第八章 魔神の神殿~ 永遠の命と裏切りの末路(5)

 伝説の支配者同士の対決が続く中、その後方では、クックルーの意識を覚まそうとする、ワンコーの熱心な大声がこだましていた。

 クックルーは息こそ吹き返していたものの、まだ暗黒魔法の地獄の中に閉じ込められたままだ。

 瞳孔が開き、目線が虚空に飛んでいる彼。時折、羽根を痙攣したように震わせては、悲鳴にも似た大声を上げるばかりだった。

 いったいどうしたらいいんだ!? 声を嗄らしながら頭を悩ませるワンコー。回復魔法を持ち合わせている彼でも、さすがに気付け薬までは持ち合わせはいない。

「ううう……」

 自らの無力さを悲観し、ワンコーは下がった目尻から一滴の涙を落とした。

 胴体や尻尾をプルプルと震わせて悔しさをあらわにする彼。しかし、スーパーアニマルとして、さらに犬の世界の支配者(ルーラー)として、このまま諦めるわけにはいかない。

 魔神を倒して人間界へ戻るという切なる希望は、何も彼だけが抱いているものではなく、ここで苦痛にあえぐクックルーも同じなのだ。

「おい聞け、クックルー。おまえはニワトリの世界を支配して、うまいご馳走を食べて、かわいいメスのニワトリに囲まれて、生涯わがままし放題で楽しく暮らすんじゃなかったのかワン!?」

 ニワトリ界の支配者の首根っこを掴み、ぶんぶんと大きく揺さぶったワンコー。

 うまいご馳走とかわいいメスに囲まれる、そんなハーレムのような欲望。邪と言っても失言ではない欲求が、地獄の沙汰を浮遊していたクックルーの意識を呼び覚ました。

 クックルーは興奮に鼻息を荒くした。ギラッと見開いた黒い瞳は、みなぎる生気が戻ってきた証拠だ。

「おお、クックルー、よく復活してくれたワン!」

「おわっ、ワンコー、抱きつくなコケ。オレはメス以外に興味はない!」

 歓喜のあまり抱きついてくるワンコーを、気持ち悪がって引き剥がそうとするクックルー。

 気持ちいいも悪いもない、今のワンコーにしたら、仲間とこうして喜びを分かち合えたことが大事。だが、喜んでばかりもいられないのもまた事実だ。

「そんなとこより、姫がピンチだワン!」

「何だと?」

 二匹の視線の先には、魔神アシュラに魔剣を突き付けられた、なす術もなくカーペットの上に座り込んだままのシルクの姿が映った。

 精神も肉体も限界に近いのか、肩を揺らしながら呼吸を乱しているご主人様。それは彼らの目でなくとも、ただならぬ切迫感に覆われているのは一目瞭然だった。

「おい、シルクがやばいじゃないかコケ!」

「クックルー、じっとしてないで、最大の火殺魔法を繰り出すんだワン」

 シルクを助けるためには、飛び道具となる魔法攻撃しかない。ワンコーはそう言い放つが、クックルーはクチバシを尖らせてそれに難色を示した。

 それは、ワンコーの命令口調に立腹したわけではなく、先ほどのトラウマなのだろう、黒き炎を操る魔神に対して、自分の赤き炎が役に立たないと思っているからだ。

 怖気づくクックルーに痺れを切らし、ワンコーは犬歯を剥き出して大声で訴える。

「いいからやるんだワン! オイラの魔法で、おまえの炎にさらなる威力を与えてやるワン」

 躊躇っている間にも、シルクが魔神の毒牙の餌食になってしまうかも知れない。徒労に終わるとわかっていても、最後の最後まで戦い続けるしかないのだ。

 一度、萎縮した精神を奮い立たすことは困難だが、スーパーアニマルのクックルーは違った。彼は負けず嫌いの闘争心を鼓舞し、残された魔力のすべてを放出することをここに誓った。

