な笑い声がその場を支配する。彰は呆気に取られてその様子を見守った。
「まったく……」
やっと笑うのを止めたかと思うと、白玲がゆっくりと顔を上げた。
「笑わせてくれる」
表情は無い。感情がごっそりとこそげ落ちて、気味の悪さだけが残っていた。
「言うに事欠いてワシを臆病者の腰抜けとのたまうか。よう言うた。ようも言うたなこの小童が」
平坦な口調で喋る白玲の、正確に言うと菜央の体に変化が訪れる。
「なるほどな。確かにお主は手強い。それは認めよう」
遠目からでも分かった。菜央の身体に重なるように見える、菜央ではない誰か別の人物の姿が。おそらくはあれが白玲の本来の容姿なのだろう。
「ワシはお主を少々見くびっていたらしい」
白玲の本体が、菜央の身体から抜け出るように宙へ浮かび上がる。白玲がほぼ全身を晒すと同時に、菜央の目から光が消えた。
「そうさな。もう出し惜しみはすまい」
着物を着た妙齢の女性が空中に浮かんでいた。真っ白な髪を腰まで伸ばし、口元の開いた白い狐の面を被っている。
彼女は口紅の引かれた薄い唇を、ひどく楽しそうに歪めた。
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