会社員はケツァルコアトルスのことを思わない

伴美砂都

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 子どものころ、祖母と会うときは、科学館に行った。

 家の最寄り駅まで父か母に車で送ってもらって、JRに乗り、地下鉄へ乗り継ぐ駅で待ち合わせをした。三十分ほどだけとはいえひとりで電車に乗るのが、当時のわたしにとってはわくわくする冒険だった。

 祖母は、わたしが小学校三年生のとき、わたしの家、つまり、祖父が亡くなってから祖母と祖母の息子である父、その結婚相手である母、そして娘のわたし、その四人で住んでいた家を出て、電車で一時間ほどのところにある叔母の家の近くで、一人暮らしを始めた。祖母のことが大好きだったから離れて暮らすのが嫌で、そのときはずいぶん泣いた。なんで、どうして、と母に何度も問うたけれど、答えは返ってこなかった。

 今、思えば、きっと母が、祖父母、つまり義理の両親と、折り合いが良くなかったのだろう。当時、子どもだったわたしには、母も、祖母も、そんなことはひとつも言わなかった。だから、想像してみるしかできない。大人になってしまった今も、本当のことは知らない。



 久しぶりに会った祖母はむかしにくらべてずいぶん痩せたが、元気そうだった。八十歳まで一人暮らしをして、その後、暮らしていたアパートの近くの介護施設に入居した。施設とはいえ個室だから自由だし、お友達もできて結構楽しいわと、ロビーでわたしの持って来たクッキーを美味しそうに食べながら笑う。祖母は昔から、和菓子より洋菓子とコーヒーを好む。


 「志帆ちゃんももう会社勤めなのよねえ、まあ、すごいわあ」

 

 身体は元気だけれど、忘れっぽくなったのか何度も同じことを言う。そのたび、えー、すごくないよお、と笑って答えながら、喉から胸のあたりにかけてが、くっと苦しくなるのを感じた。入社してもうすぐ一年経つのに、わたしはちっとも仕事ができなかった。


 施設を出ると、つめたい風が吹いてマフラーの端を後ろへ飛ばした。巻き直すのに二度失敗する。

 三月に入って少し日は延びたけれど、まだ寒い。俯いて、地下鉄の駅までの道を、てくてくと歩いた。行きも帰りも同じ、十分ほどのはずなのに、帰りは、近く感じる。

 行きより帰りの方が近く感じるのは、人間の脳のはたらきで、そうなのだと聞いたことがある。どういう脳の働きなのかは、よく理解できなかった。

 肩にかけたトートバッグの紐を、ぎゅっと握りなおした。明日は日曜だけれど、出勤日にあたっている。



 科学館では、「大恐竜展」を見た。科学館には何度も連れて行ってもらったから、もっとたくさんのさまざまな展示を見たはずなのだけれど、憶えているのは「大恐竜展」。六年生のときだったろうか。展示ホールの高い天井に、大きく翼を広げたケツァルコアトルスの骨格模型が飾られていた。


 ケツァルコアトルスは、世界最大級といわれる翼竜だ。翼竜のことを子どものころは「空飛ぶ恐竜」だと思っていたけど、正しくは恐竜ではないらしい。でもその「大恐竜展」のときは、昔だったからなのか、ちがってもいいと思われたのか、ほかの恐竜と同じ会場に飾られていた。

 翼を広げたときの大きさは、大きいものでは十八メートルほどもあったともいわれる。平均でも十一、二メートル。こんな大きなものが、本当に空を飛んでいたらこわいだろう。でも、そのときはほかの生きものも大きかったから、怖いとかは思わなかったのかな。

 飾ってある模型は骨だけだけれど、本当はそこに翼があって、空を飛んだ。片翼にひと一人ずつぐらいだったら、楽々と乗れそうだ。

 むかし、母がレンタルビデオ屋さんで借りてきた、「果てしない物語」のビデオ。あの映画のなかでも、ドラゴンの上に乗って少年は、空を飛んだ。あんなふうだろうか。そう思っていた。