「ワンコー、おまえにオレの魔法をすべて預けてやるコケ」

「任せるんだワン」

 真っ赤な炎で全身を包んだクックルー、そして、聖なる光で全身を包んだワンコー。これからまさに、スーパーアニマル二匹の魔法の競演が始まろうとしていた。

 赤と白の光源が王の間で燦然と輝き、いよいよ準備万端、解き放つタイミングを合わせようと、お互いに頷き合う彼ら。

「見てろよ、とっておきの火炎をお見舞いしてやるコケ」

「オイラも、とっておきの秘技をお披露目してやるワン」

 怒涛の覇気を放つその魔法は、離れた位置で座り込んでいたシルクにも肌で感じるほどの勢いだった。

 咄嗟に顔を振り向かせる彼女は、ワンコーとクックルーと目線を合わせて伝言を受け取った。地べたに突っ伏して避難するように、と。

「行けぇ!」

 クックルーの大声が室内に轟くと、燃えさかる紅蓮の火炎が、彼の全身から一斉に解き放たれた。そして、ワンコーの放った青白い光線がそれを追いかけていく。

「さぁ、火炎よ、さらに大きく燃え上がれワーン!」

 青白い聖なる光は輪を描くように渦を巻き、真っ赤に燃える火炎と一体化して深く絡みついた。

 するとどうだろう、火炎は炎の龍を象ってうねりを上げながら舞い上がる。しかも、その龍は狙いを定めて、魔神アシュラただ一人に焦点を絞って突き進んでいった。

 高熱を帯びた炎の龍の襲来に、彼は息を呑み込み愕然とする。しかし、闇の支配者は退いたり、当然ながら逃げたりもしない。魔剣を大きく翻した彼は、勇猛にも黒い炎で対抗しようと試みた。

「これしきの火炎など、我が力でかき消してくれるわ」

 アシュラは魔剣を振るい、どす黒い邪悪の炎を放出した、が――。

 邪悪の炎はかき消すどころか、炎の龍の猛威の中で木っ端微塵にかき消されてしまった。

「な、何だと!」

 魔神アシュラはこの時、支配者となってから初めて危機を察知した。

 合体魔法、その名も”超・火炎砲”は、灼熱の牙を剥き、彼のことをあっという間に飲み込んでいった。

 カーペットの上に伏せたままのシルクは、何が起きたのか視覚で捉えることができなかったが、研ぎ澄まされた聴覚で、壮絶な出来事が起こったことだけは感じ取ることができた。

 生きているのか、それとも死んでいるのか……? 炎の龍に身を焼かれた彼は、魔剣を握り締めた状態のまま、身を守るかのような姿勢で立ち尽くしていた。

「……オレたち、勝ったんだコケ」

「……勝ったに決まってるワン」

 勝利を確信したクックルーとワンコーは、喜びを体で表現したくても、魔法パワーを出し尽くしたせいか、疲労感たっぷりでへたれ込んでいた。

 そっと目を開けてみたシルク。静かに顔を上げて、焦げ付いた異臭を放つ魔神アシュラの銅像のような姿を見上げていた。

「勝ったの……?」

 シルクがホッと胸を撫で下ろし、そんな言葉を漏らした直後だった。

 銅像と化したはずのアシュラの肩がピクッと揺れた。そして、途切れ途切れの息遣いをしながら、脈打つように全身を揺らし始める。

 真っ黒な甲冑が破損していても、高貴なマントが焼け落ちていても、闇の支配者はまだ息絶えてはいなかった。魔剣を奪還させまいとする執着心が、満身創痍の彼をここまで生かそうとしているのだろうか。

