王子様シンドローム

サヨナキドリ

第1話 桜のシフォンケーキ (1)

 物語には王子様がいる。

 それは例えば金髪で、背が高くて、誰にでも優しくて……

「ちこくだ〜〜!!」

 こんなときに曲がり角でぶつかるような。

 違う。そんな少女漫画のテンプレートみたいな展開を期待してジャムトーストをくわえながら走ってるわけではない。徒歩圏内の高校に入学が決まって、まさか遅刻なんかしないだろうとたかをくくっていたら、登校初日に寝坊したのだ。いくら撫で付けてもいうことを聞かないショートカットの毛先を振り乱しながら、桜の下を私はおおきなストライドで走っていた。振動に耐えるために、パンをくわえる力が強くなる。しかし、それが裏目にでた。噛みちぎられたパン。落ちそうになるパンを慌てて手で押さえる。そんなことをしていたから、私は交差点から現れた正面の人影に気づかなかった。

 衝撃。パンが口から離れる。弾き返されて、私はバランスを崩した。体が後ろに傾く。一瞬の浮遊感。思わず目をつぶる。けれど、尻もちの衝撃は襲ってこなかった。

「……大丈夫?怪我はない?」

 目を開けると、王子様が私をのぞきこんでいた。太陽のような金髪に優しい声。ひだまりのような暖かな香りと桜の香りがする。彼の右手は私のひざの裏を、左手は私の背中を支えていて、つまりはお姫様抱っこの体勢になっていた。

「は、はい!大丈夫です!」

 私が我に返って返事をすると、王子様はにっこりと微笑んだ。心臓が一拍飛ばす。王子は私を地面に下ろすと、右肩で持っていた私のスクールバッグをひょいと取った。

「大丈夫、腕を振って走ればまだ間に合う距離なんだ。ほら、行こう」

 そう言われて、今私が遅刻しかけていたことを思い出した。慌てて駆け出す私と王子が並走する。カバンがない分、さっきまでよりずっと走りやすい。やがて、北高校の姿が見えてきた。ここが、私がこれから3年間通う場所だ。

「じゃあ、またね」

 昇降口で王子が私にスクールバッグを返した。というか、王子も北高の生徒だったのか。下駄箱の位置からすると二年生の先輩らしい。あれだけ走った疲れも見せず、にこやかに手を振る彼の背中には、ジャムトーストがべったりと張り付いていた。


「アオイ、どうかしたの?なんにも考えてないのはいつものことだけど、今日は輪をかけてぼんやりしてる」

 入学式を終え休み時間の喧騒の中、教室の机に座る私を萌がのぞきこんだ。セミロングの髪が揺れる。百合ヶ丘萌は小学校時代からの友人だ。高校に入っても彼女とクラスが一緒だなんて運が良かった。

「王子様に会った。」

「……どゆこと?」

 萌が後ろを向いたまま前の席に座る。ぼんやりしてるという萌の言葉は正しいのだろう。なんかすごく失礼なことを言われていた気がするのにツッコみそびれてしまった。それはそれとして話を続ける。

「今朝、遅刻しそうになったからパンをくわえながら走ってたんだ」

「そんな少女漫画みたいな」

「そしたら、曲がり角で人にぶつかっちゃって」

「少女漫画みたいな」

「でも、その人が受け止めてくれたから転ばずにすんだっていう。しかもお姫様抱っこで」

「……ふーん。どんな人だったの?」

 ほおづえをつきながら萌が訊く。

「北高の先輩みたいなんだけど、王子様みたいな人だった」

「大路アンリ先輩だね」

「…………特定するの早くない?」

 呆気にとられながら私が言うと、萌はふうっと息をついた。

「だって、北高で王子って言ったら一人しかいないから。金髪で長身だったでしょ?」

「うん」

「大路杏里、2年C組。成績優秀で去年のミスター北高校グランプリ受賞者。女子からの人気が高くファンクラブの人数は3桁の大台を突破した。ちなみにフランスと日本のハーフで金髪は地毛らしい。」

「よ、よく知ってるね」

 萌の口から語られる流れるような情報量に少しのけぞる。萌は眼鏡をくいっと上げた。

「2、3年のめぼしい男子の情報はもうリサーチ済みだから」

 そういうと萌は手に持ったノートを自慢げにぱんっと叩いた。表紙には『顔本』と書かれている。こんな厚みが3cmもあるようなノートが売ってるのか。

「それに……」

 萌のメガネが光る。あ、これは地雷を踏んだかもしれない。

「大×黒は最推しのカプのひとつだからね!!」

 萌のボルテージが一気に上がる。

「あ、あはは……やっぱりそれは理解できないや」

 萌は、なんというか、ボーイズラブをこよなく愛する女子なのだ。熱のこもった語りを聞き流しながら、私は曖昧に笑った。

「そうだ!今日放課後空いてる?アオイを連れて行きたいところがあるんだけど……」

「ごめん、今日はやることがあって」

「そうなの?残念」

 萌が平常なテンションに戻ったところで、チャイムが鳴った。


(クリーニング代くらい、出した方がいいよね)

 放課後、昇降口近くの柱の陰で私は考えていた。終業のチャイムと同時に教室を出て、昇降口で待ち伏せれば確実に王子先輩に会える、そういう計画だ。

(きた!)

