第7尾【プリント、夏の行事予定】
キュウの幼い顔にそぐわぬ肉厚な唇が、涼夜の指、——その第二関節辺りまでを覆い隠した。
舌でクリームを絡めとる感覚が指先を通じて全身に行き渡る。生温かな感覚に思わず手を引いた涼夜の顔を悪戯な笑顔で見上げるキュウ。
「キュッキュキュ〜!」
陽気に笑うキュウは何食わぬ顔でクレープを頬張り、その上、涼夜の抹茶ラテに手を伸ばし躊躇なくストローに口をつけた。吸い付く唇から目を逸らした涼夜は大きなため息をついた。
「……はぁ、あげますよ、それも……」
「キュキュ?」
キュウは首を傾げ翡翠色の瞳を瞬かせた。
涼夜は盛大にズレ落ちつつある黒縁眼鏡の位置を整えキュウを見つめる。
「それにしても君は……」
「キュ?」
「いえ、何でもありません。私は水を取って来ますので、今度は大人しくそこでクレープをマフモフしてて下さい。食べたら商店街の八百屋と肉屋さんに行きましょう。具材のチョイスはキュウにお任せします」
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
夢咲商店街、——夢咲モールが出来た事により活気を失った商店街を歩く涼夜と、その服の袖を摘みながらついて行くキュウ。
勿論キュウは姿を消している。昔ほどの活気はないにしろ店はある。夢咲モールの地下にも食料品売り場はあるが、値段が高い。少し歩かないといけないが、商店街で買い揃えた方がいいものを安く買える。これは涼夜がある人に教わった事。
結局のところ、涼夜は肉屋でコロッケや豚カツ等の惣菜を買うに留まっていたが、今日からは料理の出来るキュウがいる訳だ。
「お、にいちゃん今日は惣菜じゃないのかい? あれ、嬢ちゃんは保育園かい」
「どうも、結愛ちゃんは保育園です。私の仕事が一段落したので、たまには料理をしてみようかなと」
肉屋の親父が目を丸くした。涼夜は軽く会釈をした。
キュウに
涼夜の両手はいよいよ限界値。買い出しは程々に二人は帰路に着くのであった。
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夕暮れ時、涼夜は結愛を迎えに行く為再び商店街を歩いていた。ちらほらと帰宅途中のサラリーマンや学生達を見かける。自転車に乗った小学生が駄菓子屋に入って行くのも見える。尻を振りながら我が物顔で歩く茶トラ猫ともすれ違う。
商店街を抜けた先に夢咲第二保育園は位置している。園内には保護者達の姿と騒ぐ園児の姿。
涼夜が部屋を覗くと、相変わらず一人でエモフレのアニメに没頭する結愛の姿が見てとれた。結愛は涼夜に気付くなり名残惜しそうにエモフレとサヨナラをした。
同じ組の女の子達が鞄を取りに行った結愛に「バイバイ」と手を振ると、結愛は真顔のまま、「はい、さよならです」と手を振る。
「今日は早かったですね、リョウヤ君。さ、はやく帰るのです。キュウと一緒にエモフレを見る約束をしているのです。きっと待っているのです」
「そうですね、では帰りましょう」
涼夜が結愛の手を取ると、結愛は頬を染めた。それを隠すように強く涼夜の手を引く。
涼夜は引きずられるように部屋を後にする。すると年長組の先生、永井明日花が慌てて駆け寄って来る。小柄な身体にそぐわぬ立派なモノを盛大に揺らしながら迫る明日花に少し戸惑う涼夜。
「はぁ、はぁ、た、高遠さん、良かった間に合いましたぁ〜」
「どうかされましたか、永井先生?」
「あ、はい。七月と八月の予定表をプリントにして連絡帳に挟んでいますので、また確認をしてもらえればと」
「なるほどです、結愛ちゃんはプリントを私に見せようとしない謎の癖がありますからね。教えていただきありがとうございます」
結愛は横を向いて頬を膨らませた。
涼夜は明日花に挨拶をし、足早に歩く結愛に引きずられ園を後にした。
明日花はその姿を見えなくなるまで見送り、ふと我に返り仕事に戻るのであった。
「ふふっ、可愛いなぁ」
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二人は無事に帰宅。
玄関を潜るや否や食欲をそそる芳潤な香りが鼻先をくすぐる。リビングへ移動すると、ローテーブルの上には煮込んだハンバーグとポテトサラダ、お馴染みの味噌汁、そして、きゅう○のキューちゃんが所狭しと並んでいた。ハンバーグにキューちゃんはどうかと思うが、どうやら外せないようで。