「闇魔界を支配すべき者、それは永遠の命を授かる者……。我は朽ち果てることはない……」

 これも魔剣が有する魔力の一つなのか。

 永遠の命を授かり不死身の肉体を手に入れた魔神、その堂々たる存在感は、シルクたちを恐怖のどん底に突き落とした。

 ぎこちない動作ながらも、アシュラは魔剣を高々と頭上に掲げる。

 すると、壊れかけている甲冑から黒色が抜けていき、それが黒い霧となって魔剣へと取り込まれていく。それは明らかに、暗黒魔法の発動を意味していた。

「これで終わりだ。我が最強魔法、暗黒波で、キサマたちを闇の中の闇へ消し去ってやろう」

 暗黒魔法の中でも高威力を誇る”暗黒波”。地獄激よりもさらなる暗黒パワーを必要とする魔法だ。

 魔剣に吸い込まれていく暗黒はどんどん膨れ上がり、それはいつしか、魔界の神とも言われるルシファーを思わせる巨大な影へと形を変えていた。

 室内の空気が淀んできて、胸苦しさと戦いながら身を起こしたシルク。部屋全体が微振動を起こし、彼女の足つきをふらつかせてしまう。

 その脅威は紛れもなく、彼女が見てきた中で一番強大で、尤も恐怖を感じさせるものだった。

(お願い、イヤリングの女神よ。もう一度だけ、あたしに天神の力を与えて)

 シルクは瞳を閉じて瞑想し、シルバーのイヤリングに聖なる輝きを求める。

 彼女はしかと、女神から授かった助言をその耳で聴き、そして清らかな心に響かせた。

 神聖なる天神の力が光となって溢れ出し、名剣スウォード・パールに黄色い稲光が走る。

(あたしは絶対に負けない。信じてくれている人々の未来と希望のために)

 この世界に住まう人間たちの宿命を一手に背負い、今ここに、シルクが名剣を引っ提げて勇敢に立ち向かう。

 だが、その時すでに、闇の支配者が解放したルシファーを模した暗黒波が、漆黒の暗雲となって王の間を覆い尽くさんとしていた。

 すっかり萎縮してしまっているワンコーとクックルー。頭上をあっという間に埋め尽くす暗雲を、彼らは唖然としながらただ見上げるしかなかった。

「ハッハッハ、もう何をしても手遅れだ。我が暗黒波を止めることも、避けることさえもできぬ!」

 戦いの舞台である王の間が、またしても混沌とした暗闇に支配されようとしている。このままでは、シルクたちを含めて、室内にあるものすべてが闇の中の闇へ消し去られてしまうだろう。

 両足の筋肉が強張ってしまい、攻撃の一手に転じることができない彼女。

 事態は最悪、人間の未来と希望が絶たれると思われた、まさにその直後、魔神アシュラの甲冑に異変が起こり、彼女はその成り行きに釘付けとなった。

「グゥ、ウウウ……」

 ひび割れていた甲冑の一部から亀裂が走り、至るところから、ガラスが割れるように破片が剥がれ落ちていく。

 シルクの雷撃破、さらにワンコーとクックルーの合体魔法の衝撃から身を守った甲冑だが、どうやら、暗黒魔法を支える踏ん張りには耐え切れなかったようだ。

 暗黒波の重圧をコントロールできなくなり、バランスを崩して千鳥足になってしまうアシュラ。

 邪悪なる暗黒パワーもみるみる減少し、暗黒魔法自体もにわかに縮小をし始めていた。まさに、この時こそが好機、シルクにとって一発逆転の狼煙と言えるものだった。

(お願い、クレオート。このあたしに、あなたの力を送って!)

