あの夏の
カボタリアス
あの夏の
日が沈んでもなお息が詰まるような暑さに苦しみながら、熱気の籠った自宅へと辿り着いた。冷房の電源を入れると風の音と共に流れてきた埃臭さが鼻につく。料理をする気は到底起きず、コンビニで買ってきたインスタントラーメンにお湯を注ぎ入れ、体勢を崩しぼんやりとテレビを眺める。冷房から流れ出る風に気怠い暑さが少しずつ和らいでいくのを感じながら瞼が下がっていった。
その夏は気が遠くなる位、暑かった。
各地の避暑地の状況を伝えるアナウンサーの声がぼんやりとしたぬるい空気を通って和室から聴こえてくる。
「歯医者行くんだ、ごめんな。」
午後から家へ遊びに来ると言っていた同じクラスのだいすけから歯医者に行くから遊べなくなったと電話があった。家の裏の沢で一緒に釣りをしようと楽しみに思いを馳せていた、そんな矢先に電話が鳴った為君は、えも言われぬやりきれない気持ちに悶々としていた。同じクラスのたかしも家族でどこかへ行くと言っていた為、遊べそうにない。
これから、他の誰かを誘おうか。そんな思いもこの生ぬるい空気に殺され、寝そべった君の耳には、アナウンサーの声と、規則的な時計の秒針と、油蝉の嫌がらせの様な喧噪が雪崩れ込んでいた。しばらく寝そべったまま、瞬きだけをして天井を眺めぼんやりとしていた。
そんな時、君は思い立った。庭先の古い自転車に跨り、茹だるような陽射しの中を漕ぎ出し、坂道を登っていく。自転車のチェーンがギリギリと音を立てていた。
暑い陽射しを受けて、家の中の方がまだましだったなと君は思う。とうに身体は汗で濡れ、自転車のハンドルを握る手が滑って気持ち悪かった。坂の上には鮮やかな水色の上に膨らみに膨らんだ入道雲が広がっていた。坂の上から見下ろした家並みは刺すような陽射しを受けて窮屈そうだ。民家の屋根瓦がてらてらと眩く光り、目に痛かった。
坂を下り、自転車を止めて暗い軒下をくぐる。ちりんと揺れる風鈴の音と共に、埃を被った扇風機の音が聴こえる。陽射しはないが、店の中もぬるりとした暑さだった。あの扇風機も生ぬるい空気を混ぜているだけだろう。店の中は誰もいなかった。
君はポケットから出したお金を握り締め、商品を台に置いて店の奥に呼び掛ける。
「はいよ」と、奥から出てきたお婆ちゃんは皆から、駄菓子屋の婆ちゃんと呼ばれている。だいすけやたかしと駄菓子を買いに来るとたまにひんやりとした漬け物をくれる。君はきゅうりの浅漬けが大好きだった。
「今日も暑いねえ」と笑うお婆ちゃんはいつも顔をしわしわにして微笑む。優しいお婆ちゃんは皆も大好きだ。
買ったものを袋に入れて貰い、お婆ちゃんに手を振って挨拶した。
「また来てね」という言葉を背に受けて駄菓子屋を後にした。家で食べようと思ったからだ。
来た道を戻って坂道を下り、鍵を掛けていない引き戸をがらがらと開けて中へ入る。
東京から来た親戚の沖田兄さんの子ども、同い歳のひろきが初めて家に来た時の言葉を思い出した。
「なんでお前んち鍵掛けねえの。泥棒入るじゃん。」
都会では家に鍵を掛ける事が常識らしく、とても驚かれた。近所にはそんな悪い人は居ないし、都会は悪い大人が沢山いるんだなと思った。
サンダルを脱ぎ軋む廊下を歩く。目に痛いほど眩しかった外とは反して仄暗い廊下が続いている。空気はやはり生ぬるかった。だが外よりはましだな、と再び感じた。
やかんに火を掛け、隣室の畳に寝そべってぼんやりと考える。だいすけは今頃どうしているだろうか。だいすけが歯医者に行っていなければ今頃、一緒に裏の沢でやまめや、鮎釣りをしていただろう。
いつだったか一緒に魚釣りをしていた時、岩の上から魚影を見つけただいすけが影を追い掛けて苔に足を滑らせた事を思い出した。
