1.人は見かけによらない

 人というものは、なかなか見かけによらないものだ。


 学校じゃ真面目な人物が案外そうでもなかったり、風邪なんか絶対に引かなさそうな元気娘が一週間も学校を休んだり、一見して平凡そうな人間が実はすごい特技をもっていたりすることも往々にしてある。


 この春に高校入学を果たしたばかりの二宮智久(にのみやともひさ)はその日、休日を利用して趣味であるお菓子作りを満喫しようと考えていた。だが、いざ始めようと台所を覗いてみたところ、必要な食材がいくつか足りないことに気が付いた。


 そういうわけで、智久は土曜日の午前中というなんとも気だるい時間帯に最低限の身嗜みを整え、のそのそと家を出ることになったのである。


 高校に入って一か月、入学当初のような慌ただしさから解き放たれ、のんびりゆったりとした気分で智久は町を歩いていた。


 智久の住む町はいわゆる地方都市というやつで、新築のビルや集合住宅と、年季の入った建物や商店街が入り混じった、どことなく田舎っぽさが抜けないけれど、都会と言って言えなくはない、そんな町である。


 智久が歩いている大通りは比較的新しい建物や背の高い建物が多い再開発地域。休日ということもあってか、親子連れや私服の若者がそこかしこにあふれていた。


 現在の時刻は十一時。高く上った太陽はなんとも心地よい日差しをそそいでいる。


 横を通り過ぎる車の排気音を聞き流しながら、マイペースに歩を進めていた智久はふと、今日はいつもと違う道を通ってみようかと考えた。それはなんとなく思いついただけのただの気まぐれで、ことさらに変化や刺激を求める性質ではない智久には珍しいことだった。


 特に否定する理由も思い付かなかったので、その気まぐれに従って彼は普段は通らない脇道へと逸れていった。











 麗らかな春の日差しも、高層ビルに囲まれたその小道には僅かしか差し込まず、人が二人通れるかどうかという幅の道には智久以外の通行人はいなかった。


 音の少ない道は静かというよりいっそ寂しげな雰囲気である。さっきまで賑やかな大通りを歩いていたので、その落差は智久を、さながら別世界に迷い込んだような気分にさせた。


 立ち止まってその雰囲気に浸っていた智久は、気を取り直して目的地へと歩き出す。


 が、その足はいくらかも進まぬうちに再び止まることになった。


 迷った訳ではない。目当ての場所への道のりはきちんと頭のなかに描かれている。ならばなぜ歩みを止めたのかと訊かれれば、それは道の中ほどで三人の男達が喧嘩をしていたからだった。


 その光景に智久は驚いていた。喧嘩自体にではなく、喧嘩している三人のうち一人が見知った顔で、しかもその人物が喧嘩などにとんと縁がなさそうな人物だったからだ。


 その人物は池永彰(いけながあきら)といって、智久のクラスメイトだった。


「それは一旦置いといて。問題は……」


 この場合どうするべきか?


 智久は思案する。選択肢はいくつかあった。


 加勢するか、来た道を引き返すか、警察を呼ぶか、止めに入るか、それともこの場で成り行きを見守るか。


 並べた選択肢のうち一つ目はすぐに除外した。事情を知らない自分が下手に首を突っ込むべきではないし、なにより肉体言語で主張しあうのは遠慮しておきたい。


 続いて二つ目も除外する。顔見知りが喧嘩しているのを見て見ぬ振りはやっぱり出来ない。


 三つ目も迷ったが除外。どうやらどちらかが一方的にやられているのではないようなので、事件性はなさそうだ。


 よって智久はしばらく様子を見て、やばそうだったら止めに入ろうという結論に達した。


 万が一の時に素早く対応できるように、ジーンズのポケットに収まっている携帯電話の感触を確認しながらあらためて状況を確認してみると、どうやら池永と顔を知らない二人が対峙しているらしかった。


 二対一にも関わらず、意外にも勝負は五分、いや、むしろ池永の方が押している。


 ほどなくして池永に敵わないことを悟った二人組の片方が、その辺に転がっていた鉄パイプを拾った。池永は相手が凶器を持ったと知るや、警戒して距離を置き、油断なく構える。


 いよいよやばくなってきたと感じ、智久がポケットに手を突っ込んだ。


 手に持った鉄パイプを振りかぶり、男が池永に飛びかかった。


 途端、ひゅっという風の鳴る音とともに、鉄パイプを持った男が派手にすっ転ぶ。それだけでなく、いつのまにか転んだ男の足首に鋭い切り傷が出来ていた。傷口は浅いようだが、衣服もろともすっぱりと切れた傷は明らかに自然のものではない。