 シルクは右足を思い切り蹴り出した。それは華麗なるスタートダッシュであった。

 名剣スウォード・パールは彼女とともに煌めき、稲妻をほとばしらせて聖なる軌跡を描く。

 魔神アシュラはふらつきつつも、暗黒魔法を魔剣の先から解き放とうとする。たとえ身が犠牲になろうとも、彼は最後まで支配者としての誇りを守り切ろうとした。

「くたばれぇぇ!」

「はぁぁ!」

 闇の支配者ダークネスルーラーと、人間界の救世主となるべく正義のルーラーの、生死をかけた最後の戦いがそこにあった。

 それは、一瞬とも言える電光石火の幕切れだった。

 シルクの振り放った迷いのない一閃。目を覆うほどの眩い雷光が駆け抜けて、黒さが抜け落ちた甲冑を横一線に断ち切っていた。

 その切れ目がばっくりと裂けると、甲冑は二つに分かれて滑り落ちた。

「ま、まさか――」

 アシュラの表情が苦痛と屈辱で歪んだ。

 不死身の肉体と己のプライドを切り裂かれた彼は、差し伸べた右手でシルクに掴みかかろうとする……が、その震える手は、あと数センチのところで彼女に届くことはなかった。

 聖なる制裁を下された彼は生身の姿をさらけ出し、跪くように両膝を落として、赤いカーペットの上に身を横たわらせるのだった。

「そうだ、暗黒魔法は!?」

 シルクは慌てて天井を見上げる。

 ルシファーの姿を象っていた暗黒波の暗雲は、甲冑から放出された魔力を失ってしまったからか、形を維持できなくなり黒い霧に戻っていた。

 邪悪な暗雲の影も形も消え失せて、安堵の吐息を零した彼女。そこへ近寄ってくるワンコーとクックルーも、勝利という達成感をその表情に映していた。

「ワンコー、クックルー。あなたたちのおかげよ。どうもありがとう」

「いえいえ、姫の冴え渡る剣捌きが勝利を生んだんだワン」

「まぁ、オレたちみんなのチームワークの勝利だコケ」

 シルクたちはしっかりとした足取りで、朽ち果てたであろう魔神の亡骸を窺おうとする。

 そこで彼女は驚くべき事実を目撃した。偉大に見えたあの肉体がすっかり萎んでおり、その顔立ちも穏やかなものに変わっていた。そう、彼が悪魔に魂を売り渡す前の、人間だった頃の姿に。

 よく見てみると、彼は虫の息ではあるが死んではいなかった。しかし、戦意は喪失しており、もう牙を剥いてくるほどの威圧感は微塵にも感じられない。

 彼女は静かに名剣を鞘に収める。そして、横たわる一人の男性のことを哀れむ目で見つめていた。

「もう、あなたは魔神アシュラではない。人として生まれたままの姿で、自らの過ちを悔いながら、あなたが支配したこの地で、永遠の眠りにつきなさい」

 不老不死というエゴイズムのために、魔族に生まれ変わり、闇魔界の王として君臨してきた、かつて指導者と呼ばれたこの男性。人間たちを虐げて、人間たちを弄んできた罪は決して許されることはない。

 この暗闇の世界で墓標となり、恥ずべき罪を償い、然るべき罰を受けなさい。シルクはきっぱりとそう断罪した。

 男性は喉の奥から無理やり声を絞り出す。だがその声は、怒気や憎悪をはらんだものではなかった。

「え、永遠の命……か。フフフ、永遠というものなど、どの世界にも、存在しないのかも、知れぬ」

 死と老いを恐れ、獄門を潜り抜けた愚者の末路は、所詮、地獄しかなかった。

 闇の支配者と救世主。支配者(ルーラー)として生を享けた者同士が、ここで出会い、死闘を演じた。しかし、その運命は天と地。男性は今更悔いたとしても、もう後の祭りであった。

 生きることの真偽を教えてくれたことを感謝する彼。罪と罰を受け入れるかのように、その表情はとても晴れやかで清々しかった。

 生まれ変われるのなら、今度こそ、朽ち果てるその時まで人のために尽くしたい、そう語りながら、彼は静かに息を引き取った。命と同等に扱ってきた、黒光りする魔剣を手放しながら。

