心の化粧

20文字まで。日本語が使えます。

心の化粧

 今日もまた、一日が始まる。

 眠い目をこすりながら、朝ご飯を食べてシャワーを浴びて歯を磨いて。だんだんと目が覚めてきた。持ち物は昨日のうちに準備しておいた。玄関に置いたかばんを持てば、必要なものは全部そろっているはず。

 さあ準備万端。外に出るための最後の仕上げ、化粧をしなきゃ。

 鏡の前に座って、さてと。まずは顔のお化粧から。目が覚めてきたとはいえまだまだ腫れぼったい顔に、気合を入れるかのように化粧水を塗りこむ。そして下地、ファンデーション、口紅、アイシャドウ…。よし、できあがり。鏡を見て確認したら完成。いつもの会社用メイクだから10分もかからない。慣れたもんだ。

 とはいえ、家を出るまでにはまだ30分以上ある。こんなに時間があるなら、今から出てゆったりカフェでも行きたいくらいだけど、まだ朝最大の難敵が待ち受けている。そのせいで、こんなにゆとりがあってもいつも時間ぎりぎりになってしまう。この作業にはいつまで経っても慣れない。

 心の化粧。こんな面倒くさいことを毎朝しなくちゃならないなんて、現代人は気が狂ってるとでも言いたくなる。でも、これをしなきゃ社会では受け入れてもらえない。社会に対して絶対的な武器を持たない私が生きていくためには、仕方のないことなのだ。

 気合を入れ直し、鏡の前で姿勢を正す。正面を見ると、さっき整えた顔が映った。さっきまであった腫れぼったさはなくなって、凛としている。ただ、鏡の下半分に視線を落とせば、紫がかったもやもやでいっぱいだ。昨日、理不尽に怒られたからかな。浮かびかけたいやな記憶を振り払って、化粧道具に手を伸ばす。

 心の化粧は、化粧台に取り付けた吸入器を通して行う。化粧台にセットしたアロマを吸い込んで、心の見た目を整えていく。吸ったアロマを、心にそっと乗せるような感覚。形を作って、色を塗る。形づくりが化粧水とか乳液の下地で、色を塗るのがファンデとか口紅に対応するみたいな感じ。それぞれのステップに応じたアロマを使うけど、混ざらないように違う吸入器を使う。やってることは違うけど、目標は顔の化粧と同じで、人に見せられる見た目にすることだ。

 こうやって化粧が日課になってしまうと、化粧をしてなかった時はどうやってやりすごしてたんだろうと、昔の自分のことなのにすごく不思議に思うことがある。小学生の時はまだ世の中に心の化粧がなかったけど、どうしてたんだっけ。通知表に毎回、人とのかかわり方について書かれていたのは覚えている。もっとほかの人たちの気持ちを考えましょうとか、自分の気持ちを出しすぎないようにしましょうとか。そんなの、言われなくてもわかってる。でも、私の心はいつももやもやしていた。人前に出せる状態じゃなかったんだと、今になって思う。気持ちがちゃんと言葉にならなくて、本心では思ってないようなことも口に出してしまっていた気がする。よく不登校にならずに通い続けていたなあ。

 朝起きて鏡を見るたび、今日ほどではないにしろいつももやもやしていて、心は昔とそんなに変わっていないんだろうと感じる。化粧がなかったら、この状態で人とかかわっていかなきゃならないことになるけど、想像するだけで恐ろしくなる。心にも化粧があってよかった。ちゃんと人前に出せそうな見た目にできるし、それを目で見て確認もできる。

 私が使っている化粧鏡は、下半分が心模様を映し出す仕組みになっている。人によっては、上半分に心が映るものを使っているらしいけど、真正面に心がくるのなんてまっぴらごめんだ。心を見るのは、まず自分の顔を見て、一呼吸おいてからの方がいい。

まずは形を整えなきゃ。そうしないと社会の色がうまく乗ってくれない。色がうまく乗るように、このもやもやを固めないと。

「今日のもやもやは、今月一番かも…」

 やるまえから憂鬱になりそう。もやもやを余計に増やしそうな気分になりながら、化粧台から出ている吸入器を口元につける。

 すーはー、すーはー。

 気持ちを落ち着かせるように、ゆっくりと呼吸をする。化粧台に入れた下地用のアロマが、心のもやもやを固めていく。仕事の時はあまり棘の立った形にならないように、じっくりと時間をかける。今日は一段ともやもやがひどくて、形を作るだけで一苦労だ。余計に時間がかかるけど、焦ると形が悪くなる。焦らないように意識して、ゆっくり、ゆっくり。

 やっと形ができた。時計を見ると10分以上かかっていたけど、初めのもやもやを思えば、見違えるほど丸くてなめらかになった。これなら次の作業もすんなりいけそう。今朝もひとまず安心だ。

 私はそんなにもやっとしてない時でも5分くらいはかかってしまうけど、知り合いの中だと遅い方みたいだ。あっという間にできる人もいるみたいで、テレビで紹介されてた人は、夜のケアを大事にしているそうだ。夜のうちに準備をしておけば、朝は毎日ぱぱっと終わる。確かに理想的なサイクルに思えるけど、寝てる時まで心を固めておきたくないし、何より夜は早く寝たい。どっちをとるかなんだろうな。

 形ができたから、次は色塗り。今の紫がかった色じゃ、ちょっと会社には持っていけない。仕事だからあまり個性の出ないように、ナチュラルな淡いピンク色を目指す。仕事用の色塗りアロマを化粧台にセットして、吸入器を口に当てた。さっきとは違って勢いよく吸い込んで、固めた心を塗りつぶす。アロマがもたらす色が心を覆った。うん、いい色だ。鏡に映った心は丸くてなめらかで、ほどよいピンク色になった。

 万全の態勢で、玄関に置いておいたかばんを持つ。

「おはようございます」

 いつものように出社して、いつものように挨拶をする。心の化粧はばっちりで、昨日理不尽に怒られたけどさわやかに声が出た。顔と心。二つの仮面を被って、今日も社会を乗り切るのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

心の化粧 20文字まで。日本語が使えます。 @osushi_mawaranai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