#6 隠し事
週明けの月曜日。カーテンを開けると、窓の外はバケツをひっくり返したような雨が吹き荒れていた。リビングにいたハルも、どこか憂鬱そうな表情で窓の外を見ていた。
「おはよう、渚」
「おはよう。警報出てる?」
「今は出てないけど、昼頃に警報が発令されるかもって、お天気お姉さんが言ってた」
「それ、一番最悪なパターンだな」
「だね」
途中で帰らせるぐらいなら、警報が発令される可能性がある日は休校にして欲しいと切に願いながら、僕たちは少し早めに家を出ることにした。
「一応確認しておくけど、教室では何があっても他人のフリをすること。いいな?」
下駄箱で上履きに履き替えながら、ハルに念を押す。彼も「分かった」と頷き、僕から少し距離を置いて歩いた。これできっと大丈夫だと信じて、教室の扉を開けようとしたその時だった。
「ほら、これ見ろよ。二人が観覧車に乗るところ、偶然見ちゃったんだよね」
「え、マジ?あの二人って、もしかしてそういう関係だったりするの?」
「嘘、ショック。ハル君、狙ってたのになー」
「というか、よくあのメンヘラと一緒にいられるよな。俺だったら絶対無理だわ」
扉の前で固まる僕を押しのけ、ハルが勢いよく扉を開けた。黒板には遠くから見てもはっきり読める大きさで『深海渚はやく死ね』『くたばれ』といった言葉が隙間なく書きこまれていた。それだけでなく、『深海渚は人殺し』と書かれているのを見つけてしまい、頭が真っ白になった。
「おーい、秋草!そいつといるとメンヘラが移るから、早くこっち来いよ。あ、ごめん。お前、そいつの彼氏だったか」
笑いながらそう言うのは、クラスのリーダー格である横山樹だった。ありとあらゆる汚いものをバケツに全部ぶちこんで混ぜ合わせたような、どす黒く汚れた感情がヘドロとなってボトボトと胸の奥に落ちていく。
「彼氏だって言うなら、そいつの腕ぐらい見たことあるよな。それ見て、よく幻滅しなかったな。俺なら幻滅するね。リストカットだらけの腕なんて、思い出しただけで吐き気がする」
クラスの男子生徒たちが面白がって吐き気を催すような声をあげた。ハルに知られたくなかったことを次々とバラされ、怒りを通り越して、どうすればいいのか分からなかった。
「渚、来て」
ハルは僕の腕を強引に掴むと、廊下を速足で歩き始めた。
「おい、ハル!待てって。どこに行くんだよ」
ハルの力が強すぎて、骨が軋む音がした。彼は保健室の扉を乱暴に開けると、僕の身体をベッドの上に放り投げた。
「ハル、落ち着けって」
「落ち着け?僕はいつも通りだよ」
ハルは僕の腹に跨ると、間髪入れず僕の手首をベッドシーツに押し付けた。次の行動を察した僕は、助けを呼ぼうと口を開けたが、ハルのもう片方の手が僕の口を覆ったせいで声が出せなくなってしまった。
「助けを呼んでも無駄だよ。お兄さん、しばらく帰ってこないって書いてあったでしょ?」
彼は氷のように冷たい目をしていた。僕の名前を呼ぶ声さえも、今はひどく冷たく感じた。
「僕は渚のすべてを知りたい。良いところも悪いところも全部受け入れるから、僕に全部見せて」
ハルが僕の長袖のシャツの裾を捲った。例の場所まで捲ると、ハルは僕の口を塞いでいた手を離した。
「これ、自分で付けたの?」
「お前には関係ない」
彼から顔を背けようとしたが、ワイシャツの襟を強引に掴まれたせいで、ハルから顔を背けることが出来なかった。
「ねえ、渚は僕の心臓が鉛で出来てるとでも思っているの?僕の命より大切な人がムシケラみたいな連中にいじめられている様を見て、それに全く動じないとでも思った?」
ハルは僕の襟を掴んだまま、僕の身体を上下に揺らした。
「何が渚を苦しめているのか教えて欲しいと言っても、どうせ渚は答えてくれないから聞かなかった。だけど、知らないフリをするのはもう嫌だよ。何が渚をそんなに苦しめているのか、僕に教えてよ。僕なら、きっと渚を救える」
目の前にいる彼が昔の自分と重なり、僕は幻を掻き消すように手のひらで彼の顔面を力一杯叩いた。頬を押さえながら僕を睨みつけるハルの姿を見て、僕はもはや悪者を演じることしか許されないのだと悟った。
「善人ぶってるけど、本当は腕の傷を見て気持ち悪いって思っただろ?心配されなくても、お前が来るまで、僕はずっとひとりで耐えてきた。お前なんか必要ない。頼むから、もう二度と僕に構うな」
ハルは素早い動きで戸棚にある医療用メスを掴みとると、それで自らの腕を切りつけ始めた。彼の予想外の行動に驚き慌てながらも、僕はハルからメスを奪いとり、出来るだけ遠い場所へメスを投げ捨てた。
「馬鹿野郎!なんでこんなことするんだよ!」
「渚のことが好きだからだよ!!」
ハルの目からボロボロと涙が零れ落ちた。
「渚の言う通り、僕は善人ぶって渚に好かれようとした。都合の良い友人でもいいから渚の傍にいたかった。渚のことが好きで、大好きなんだ」
「出ていけ。お前の顔なんて、もう二度と見たくない」
気が狂いそうなほど惨めな気分に苛まれつつも、彼が部屋を出て行くまで彼から顔を背け続けた。扉が閉まると同時に、僕はベッドの上に倒れこみ、枕に顔を埋めた。
彼を大事に想うなら、僕が身を引くべきなのだ。拒絶することでしか大事な人を守る術を知らない自分が情けなくて、床に落ちているメスを拾い上げ、自分の腕に押しあてた。皮膚に線が入った瞬間、泣きじゃくるハルを思い出し、メスを床に放り投げた。
「・・・・・・最低だ」
その後、ハルが僕の家に帰ってくることはなかった。
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