 不可解なその現象に恐怖したのか、二人組は池永に何がしかの罵倒を浴びせて去って行った。


 池永は男らの捨て台詞に反応せずにその場に突っ立っていたが、しばらくするとごきごきと首を鳴らし、運動後の軽い体操をし始めた。


 運動を終えた彼はやおら振り返り、そこでクラスメイトの意外な勇姿に感嘆している智久の姿に気付いて、しまった、という顔をした。


 それに対し智久が、


「あれだね、第一印象って案外あてにならないもんだね」


 場を和ませようとして言った冗談は、二人の間に微妙な空気を作っただけに終わった。











「頼む! さっきのは見なかったことにしてくれ!」


「うん、いいよ」


 両手をぱんと合わせ、さらにはがばっと頭を下げてまで頼み込んでくる池永に零コンマ二秒で返答する。


「マジで?」


 智久の即答に池永が反応できたのは、それからたっぷり五秒が経過してからだった。もとより言いふらす気などないのだから、そこまで懇願されなくとも誰か(学校の先生とか)に話したりはしない。


「マジで」


 平坦な口調でそう返すと、池永は脱力して地べたに座り込んだ。


 今は喧嘩の名残で顔が何カ所か腫れているが、智久の記憶によれば、池永彰という青年は涼しげな目元にすっと通った鼻筋、形の良い唇、やや短めの黒髪を校則に触れない程度にさり気なく跳ねさせた美青年だった筈だ。


 体格も、決してがっちりしている訳ではないが、なかなか引き締まっているというのは、サイズがぴったりのTシャツを着ているのですぐに分かった。


 学校では真面目で成績優秀で、運動神経も抜群、人望も厚いと非の打ちどころのない好青年で通っている彼が、男二人を相手取って殴り合いをしているなんて、誰も想像すらしないことだろう。