 運よく、先輩はまだ人がまばらなタイミングで昇降口に現れた。ブレザーは脱いでワイシャツ姿だ。気配を消したまま、あとをつける。

(少しくらい先輩のことを知りたいと思っても、悪いことじゃないよね)

 自分にささやかな言い訳を言い聞かせながら尾行を続ける。先輩はあの交差点を曲がって進んでいく。それからしばらくして、先輩は何かの店に入っていった。

(お菓子屋さん えとわーる……?)

 電柱の陰に隠れながら私は店の看板を確認した。どうやらお菓子屋さんらしい。お菓子屋さんって書いてあるし。先輩は、甘いものが好きなのかな?可愛いかもしれない。

「おい、お前」

 そんなことを考えていると、後ろから不機嫌な声が降ってきた。ビクンッと震えて、恐る恐る振り返る。

「そこで何してる」

 怖い人が立っていた。大きくて、目つきが悪い男の人。黒い髪がツンツンに立っている。

「わ、私は怪しいものではありませんよ?」

「怪しくないやつはそんなこと言わないんだよ!」

 怒鳴られた。ごもっともではある。私も、後ろ暗いことがなければこんなセリフ言わない。

 それから男の人は深いため息をついて

「ちょっと来い」

 そういうと私の襟首に指を突っ込んで引っ張った。

「わっちょっ、ちょっと、待ってください!話を!」

 私はなすがままに引きずられて、えとわーるの裏口に連れ込まれた。どうしよう、ここがお菓子屋さんというのは仮の姿で実は裏組織の拠点だったりしたら。もしそうなら周囲を嗅ぎまわっていた私は改造人間にされちゃうんだ……。そんなバカなことを考えていると、男の人が声を上げた。

「オージ!何度言ったらわかるんだ、自分の人気を自覚してもっと警戒しろって!また変な虫がついてたぞ!」

 なんだ、初対面の女の子捕まえて虫扱いって。というか、まずい。この状況を先輩に見られるのはかなりまずい。

「なーにー」

 パニックを起こす私をよそに、先輩がのんびりした返事をしながら現れた。真っ白い服、コックコートを着ている。先輩は、いたずらをした子猫のように捕まる私の姿を見て

「やあ、待ってたよ」

 と言った。

「は?」

 先輩の言葉は予想外だったのだろう。男の人が固まる。無理もない、私だって予想外なんだから。

「黒木、ダメじゃないか。せっかく来てくれたのにあんまり失礼なことを言っちゃ」

 先輩は男の人、黒木さんに向かって諭すように言った。

「けど……」

「君は、アルバイト希望で来てくれたんだよね?」

 先輩が私に目を合わせながら言う。その目は「話を合わせて」と言っていた。

「は、はい!」

「でもバイトの募集はまだ……」

「ちょっと失礼」

 不服げな黒木さんの声を遮って、先輩は私のスクールバッグの前ポケットに手を入れて、何かを取り出した。折りたたまれたそれを広げると、『えとわーる アルバイト募集中!』と書かれたポスターだった。こんなものいつから入っていたのだろう。

「ね?」

「むう」

 まだ不服そうではあったが、黒木さんに反論の言葉はないようだった。

「さあ、上がって。少し面接の準備をするから、その間に履歴書を書いて待っていて」

 先輩はそういうと、私を奥の事務所のような部屋に案内した。先輩が机の引き出しから、履歴書とボールペンを取り出す。

「学歴と志望動機、保有資格の欄は空白でいいから」

 そう言って、大路先輩は一度部屋から出て行った。とりあえず、言われた通りに記入を進める。氏名、年齢、住所、電話番号くらいかな。黒木さんに睨まれながら書くのは、独特の緊張感がある。

「おまたせ」

 そう言いながら大路先輩が戻ってくる。右手にはパイプ椅子、左手には薄桃色のケーキが乗ったお皿を持っている。大路先輩はお皿を私の前に置くと、カショッとパイプ椅子を開いて私と対面に座った。お皿からは、いつか嗅いだことのある匂いがする。