「キュウちゃん……すごい……!」
真顔で瞳を煌めかせる結愛の頭を優しく撫でたキュウは、肩から下げていた結愛の鞄と被っていた帽子を手に取り、リビング端の上着掛けに。
制服から部屋着に着替えた結愛はいつもの場所にペタンと座った。その右側にキュウが正座で座り、正面には涼夜が腰掛けた。
全員で両手を合わせ、
「「いただきます」」「キュウ〜!」
家族三人、皆で手を合わせ食卓を囲む。
そんな当たり前の事がとても愛おしくて、涼夜は一口一口、噛みしめて食べた。結愛は不思議そうな顔をしながらも、大好物のハンバーグを堪能した。
食事を済ませた後は皆でエモフレの映画を鑑賞した。家族が、そこには在った。
失った筈の光景が、確かにそこに在る。
涼夜は笑いこそしないが、晴れやかな表情で話す結愛を見る。結愛は視線に気付き頬を染める。
隣には、キュウの笑顔がある。
涼夜は、思わず言葉を漏らした。
「何故……そこにいるのが結衣じゃないんだ」
と、——二人には聞こえないくらいの、虫の鳴くような声で。キュウのピンと立った耳がピクリと反応した事に涼夜は気付かなかった。
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夜は深まりつつある。
結愛とキュウは二人で入浴中。涼夜は一人、新作のプロットを制作していた。涼夜は現在、連載を一つ抱えている。メインはそちらだが、こうして短編も
ふと思いたった涼夜は結愛の鞄からプリントを取り出した。夏の行事予定が記されたプリントだ。
取り出す際、三つのキーホルダーが仲良く揺れた。
「……」
涼夜はプリントに目を通した。
七月十五日からプール開き、
七月二十四日、夏祭り——七月三十一日から八月一日にかけてお泊まり保育。
「プール開きに、お泊まり保育……結愛ちゃん、大丈夫でしょうか」
結愛はプールが苦手だ。そもそも顔が濡れるのを嫌う。猫のような性格の結愛らしい理由だ。
涼夜は頭を抱えた。
子育てという未知を往く不安。親もまた、初めての連続なのだ。ましてや涼夜は、——
「キュッキュキュ〜!」
今日買った部屋着に袖を通してご満悦のキュウと、ピカピカに磨かれて少し膨れた結愛がリビングに帰って来た。よって、想いに耽っていた涼夜の意識が現実に引き戻される。
ローテーブルの上のプリントを見た結愛は途端に表情を暗くした。
「リョウヤ君、結愛はプールが嫌いです」
「冷たくて気持ちいいじゃないですか、何故そんなに嫌うのです?」
「……そ、そんなの結愛の勝手です……」
「そうですか。それなら先生には私から伝えておきますよ。あ、もしかして結愛ちゃん、ダイエット中だからですか?」
涼夜は悪戯な笑みを浮かべる。結愛は慌ててお腹を両手で押さえ、テクテクと涼夜の前まで歩き、強烈な蹴りを二発打ち込み背を向け、すぐに振り返ると更に三発膝蹴りを打ち込み寝室へ去ってしまった。
「キュ〜ウ!」
ついでにキュウにまで怒られた涼夜は一人リビングで頭を掻いた。お茶を一口飲み、再びノートパソコンと向かい合う。
新作の主な登場人物は、三人。彼はインスピレーションの湧く限りキャラを作り込みプロットを練る。いまだ白紙の少し不思議な物語はこれから。
「中々面白そうかも」
キーボードを打ち込む事数時間、寝室の扉が音もなく開き、キュウがリビングへ帰って来た。キュウは空になったコップに冷たいお茶を注ぎ涼夜に差し出した。
「やぁ、ありがとうキュウ」
キュウは少し眠たそうに目を擦り柔らかな笑顔を向けた。
「さっきは、すみません」
「キュ?」
「いえ、美味しいご飯を、ありがとうございます」
「キュウ」
キュウは首を横に振る。
そして、涼夜との距離を詰める。やがて、その距離は互いの呼吸を感じられる程の距離となり、柔らかな双丘は涼夜の左腕を埋める。
「キュウ、駄目ですよ。私には——」
涼夜が言いかけた時、寝室から声がした。結愛の声、彼女の、——すすり泣く声。
キュウが来るまで、毎晩涼夜が聞いてきた声。涼夜は唇を噛む。キュウは寝室に振り返り、そして、
「キュッ」
涼夜の頬に肉厚な唇で軽く触れた。勿論、涼夜の眼鏡はかなりの角度をつけた。
彼女は悪戯に微笑み尻尾を向け、何も言わずに寝室へ。——暫くして、声は止んだ。
涼夜は冷たいお茶を一気に飲み干した。
夜が更けていく。
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