派手に転んだ癖に、僕に気付かれていないと思ったのか、何も起きていなかったかの様な顔で影を追い掛けていた。そんな事を思い出し、ふと口元が緩んだ。
歯医者に行っただいすけと、予定通り遊びに来るはずだっただいすけ。
家の裏で水遊びや魚釣りをする。河瀬の石をひっくり返して沢蟹を探す。ところが手に取った石の裏からは、得体の知れない水生昆虫が飛び出してきて飛び退きおののく。しばらくそのまま、ぽちゃんと滑稽な音を立てて水の中へ沈んだ石を見送り立ち尽くす。頭の中では、何度も石の裏から虫が飛び出す光景が繰り返されていた。
反対に静かな院内では日常では嗅ぐことのない匂いに包まれ、聴こえるのは静かなオルゴールの音と処置室から洩れるドリルの高音。
きいんと逃げ場を塞がれたような、自分の処置はまだ先なのにまるで自分が処置をされている様なあの音。
あのたった一本の電話で、今いる場所や考えている事がこうも違うのかと不思議に感じた。
ぼんやりと畳の上に寝そべった君の耳には、相も変わらず規則正しい秒針の音と油蝉の声が聴こえていた。
ぴいい、とやかんが鳴って意識が畳敷きの和室に引き戻される。君は慌てて火を止めて湯を注ぎ入れる。
まだ汗の引いていない君は縁側に出て扇風機に向かい、風に当たる。熱くて直ぐには食べられないだろうと思ったからだ。これがいけなかった。
縁側から見える田畑には青々とした稲が風に揺られて一枚の絨毯の様に見える。靡いた穂の先にいつか米が実ってあの白いご飯になるなんて到底考えられなかった。そんな事を考えながら、君は縁側に横になった。
柔らかい風に混じって緑の草花や陽射しを受けた土の匂いがする。柔らかな夏の匂いだ。
君はまだ気付かなかった。もうそろそろ時間が無くなる。君が見過ごした些細な出来事はやがて大きくなる。後になって、戻れないことに気付くだろう。
意識がふわりと遠退いて瞼が下りた。もう後には戻れなかった。
蛙の大合唱に目を覚まし扇風機を止める。陽はすっかり落ち込んで辺りは真っ暗になり、街頭一つない暗闇からは蛙の声のみが聞こえていた。
台所から君を呼ぶ声がする。母親はとうに帰ってきていたらしい。日が落ちる前とは少し違った夏の匂いと共にした大好きな香りで今日はカレーだなと確信する。気付いて欲しかった。もう、気付いて貰えただろうか。
身体を起こし君は廊下を通って台所へ向かう。暗い足元からはきいきいと、軋んだ音がしてついさっきも同じ音を聴いていたなと君は思う。暗さに慣れ切ってしまった目には台所の煌々とした明かりは眩しかった。まぶたの裏がじんと痛む。眩しさに目を薄めたその視界の隅に君は目が留まる。
君は僕にやっと気が付く。真っ直ぐ僕を見て恐る恐る手を触れ不思議な顔をする。やっと気付いてくれた。
お湯はここまで、という線は、たっぷりとお湯を吸いに吸った溢れんばかりの麺によって見えなくなっていた。お湯を吸いながら外の世界を儚く夢見た無残な死骸は銀色の紙の蓋によって塞き止められていた。
痛ましい姿の僕を抱えた君は、咽び泣きながら僕の亡骸を葬った。
「今日も日本各地では暑さが猛威を振るい、都心では記録史上、最高気温を更新しました。」とテレビから流れる声で目が覚める。どうやらうたた寝をしてしまっていたらしい。
凝り固まった疲れた体を起こすと食卓の上のインスタントラーメンが目に入った。慌てて蓋を開けようとしたその時にはもはや手遅れである事に気付いた。目の前の惨状がいつかの景色と重なった。
あの夏のブタメンを、僕は一生、忘れないだろう。
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