 隣で見上げながら祖母は、いまと同じように、にこにこして、まあ、すごいわあ、と言っていた。



 日曜は、県内の医薬学大学の教授を講師に招いた、製薬業界に関する講演会だった。本社の一番上の階にある大研修室は、イベントや会社説明会の会場としては一番よく使う。

 大学を卒業して、わたしは製薬会社に就職した。半多製薬という会社だ。県内にいくつか工場がある、地元のある県のなかでは結構大きい会社で、採用人数も多かった。

 何度かに分けて採用試験があったうちの、秋のさらにあとの、たぶん、本当に最後に、ギリギリで試験に受かった。

 総合職とはいえ事務だと思っていたのだけれど、配属されたのは本社の、広報部という部署だった。社内報や広報誌を作ったり、ウェブサイトの記事を作ったり、人事部と一緒に会社説明会を運営したり、取材対応をしたりする部署。地方の地元企業だからか、講演会やコンサートなどのチャリティーイベントを開くこともある。そういったことを企画・運営する部署だ。

 わたしは最初から仕事ができず、一年経っても、できるようにならなかった。同い年の同期はもう説明会やイベントの主務を任されて、同じ部署や人事部などの先輩たちとも信頼関係を築いているようにみえるのに、わたしは何もひとりでこなせたことがなかった。

 夏前に初めて任されたイベントで、引継書をもらって概要も全部説明してもらっていたにもかかわらず、すべての手順を先輩に指摘されるまでできず、まあまだ初めてだからね、と言われて先輩のサポート役につくことになった次のイベントでは準備する資料の数を間違えていて慌てて事務室に走り、さらにコピー機の操作を失敗して印刷し直そうと思ったらトナーがなくなり、トナーの保管場所を勘違いしていて探すのに時間がかかっているあいだに本番が終わってしまった。そんなことを何度か繰り返すうち、もう何も任されなくなった。

 今は、他部署に渡すスケジュール表の入力や、各部署から提出される社内報の原稿をいつも使っているフォーマットにコピーして体裁を整えること、もうほかの人がすっかり作って決裁まで取った文章をきまったやり方でホームページに載せることなどが、わたしの仕事だ。あとは、イベントの日の準備や片付けのメンバーの最後に名前が入っているだけ。

 そして、たぶんだけどわたしがイベントメンバーとして入る日は、もしわたしがまったく何もしなかったとしてもギリギリ回るような人員で、シフトが組まれている。



 講演会は盛況だった。あとから会場に入ってきた人を席に案内しないといけないと思って、空席を探してまたそちらを向くと、契約社員の春田さんがもうその人を、わかりやすくまっすぐ指し示した手で、空いた席に案内し終えたところだった。

 春田さんは広報部付の契約社員で、業務内容は事務補助となっているけど、以前にイベント会社に勤めていたことがあるとかで、イベントの日にもとても頼りにされている。

 少しの間そっちに気を取られていると、誰かが視界の隅で動く気配がして、見ると会場の前のほうから主任の谷口さんが足音を立てないように、しかし素早く走ってきて、受付のところで立ち往生していた新しいお客さんに、お待たせしてすみませんと言っているところだった。

 しまった、と思う。わたしは、本当は受付で、遅れてきた人を案内する役目だったのに。慌てて戻ると、もうそのお客さんたちは、谷口主任の案内でスムーズに着席したところだった。


 広報部は係がふたつあって、広報一係は、コマーシャルや、会社説明会で流すPR映像、テレビ取材などを主に担当する。わたしのいる広報二係は、それ以外の広報物だ。

 二係は、七人しかいない。係長と、主任の谷口さん、五年目の清水さん、三年目の津田さん、同期の宮本さん、契約社員の春田さん、そしてわたし。係長と主任以外は全員女性だ。

 同期の宮本さんは、宮本真帆ちゃんという。わたしの名前が松本志帆だから、入社した当時は、名前似てるよね、姉妹みたい、なんて言われたりした。いつしか、宮本さんはまほちゃんと呼ばれ、わたしは、松本さんと苗字で呼ばれるのが定着して、今はもう、誰もその話題を話さない。それなのにわたしだけが名前で呼ぶタイミングを逃してしまって、宮本さんのことを、宮本さんといまでも呼ぶ。


 講演会が終わると、すぐ撤収だ。研修室はいつもは机と椅子が並んでいて、人が多く入るイベントのときは隣にある倉庫に机を片付けて、代わりに、スタッキングチェアという、軽い椅子がたくさん積み上がったワゴンみたいなものを出してきて、椅子をたくさん並べる。