「あたしたち、勝つことができたんだね。闇の支配者である、この魔神に」

 シルクはようやく勝利を実感することができた。嬉しさと喜びのせいで熱を帯びて、体中が不思議なほど高揚していた。

 ワンコーとクックルーもここに来て、ようやく飛び上がるぐらいに歓喜した。その弾けっぷりは、肉体的疲労などまったく感じさせないほどだ。

「これで、オイラたちの長い旅も終わるんだワン」

「そりゃそうだ、だって魔神が死んじまったんだコケ」

 とはいうものの……。

 シルクたちが佇んでいるこの王の間に、変わった様子も見られず、異変らしい異変も起こらない。

 静寂に包まれたままの室内。内心、不安と動揺を隠し切れない彼女たち。まさか、魔神を撃破しても、この闇魔界から脱出できないのではないか、と。

「あ、もしかしたら、クレオートなら何か知ってるかも」

 パチンを両手を叩き合わせて、明るい表情で声を弾ませたシルク。

 魔神とのバトルに間に合わなかったクレオートだが、彼はまだ、ここへ向かう途中の通路で、負傷した右足首の回復に専念しているはずだ。

 ここにいても無駄と判断した彼女たちは、戦果の報告を兼ねて、彼と合流するため来た道を戻ることにした。

「あれ、姫。何かが光ってるワン」

「え?」

 いきなりワンコーに武闘着の端っこを口で掴まれて、シルクは訝しげにクルリと振り返った。

 彼が指でちょいちょいと示している先、そこは魔神だった男性の倒れている場所。確かに彼が言う通り、微弱ながらも、不気味な光を放つ何かがそこに存在している。

 このまま放置するのも何だか気味が悪い。彼女はどこか胸騒ぎを覚えて、その妖光の正体を突き止めようと踵を返した。

 一歩、また一歩近づいていくうちに、不気味な光を放つ物体の全貌が明らかになっていく。

「ねぇ、あの光ってるのって、まさか」

 シルクはドクドクと鼓動が激しくなった。近くで寄り添うワンコーとクックルーも、目を見開いたまま声を震わせている。

「魔神が大事にしていた魔剣だワン」

「剣が勝手に光るって、どういうことだコケ?」

 闇の支配者という守護を失ってもなお、魔剣はまるで意思を持つかのごとく妖光を放っていた。

 しかも、その輝きは息苦しくなるほど悪意に満ちており、シルクを数歩後ずさりさせるほどだ。

 すっかり言葉を失ってしまっている彼女たち。そこへ追い打ちをかけんばかりに、どこからともなく奇怪な声が鳴り響いてきた。

『我、征服者に力を与エル魔の剣也。汝、新タナ征服者を求ムナラバ、我を手ニセヨ』

 シルクたちは一斉に室内を見渡したが、王の間にいるのは彼女たち以外には誰もいない。

 この声の主として考えられるのはただ一つ。妖光を弱々しく瞬かせる、闇の支配者だった男性の傍らに落ちている魔剣だけだ。

 無機質なはずの硬質な剣が言葉をしゃべるなんて――。シルクは青ざめたまま愕然とし、言葉を話せるワンコーとクックルーも、自分たちのことを棚に上げて度肝を抜かれていた。

「姫、これはいったいどういうことだワン?」

「確か、魔神が言っていたわね。苦労の末に、魔剣と一緒に支配者になったって。それに、支配者になりたければ、魔剣を奪ってみろとも」

 魔神という宿り主を失い、新しい宿り主を求めている魔剣。それを手にした人物こそが、この闇魔界の新たな支配者として君臨できる。シルクの言葉を要約せずとも、それぐらいのことは察しがつくだろう。

 それはすなわち、魔剣は意思の赴くままに、シルクを新しい宿り主として招待しているのだ。闇の支配者ダークネスルーラーとして。

「おいシルク、どうするつもりなんだコケ?」

「そんなこと、考えるまでもないでしょう?」

 闇の支配者なんて、こちらから願い下げよ! シルクは頬を紅潮させながら、鞘から抜いた名剣を高々と振り上げる。

「この魔剣がなくなれば、闇魔界そのものも潰えるはず。ここで破壊するに決まってるでしょう」

 シルクは両手に渾身の力を込めて、名剣スウォード・パールに全神経を集中させる。

 これで闇魔界の時代も歴史もすべて終わる。彼女は救われることを祈り、その両手から名剣を振り下ろした。

 ――その信じられない出来事は、名剣が魔剣に叩き落とされる、ほんのコンマ数秒前に起こった!

(!?)

 シルクのそばを通り過ぎていった流星のような人影。

 それは、とても馴染みのある匂いを放ち、そして愛おしくも感じる香りだ。

 名剣の剣先が叩き落とされた床には、なぜか、そこにあるはずの魔剣が消失していた。その異変に気付き、すぐさま顔を上げる彼女。

 妖光を放つ魔剣を掴んだまま、悠然とした後ろ姿をあらわにしている一人の男性。

 襟足まで伸びた黒髪を兜から覗かせて、艶やかな質感が特徴の真紅の鎧を纏った剣士、容姿こそはっきり見えないもの、その男性の素性は、ここにいる誰の目にも明らかであった。

