#5.3 偽善の国

 大阪駅周辺は会社帰りの人や学生で溢れかえっていた。

「目的地に着いたよ」

 ハルが扉を開くと、カランコロンと軽快なベルが頭上で鳴り響いた。店長らしき人物が「いらっしゃいませー」と笑顔を浮かべながら出てきた。

「予約していた秋草です。三十分程度で戻ってくるので、この人のカットをお願いします」

「え?いや、ちょっと待って。そんな話、聞いてないぞ」

「いいからいいから」

「いや、ちょっ・・・・・・、いやいやいや」

 ハルに背中を押され、店内へと押し込まれた。店員は僕を着席させると、手際よくカットの準備を始めた。

「出来るだけ爽やかな感じでお願いします」

「かしこまりましたー」

 ハルは「じゃあね」と言うと、さっさと美容院を出て行ってしまった。僕の嘆きも、ジャキンという鋏の音とともに諦めがついた。



「爽やかで良い感じだね。よく似合ってる」

 カットが終わると同時に、ハルが美容院に戻ってきた。

「いやー、久しぶりにカットし甲斐のあるお客さんが来たと思いましたが、こんなに元がいいとは思いませんでしたよ。あとはもう少し筋肉つけて、笑顔を作れば、モテモテですって。カットしたオレが保証します」

「ほら、渚。笑って。笑顔!」

 鏡越しに店員とハルが僕を見る。一ミリも笑おうとしない僕を見兼ねたハルが、紙コップに突き刺さった少し硬めのストローを抜き取り、僕の口に噛ませた。横に引っ張られた口は確かに笑顔に見えたかもしれないが、自分の顔がどうなっているのか見るのが怖くて、ストローをゴミ箱に投げ捨てた。

 美容院を出ると、今度はコンタクトレンズを数か月分購入させられた。

「渚はコンタクト初めて?」

「いや、中学の時は付けてた」

「へえ。中学の時、ね」

 何かを感づかれたのではないかと思い、恐る恐るハルを見たが、幸い、彼はカラーコンタクトに興味津々の様子だった。

「そろそろ教えてくれないか?」

「何を?」

「美容院に行かせたり、コンタクトレンズを買わせたり、こんなことして一体何の意味があるんだよ」

 ハルはコンタクトレンズのパンフレットを片手に、僕に笑いかけた。

「渚に自分を大事にすることの大切さを学んでほしいと思ってさ」

「自分を大事にすることの大切さ?」

「そう。自分のためにお金を使ったり、外見を磨いたりすることは、自分自身を愛することに繋がると思ったんだ」

「なんだよ、それ。そんなことしても、お前に何の得もないじゃん」

「渚には笑って生きて欲しい。僕はその手伝いをしているんだ。だから、無駄じゃない。それに、僕は渚と一緒にいられるだけで幸せだから」

 やはり生きたくないと言ったことを気にしているのだろうか。ハルに気を遣わせてしまった自分が情けなくて、「ごめん」と呟いた。

「謝罪より感謝の言葉の方が嬉しいかな」 

「ありがとう」 

「どういたしまして」

 ハルと並んで歩道を歩く。僕に見せてくれる笑顔も、もうじき僕以外の人間に向けられるのだと思うと少し寂しかった。

「あ!」

 ハルが上を指差す。その先には大きな観覧車があった。

「あれ、乗ってみたい」

「観覧車に男二人で?冗談だろ?」 

「死ぬまでに一度でいいから乗ってみたいと思ってたんだよ。だめ?」 

 その言い方はずるいと思いながら、「いいよ」と答えると、ハルは「やったー!」と子供のようにはしゃいだ。ハルがあまりにもはしゃぐので、思わず笑ってしまった。

 


 ショッピングモールの屋上に設置された観覧車乗り場に着くと、カップルが列を為して並んでいた。悪目立ちする僕らを見て、前列に並ぶ人たちがコソコソと囁きあっていた。穴があったら入りたいとは、まさにこのことだと思いながら、隣に並ぶハルを睨みつけた。

「今日のこと覚えとけよ」

「墓場まで持って行きます」

「そういう意味じゃないから」

 げんなりする僕とは対照的に、ハルは観覧車の順番が来るのを楽しそうに待っていた。

「うわー!綺麗だね」

「綺麗だな」

 観覧車からは大阪市内が一望できた。僕の真正面に座るハルの瞳は月明かりに照らされ、彼が目を開閉させる度に長いまつげの隙間からエメラルドの瞳が光り輝いていた。小学生の頃に読んだ宝石の目をした王子様みたいだと思いながらぼんやりしていると、突然ハルが僕の頬を両手で挟みこんできた。