 もう何度も同じ部屋でイベントをやったはずなのに、わたしはいつも机を出す位置がわからなくなってしまう。だから机は避けて、マイクスタンドを片付けている清水さんのすぐ隣に行って、マイクのコードを巻こうとしていると、清水さんがこちらをぱっと振り返って、あ、と言った。清水さんは産休明けと同時にほかの部署から移動してきた先輩で、いつも下ろしている黒髪のロングヘアをイベントのときは綺麗にまとめている。今は育休で時短を取っているけど、たくさんの仕事を滞ることなくこなしている。後ろでくくられた髪がさらりと揺れるのに、一瞬気を取られてしまった。


 「松本さん、ごめんだけどここ一人で大丈夫だから椅子のほうやってもらってもいい?」


 はい、と返事をして慌ててコードを置き、まだ片付けられていない会場の後ろの方へ行く。

 前のほうを見ると、清水さんは、わたしが上手く巻けなくてぐちゃぐちゃにしてきてしまったマイクのコードを高速でほどいて巻き直しているところだった。またやってしまった、と思う。

 スタッキングチェアをワゴンに積んでいると、あ、と小さな声がした。ごめん、と言われて顔を上げると、津田さんがこちらへ寄ってきて、これ、積み方違うかも、と少し困ったような顔で言った。

 津田さんは小柄で、いつもふわっとしたスカートを履いていることが多いけど、イベントの日はジャケットに細身のパンツ姿で、そうするとますます華奢に見える。よく見るとわたしが積んだスタッキングチェアは、一番下のを斜めに、変な向きに差し込んで積んでしまったせいで、上に行くごとに傾いてきてしまっていた。

 津田さんが細い腕を伸ばして上から椅子を下ろそうとしたとき、谷口主任が今度はふつうの足音でこちらへ来て、俺やるよ、と言って、津田さんが手を離すのを確認してから、椅子をまとめてがばっと下ろした。すみません、と言ってワゴンを支えながら、津田さんは立ち尽くしていたわたしのほうを振り返った。


 「松本さん、ごめんね、資料の余りとチラシとポスター片付けて、事務室に持って行ってもらってもいい?」


 はい、と返事をして、一番後ろの受付の机のところへ行く。慌てて資料を取ろうとしたせいで、バサバサと床に落としてしまった。かき集めながら振り返ると、会場はもうすっかり片付けられて、正しい位置に机が並んでいた。



 半多製薬は決してブラック企業ではない。わたしは広報部しか知らないけど、SNSに流れてきたりニュースで見るほかの会社の様子と比べたら、決して、悪い会社ではないと思う。

 土日にイベントがあって出勤すれば、そのぶんは必ず代休を取ることができるし、夏季休暇の制度もきちんとある。産休や育休や時短を取っている先輩に対して、嫌な顔をする人もいない、と思う。

 上司にきちんと申請をすれば、残業代もごまかされることなくちゃんと出る。ただわたしは、皆より仕事を持っていないのに残業する理由がどうしてもうまく説明できなくて、いつもサービス残業をしていた。きちんと申請をして残業している人たちが忙しそうにしている隣で、一生懸命、もう仕事は終わっています、残業ではありません、もう帰ります、今帰ります、というふうに見えるようにかばんを持ってきて中身を整理したり、机の上の書類をそろえたりしながら、関数がわからなくてぐちゃぐちゃにしてしまったエクセルの表を必死で直したりしていた。

 最近は、それもなくなった。いつしか、残業しなくてもすむ仕事、急ぎでない仕事、いつやってもいい仕事、そういったものばかりが、わたしの担当になったから。



 科学館の地下には、広いスペースに机と椅子が置かれた休憩所があった。蛍光灯が点いていたが、地下だからか、科学館自体が古い建物だったからか、少し薄暗かった。壁際に売店があり、パンやお菓子、ジュースなどが売られていた。

 科学館へ行くときには、ゆかりのおにぎりと、水筒にお茶を入れたのを、母に持たされていた。プラスチックと金属でできた軽い椅子に座って、おにぎりを食べた。祖母がいつも売店でお菓子をひとつ買ってくれるのが、とても楽しみだった。