「クレオート!」

 シルクは喜び勇んで声を張り上げた。クレオートの意外な行動を不審に思うよりも先に、彼女は再会の嬉しさを笑顔という表情で爆発させていた。

 ところが、彼が振り向いた瞬間、彼女は衝撃のあまり身の毛がよだった。

 あの穏やかな笑みなどどこにもなく、優しい心を持った彼とは不釣り合いなほど、その表情は狡猾で狂気の色に満ちていた。

「ご苦労だったな、シルクよ。おまえのおかげで、ようやく魔剣がわたしのものとなった。心から礼を言うぞ」

 シルクは頭の中が真っ白になり絶句している。

 その傲然たる態度と台詞は、紳士のはずのクレオートとはとても想像できない。しかも、淀みのない口調も声色も彼のものとは到底思えなかった。

 禍々しい魔性を漂わし、不気味なほど黒光りしている魔剣。それを握り締めながら不敵に笑う彼は、あの頼れるパートナーであるクレオートとはまるで別人だった。

「クレオート、ど、どうしたの? な、何を言ってるの……?」

 声だけではなく、体も小刻みに震わせているシルク。どう感情表現したらいいのかわからないほど、彼女の精神は崩壊してしまっていた。

 彼女の戸惑う心情など気にも留めず、いつまでも卑しく笑っているクレオート。その緩んだ口元から、さらなる殺戮を生むであろう欲望と野望が明かされる。

「わたしはついに闇魔界の支配者となった! フッフッフ、次はいよいよ、人間界をこの手で……」

 クレオートは片手を突き上げて、頭上に小さな異空間を作り上げた。それは紛れもなく、シルクたちをこの地獄へ誘い込んだ、あの”鬼門”であった。

 渦巻き状に淀んだ鬼門の中へと吸い込まれていく彼。シルクは二の句が継げないまま、親愛なるパートナーと魔剣が消えていく姿をただ見つめることしかできなかった。

「姫、これはいったいどういうことだワン!?」

「まさか、クレオートは裏切り者だったのかコケ!?」

 ワンコーとクックルーも事態が飲み込めず、その場で慌ただしく騒然としていた。

 無論、それはシルクも同様だ。仲間はずだったクレオート、信頼を寄せて、さらに心を通わせていた彼の信じられない行動に、彼女は理解不能に陥り鼓動をバクバクと震わせていた。

 冷静になれ、冷静になれ……。彼女は瞳を閉じて、自らの揺れ惑う心を落ち着かせようとする。

(あたしはどうすればいいの……?)

 クレオートは裏切り者だったのだろうか? 魔剣を手に入れるがためだけに、彼は一緒に旅を続けていたのだろうか?

 ここで自問自答していても、彼女の脳裏に浮かぶのは、恋しい彼の優しかったはずの笑顔だけ。そうだ、こんなところでじっとしていても始まらない、いや、この冒険は終わりはしないのだ。

「姫、どうするんだワン?」

 ワンコーの問いかける大声で、シルクはハッと我に返った。

 髪の毛を乱しながら頭を振り回し、王の間に浮かんでいる鬼門を見上げる彼女、もう、進むべき道は決まっていた。

「クレオートを追いかけましょう! これまでの真相を問いたださなくちゃ!」

 そこにある鬼門がどの世界に繋がっているのかわからない。だが、シルクに迷っている余裕はない。

 彼女はグッと奥歯に力を込めて、異空間の中へと飛び込んでいった。少しでも早く、クレオートの背中に追いつくために。

「よし、クックルー、行こうワン」

「ああ、ワンコー、行こうコケ」

 ワンコーとクックルーも顔を見合わせて、シルクの後を追いかけるように鬼門へと突入した。


 シルクは夢を見ているようだった。

 いや、むしろ夢であってほしかった。

 鬼門を越えた彼女は、いくつもの疑問を抱きながら、当てのない時空間を彷徨っていた。

 彼女の辿り着く先にあるものとは? それは、長きに渡るこの旅の終着駅なのだろうか?

 そして、魔剣を手にしたクレオートと巡り合い、闇の包まれたすべての謎を解き明かすことができるのだろうか?

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