「一体どうしてあんなことに?」


「昔から結構あるんだよ、こういうこと。その澄ました面が気に食わねえ、とかなんとか言って絡んでくるんだ」


「ああ、なるほどね」


 やっかみや嫉妬から喧嘩を売られるということか。非の打ちどころがないからこそ、それを快く思わない人間も出てくるものだ。


「でも、いちいち相手にしてたら切りがないんじゃないの?」


 昔からというのなら、そういうことを無理なくかわす方法を自然と身につけるものだと思うが。


 池永の正面のビル壁に寄り掛かって腕を組み、智久は尋ねる


「ま、大体はさっさととんずらするさ。でもああいう、こっちより人数が多いからっつって偉そうに威張ってくる奴らは大嫌いなんだよ」


 ぱんぱんとデニムパンツに付いた埃を払う池永。それからそこらへんに投げ捨ててあったジャケットを手繰り寄せ、ばさりばさりと汚れを落として羽織る。


 興奮が未だに冷めないせいか、それともさっきの男達の態度を思い出したせいかは分からないが、吐き捨てる池永の声音には苛立ちがこもっていた。


 こうして話を聞くと、池永彰という青年は見かけによらず激しい気性の持ち主のようだ。


「なんか、意外だね。もっと穏やかな人なのかと思ってた」


「そりゃ周りから見たイメージだろ? 俺はそんなに自分をできた人間だなんて思ってないしな。それに、意外って言ったら俺だってそうだ」


「どういうこと?」


 怪訝に思って尋ねてみれば、池永はちらりとこっちを見て言った。


「もっとつんけんした奴かと思ってたけど、思ったより落ち着いてんのな、お前」


「まあ、ね。これでも人当たりはいい方だと思ってるよ」


「そうそう、そういう言い方がなんか余裕あるように見える」


 にやりと、嬉しそうに笑う顔には嫌味なところが全くない。こういうところが、彼を好青年だと思わせる原因になっているのだろう。


 ふっと、池永の顔から笑みが消える。


「二宮、お前さ、さっき何かやったろ?」


 座ったまま背中を壁に預け、智久の顔を正面に捉えて池永は言った。智久の片眉がぴくりと動く。


「さっきって?」


「俺が喧嘩してるときだよ。鉄パイプ持ってあいつが突っ込んできたとき、あいつ派手に転んだよな?」


「それは池永がやったんじゃないの?」


「俺は何もやってない」


 池永は断言した。真っ向から見据えてくる彼の瞳は確信に満ちている。


「俺は何もしてないんだ。じゃあ何故あいつは勝手に転んだ? あの転び方は明らかに不自然だった。おまけにあんな鋭利な傷がただ転んだだけでできる筈がない」


 畳みかけるように早口で捲くし立てる池永。若干興奮しているようだ。智久は肩を竦めて反論した。


「自分がやってないから僕がやったって? 僕は君の真後ろにいたんだ。尚更できる訳ないじゃないか。距離だって離れてた」


「そこだ」


 びしっと池永は智久を指差す。妙に自信たっぷりの池永の態度に、眉を顰めて智久は首を捻った。


「俺はあの時に見たんだ。なにかが俺の足元を通って、そのあとにあいつが転んで怪我をした。そしてそれは方向的に俺の真後ろから飛んできたんだ」


 今度こそ智久は心の底から驚愕した。


「君、あれが見えたの?」


 人の目に映らないほどの速さで動くあれを視界に捉えることは、並みの動体視力では不可能だ。大抵の人間は風が吹き抜けたとしか感じないというのに。


 智久の漏らした言葉を聞き、池永は勝利の笑みを浮かべた。


「ってことは、認めるんだな? あれはお前がやったってこと」


 ダメ押しで確認を取ってくるそのしつこさに苦笑しつつ、頷く。


「そうだけど、なんでそこまではっきりさせたがるのさ?」


「分からないことがあるのが我慢できない性質なんだ。……それと、ありがとう、助かったよ」


 軽く冗談めいた言葉の次に感謝の言葉である。何故と問う前に池永は説明し始めた。


「あれをやったのが二宮なら、お前は俺の恩人ってことになる。そこははっきりさせたかったからな」


 そういうことか、と一拍遅れで理解すると同時に智久は笑いが込み上げてくるのを感じた。くつくつと笑う智久を、池永が不思議そうに見上げてくるが説明する余裕がない。変に律義なのがどうにも可笑しかった。


 一頻り笑った後、笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を拭いながら尋ねる。


「池永、僕があの時に飛ばしたものがなんなのか、知りたい?」


「もちろん」


「じゃあ、一つだけ約束してくれ。これから見せるものを誰にも話したりしないって」


「? ああ、分かった。約束する」


 池永は尚も不思議そうな顔をしている。


 智久は携帯電話が入っていない方のポケットに手を入れ、何かの文字が書かれたカードを三枚取り出した。


「与一、小次郎太、勘九郎。出て来い」


 智久がそういうと言うと、差し出した三枚のカードからつむじ風が巻き起こった。突然の風に目を瞑った池永は、それが晴れたときに視界に飛び込んできたものを見て、思わず叫んでしまった。


「な、なんだこりゃ!」











 しなやかで細長い胴体、鼻先のとがった顔には丸く小さな耳があり、体長から見ればやや短い四肢をもった動物だった。


 腹は白い体毛、それ以外の全身は茶色い体毛で覆われ、直立した身長は五十センチメートルほど。


 これだけ見ればただのイタチと言えなくもない。しかし、現れた三匹は普通の動物とは明らかな違いがあった。


 それはその動物の前足の、人間で言うところの手のひらの腹あたりから生えている二十センチメートルほどの刃物である。片刃のそれは前足と合わせて見ると、さながら鎌のようだった。


 そう、智久がカードから呼び出したのは、妖怪“鎌鼬”である。


 前置きもなしにそんなものが目の前に現れて驚かない者はいない。池永もその例に漏れず、あんぐりと大口を開けて固まっていた。


「おや、旦那が人前であっしらを呼び出すとは珍しい」


 三匹のうち、智久から見て右端の一匹が言った。その声音は穏やかで、人間のものと大差はない。


「喋った!?」


 二度目の衝撃に池永が我に返る。素っ頓狂な大声に、今度は真ん中の一匹が不満そうに喉を鳴らした。


「おい智久。こいつぁ一体何なんだ?」


 ぞんざいな物言いに荒々しい声。喋りながらそれは背後の智久を仰ぐ。


「池永っていって、僕のクラスメイトだよ」


「くらすめいと? なんだそりゃ、異国の食いもんか?」


「違う違う」


 苦笑する智久。


「クラスメイトとな。ふむ、それは確か、旦那のご学友という意味じゃあございやせんでしたか?」


 初めに喋った方が、前足を顎に添えて言った。その仕草は人間がする動作と極めてよく似ている。


「よく知ってるね、与一。そう、その通りだよ」


「んで、結局こいつは何なんだ?」


「小次郎太、お前さんはあっしの言葉を聞いてなかったのか? この方は旦那のご学友だ」


 小首を傾げる小次郎太に、与一は呆れたような声を出す。


「ふうん、なんだか分からねえがまあいいや」


「自分で聞いておいてその言い草はないだろうよ、小次郎太。だいたい、旦那のご学友に対してこいつとは……」


 既に興味をなくしたらしい小次郎太に、与一が説教をし始めた。長くなりそうだと思った智久はやんわりとそれを仲裁する。


「まあまあ。納得したんならそれでいいよ」


「むぅ。分かりやした。旦那がそう言うのなら、今はやめときやしょう」


 主人に言われ、しぶしぶと言った様子で与一は引き下がった。


「二宮」


 それまで呆然とその光景を眺めていた池永が、気の抜けた声をぽつりと零した。


「お前、一体……。それにこいつらは……」


 目の前の状況が信じられないといった面持ちで、池永は智久に問うてくる。


 智久は言い辛そうに、微苦笑してその問いに答える。


「突然でびっくりしたかも知れないけど、こいつらは悪い奴らじゃないから安心していいよ。この三匹は僕の使鬼、使い魔みたいなものだ。それで僕は、まあその……」


 こういう説明に慣れないためか、若干照れたように頬を掻きながら、一拍の間を置いて智久は言った。


「一応は陰陽師ってことになってる」




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