 祖母と並んでおにぎりやお菓子を食べるのは楽しかったが、同じ休憩スペースに友達同士で来ているらしき女の子たちの姿があったときは、その子たちから逃げるようにして遠くに、背を向けて座った。たぶん近くの小学校や中学校の子で、わたしの住む市より都会の子たちだ。

 彼女たちはわたしのように首の詰まったトレーナーやださいスニーカーなど身に着けてはおらず、ショートパンツやウエッジソールのサンダルを履いたりしてお洒落で、科学館という施設の、地下の薄暗い休憩スペースにそぐわないほど、キラキラして見えた。

 背後から笑い声が聞こえると、わたしのことを笑われているかもしれないと思って、背中が強張った。でも、今思えば、彼女たちはわたしのことなど見てはいなかっただろう。見ていたとして、同年代ではなく、もっと幼い子だと思ったかもしれない。

 祖母はそんなこと知らないから、わたしが、ここがいいの、と言って遠くに座ろうとするのを、こんな隅っこに座るの、真ん中のほうが明るいわよ、と少し怪訝な顔をして言いながら、それでもむりに真ん中へ連れて行くこともなく、隣に座ってくれていた。


 科学館を出ると、そのまま地下鉄に乗って祖母の家に行き、一晩泊めてもらって、翌日、また電車に乗って帰るのが習慣だった。祖母の夕飯は、煮物に魚、あとはわたしが喜ぶと思ってくれたのか、冷凍食品の餃子かハンバーグが用意されるのが常だった。たくさん食べてね、もういらないの、と言われるので、いつもおなかいっぱい食べた。朝はトーストだった。敬老パスで地下鉄はばあちゃんタダなのよと言って、いつもホームまで入って、気を付けてね、と電車が出るまで手を振って見送ってくれた。


 学校は苦手だった。決していじめられていたわけではない。いじられていた、というほどもない。ただ、いつも周りから遅れていて、それに、見下されているような気がしていて、嫌だった。

 祖母の家や科学館は、わたしにとって、学校やクラスメイトのことを忘れられる、小さな非日常だった。

 でも、あるとき、帰りの電車の中で、小学校の、同じクラスの女の子に会った。会った、というか、たまたま、近くの席に座っていた。

 今、思えば、そう遠い場所では決してないのだし、それまで知っている人に会わなかったほうが珍しいぐらいだと思うのだが、そのときのわたしにとっては、学校や地元と、電車やおばあちゃんちは、まったく別の世界だった。

 ほとんど話したことのない子だったから、リュックを膝に抱えて、知らないふりをしていた。彼女はとなりのクラスの女の子とふたりでいて、わたしに気付いたようだった。わたしの膝の上の、当時お気に入りだった藤色の布でできた大きなリュックを見て、友達と顔を見合わせ、どこ行くのって感じ、と小さな声で言って、ちょっと笑った。わたしはどきっとして、下を向いていた。

 リュックは、買ってもらったときから自分でも、ちょっと大きすぎるかな、とは思っていた。でも、スーパーの本屋さんで立ち読みしたファッション雑誌で見た、かわいい女の子が背負っていた大きめリュックにあこがれてねだってねだって母に生協で頼んでもらったものだから、届いてから、ほかのを買って、とは言えなかった。荷物を少なくして軽く持てば、かわいかったのかもしれないけど、着替えを詰めていたから、ぱんぱんだったのだ。

 あのリュックは、いつか捨ててしまった。いつか、というか、社会人になって、一人暮らしを始めるまで。それまで、使わないのに実家の自分の部屋の押し入れに、サン宝石で買ったスマイルマークの缶バッチを付けたまま、あのリュックはずっとあった。



 社屋の廊下に貼ってあるポスターを回収して事務室に戻ると、松本さんだよなあ、問題は、と声がした。わたしのことだ。扉を開けようとした手を止める。


 「やっぱりまだ手ぇかかるよなあ」


 係長の声だ。もう、みんな片付けや講師の先生の見送りを終えて、事務室に戻っていたようだった。苦笑のような溜息のような声が漏れるのが聞こえた。そうですね、と谷口主任。