「ひえっ!?」

 驚きのあまり、口から変な声が出た。

「渚、ぼうっとしてるけど大丈夫?疲れているのに無理言ってごめん」

「僕のことは気にするな。お前は夜景を楽しめばいい」

「うん、ありがとう。やっぱり渚は優しいね」

「別に普通だろ。・・・・・・そういえば、高橋とはいつの間に仲良くなったんだ? LINE交換までしてるし」

「もしかして高橋君に嫉妬してる?」

「そんなわけないだろ。単純に気になっただけだよ」

 ハルが僕の顔を見ながらニヤニヤしてくるので、彼の足を軽く蹴り上げた。

「転校初日にね、高橋君が渚の机を教室まで運んでいるのを偶然見かけたんだ。手伝おうかと言ったんだけど、高橋君、「俺の友人の机に触るな」って聞かなくて。渚のこと、すごく大事に思っているのが伝わってきて嬉しかった。そのことがきっかけで、高橋君と話すようになったんだ」

 まだ僕を友達だと思っていたのか。助けて欲しい時に助けてくれなかったくせに。そんな風に考えてしまう自分が嫌で、唇を軽く噛みしめた。

「まあ、お前が学校生活を楽しめているならいいよ」

「うん。楽しいよ。本当に夢みたいだ」

 観覧車がゴトンと動いた。もうすぐ終着点に到着する。

「渚、お願いがあるんだ」

「なに?」

「もし死にたいと思うほど辛いことがあったら、その時はどうか傍にいる人たちのことを思い出して。僕も含め、渚のことを大事に思っている人はたくさんいるから」

 ハルは「約束してくれる?」と自分の小指を僕の前に出した。僕が「この歳で指切りは恥ずかしい」と言うと、ハルは「そうだよね」と言って指を引っ込めた。家に着くまでの間、僕らは一言も話さなかった。



 家に帰ると、『しばらくの間、家を留守にします。兄より』と書かれたメモ用紙が玄関に置かれていた。シャワーを浴びた後、月曜日に提出する課題をしていると、後ろから突然真っ白な手が伸びてきた。

「うわあああああ!!・・・・・・って、お前かよ!脅かすなよ」

「驚かせてごめん。まあでも、僕と渚以外に誰もこの家にはいないんだから、そんなに驚くことはないと思うけど」

 正論を言われ、思わずムッとしてしまった。

「ノックしてから部屋に入るのが常識だろ」

「それにしても、渚って字が綺麗だよね。書道の先生みたい」

「話聞けよ。それで、僕に一体何の用?」

「これを渚に渡そうと思って」

 ハルは僕の手のひらに小さな箱を置いた。

「何これ?」

「箱の中身、当ててみて」

「いや、分かるわけないだろ」

「じゃあ、ヒントあげる。キーケース、タイピン、ピアス。さあ、どれでしょう?」

 当てずっぽうで「キーケース」と答えたが、ハルによって開けられた小箱の中には青色のピアスが入っていた。

「それは渚の分。おそろいのピアス、いいでしょ?」

 ハルが髪を掻きあげて自身の耳に付いている赤色のピアスを僕に見せた。

「何が「いいでしょ?」だ。言っておくけど、ピアスは校則違反だからな」

「渚、耳貸して。消毒完了。はい、三、二、一・・・・・・」

「え?おい、ちょっと待てって。あっ!!」

 ハルはピアッサーで僕の耳に風穴を開けると、満面な笑みを浮かべた。

「嘘だろ、おい。人の身体に勝手に穴開けるとか信じられないんだけど」

「感染をおこすとまずいから、まずはファーストピアスをつけてね」

「お前は普通に付けてるじゃん」

「僕はいいんだよ。だって・・・・・・」

 ハルは視線を横に逸らした後、「あ」と言った。

「美琴さんから電話だ。ピアッサー置いておくから、もう片方の耳も開けてね。じゃあね、おやすみ」

 ハルが急ぎ足で部屋を出て行った。

「・・・・・・携帯鳴ってなかったじゃん」

 誰もいなくなった部屋でひとり呟く。『僕はいいんだよ。だって・・・・・・』続く言葉はきっとこうだ。『だって、僕は人じゃないから』。

 なぜハルはサイボーグであることを僕に隠そうとするのだろう。なぜ兄はハルと関わるなと言ったのだろう。

 小箱からピアスを取り出し、光に透かした。キラキラと光り輝く青色の宝石を見つめながら、空白の十年間に思いを馳せた。

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