「桜のシフォンケーキ。今朝完成した試作品なんだ。じゃあ、面接を始めようか」

 そうか。今朝、先輩からした桜の匂いはこのケーキの。私は履歴書を先輩に手渡す。

「えっと……ひまわりちゃん?」

「ひなたです。向日葵じゃなくて、日向 葵」

 訝しげに履歴書に書かれた名前を読んだ先輩の言葉を訂正する。たしかに字面だけ見ると向日葵にも見えるらしく、呼び間違えられた経験も少なくはない。

「なるほど。……ひまわりちゃんは、ケーキは好き?」

 あれ?訂正したんだけどな?気に入ったのかな?それはともかく、質問の返事については迷う必要はなかった。

「大好きです」

「採用」

「なんだこの茶番!」

 腕を組んで見ていた黒木先輩が吠えた。

「何って、一番大事なことだろう」

「他にも聞くことがあるだろ!」

「大丈夫だって。彼女にはホールの仕事を担当してもらう予定でしょ?特別な知識や経験は必要ないから。黒木と違って」

 黒木さんが黙り込む。ちょっとの時間しか見ていないけれど、パワーバランスとしては大路先輩の方が黒木さんよりもかなり上だということがわかった。

「そうと決まれば、まずは自己紹介しないとね。……あ、ケーキ食べてていいよ。僕は大路杏里。この店の店長で、パティシエをしてる。北高では2年C組。これからよろしくね、ひまわりちゃん」

 どうやら、私の呼び名はそれで通すつもりらしい。それから、大路先輩が黒木さんを小突いて促す。

「黒木内斗。2年B組。えとわーるのバイト」

 黒木さんは不機嫌そうにそう言った。この人も北高の先輩だったのか。そういえば北高の制服を着ている。

「無愛想だけど、面倒見がよくてとっても優しいんだ。バイトの先輩として頼りになると思うよ」

「オージ!」

 自己紹介を補足した大路先輩に、黒木先輩は噛み付くような声を上げた。べつに怒ることではないと思うのだけど、照れ隠しだろうか。始めに思っていたほど怖い人ではないかもしれない。

「さ、そろそろ仕事に戻ろうか。いつまでも店を空にしておくわけにもいかないし、そろそろお客さんも来る頃だ。ひまわりちゃんは、とりあえずこれだけ付けて店先に。制服はまた今度用意するね。黒木がいい感じに仕事を振ってくれるはずだから」

 そう言って、大路先輩は私に白いエプロンを手渡した。


「ご注文はなんになさいますか」

「なんでアオイがそっちにいるの?用事は?」

「あはは……なんでだろ」

 角近くの席に座る萌が疑問をぶつけ、私が曖昧な返事をする。

「それにしてもこのお店……なんというか、すごいね」

 そう言って私は、話し声で溢れる店内を見渡した。まるで、休み時間の教室をそのまま持ってきたみたいだ。北高の生徒がひしめき合っている。ただ、そのほとんどが女子だ。

「ケーキも美味しいけど、だいたい王子目当てだよね。私もそうだし」

 萌の意表をつく発言に、思わず二度見する。

「ああっ!ほら見て大路先輩が黒木先輩に微笑みかけてる!」

 萌が急に高い声を出す。視線の先を見ると、確かに大路先輩がレジを離れて黒木先輩となにやら話していた。黒木先輩の前には、コーヒーミルやサイフォン、ドリッパーなんかが置かれている。コーヒーを淹れるのが、黒木先輩の主な仕事みたいだ。

「見てあの美しいコントラスト!光と闇、北風と太陽、ケーキとコーヒー!まさに究極のマリアーージュッ!!!」

「……あんまりそういうこと本人の前で言わない方がいいよ」

「仕方ないでしょ。止まらないんだから」

 悪びれない萌に苦笑する。けれど、2人を見ていると、萌が言わんとすることが少し分かる気がした。視線を感じたのか、黒木先輩がこちらを向いた。その目が剣呑に細められる。まずい、バイト中に話し込んでしまった。

「えっと、季節のフルーツタルトとおすすめのコーヒー」

 萌も察したのか慌てて注文内容を言った。マニュアルどおりに復唱して、注文を伝えるために先輩たちの方へ向かった。

「なに、あの女」

 なにか、店のどこかで、そんな声が聞こえたような気がした。


 ——物語には王子様がいる。

 それは例えば金髪で、背が高くて、誰にでも優しい……

「…………」

 アラームが響く。どれだけ続けても午前4時起きは早い。けれど、ケーキの仕込みをするためにはこれくらい早く起きないと。顔を洗うために覗き込んだ鏡には、王子様と呼ぶには少しばかり目つきが悪い男が映っていた。

「こんな顔、ひまわりちゃんには見せられないな」

 冷たい水を顔にぶつけ、それから笑顔を作る。

 あの日、曲がり角で彼女とぶつかったのは、運命なんかじゃない。僕が見惚れて立ち止まったのだ。一目惚れ、なんだと思う。

 物語には王子様がいて、その隣には騎士がいる。

 誰にでも優しくて、誰からも愛される王子は、一番欲しい相手からの愛を手にすることができない。僕はそれを、『王子様シンドローム』と呼んでいた。


 この物語の最後に、彼女が黒木と結ばれることを僕だけが知っている。

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