 「ちょっとまだ一人では任せられないっすね、もうちょっと周り見て動いてくれたらって、思うんですけど」

 「だよなあ、悪いな苦労かけて」

 「いや係長が悪いとかじゃないですけど、全然」

 「うーん、どうしたらいいんだろうなあ」


 言った係長の声は真剣だった。決して、悪口を言われているわけではなかった。真剣に、わたしのことで困っている口調だった。

 あの、と清水さんの声がした。りんとした声、というのが似合う、涼やかな声だ。


 「彼女、想像力がないんですよね、たぶん、なんていうのかな、イベントの準備とか撤収もそうですけど、今あの人がこれしてるから、自分はこれやろうとか、自分の見えないところで誰が何やってるみたいのを、想像する力がないんですよ」


 確かにな、と主任が言った。

 想像力がない。がーんと、後頭部を殴られたような気がした。

 子どものころから学生時代をとおしてわたしが唯一褒められた言葉、それが、「志帆ちゃんは想像力があるわね」という言葉だった。小学校三年生のときの、担任の先生だった。思えば、クラスメイトとの会話にうまく入っていけず、ちょこちょこと先生のところへ寄って行っては、自分が考えた、物語ともいえない空想や、きのう見たアニメの次の話を想像した内容などを、嬉々として話すような子どもだった。そんなわたしに先生が言ってくれたのが、「想像力がある」という言葉で、わたしはその言葉を、何度も、何度も何度も何度も、心の中で反すうして、そして、ここまできた。

 たぶん、と清水さんは続けた。少し、つらそうな声だった。いっそ笑われたり、ばかとか死ねとか、そういった言葉だったら、わたしは被害者だった。でも、そうじゃなかった。広報二係の皆は、わたしのことで、本当に困っていた。


 「向いてないんだと思います、うちの部署……自分で考えなきゃいけない分量が多いじゃないですか、それよりは、なんかもっと作業っていうか、ルーチンワークみたいのが合ってるのかも、彼女には」

 「まあ、そうだな……でもなあ、ルーチンの入力とか書類も結構ミス多いだろあの子、津田ちゃんだいぶチェック大変でしょ」


 すみません、と津田さんが小さな声で言った。津田さんは、わたしの教育係に当たっている。わたしがどうしてもコピペミスや入力ミスをするので、エクセルの表を作り替えてくれたり、嫌な顔もせずクロスチェックをして、印刷したものを赤字で直したりしてくれていた。


 「いや、それこそ謝ることじゃないし、津田ちゃんこそよくやってると思うし」

 「……」

 「……」

 「……あのさ、これ、……本人がそう言ってないし、他人が勝手に言うことじゃない、ほんとに、言うことじゃないんだけどさ、……彼女、大人の発達障害、なんじゃないかな」


 主任が言い、ああ、と同意のような、溜息のような声がまた複数漏れた。そして、しばらく沈黙になった。宮本さんも中にいるはずだけれど、宮本さんは最後まで何も言わなかった。

 もう五時半をまわっている。春田さんは勤務時間が五時までだから、もう帰っているはずだった。今日は講演会が午後三時からだったから、春田さん以外は皆、出社時間を一時間ずらして出勤していた。

 次に清水さんの声が聞こえたとき、それはもう、別の仕事の話だった。少し経って係長が、松本さん遅いな、と言ったのではっとして、それから三、数えて、わたしは扉を開けた。


 「あ、戻ってきた」

 「お疲れさま、ポスターありがと」


 誰も、わたしのことを冷たくあしらったり、仲間外れにしたりはしなかった。いつもそうだ。同じことを何度も訊いてしまったときには、それは前も言ったと思うけど、と少し厳しく付け足されることはあったけど、それでも、そのあとちゃんと教えてもらえた。皆、優しい。皆、ほんとうに優しい。


 「一階のチラシも引き上げてきてくれたよね?」


 パソコンに向かって素早くタイピングをしながら、谷口主任が言った。はっとする。わたしはそれを、すっかり忘れてしまっていた。

 社屋の一階の入り口付近には、チラシやリーフレットを置く一角がある。ほかのビルの人も通る場所なので、イベントのチラシはそこにも置いておいて、イベントが終わったらすぐ片付けることになっている。いつも、そうなっているのに。

 引き、あ、と繰り返すようについ言って、取ってきますとわたしが言うより先に、清水さんが立ち上がり、私、行ってきます、と言って、わたしの横をすり抜けて、出て行った。ヒールの足音が遠ざかる。わたしは、自分の席に座った。誰も、何も言わなかった。

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