第12話「どうでもいい」
少しトラブルイベントの続いた二月も半ばを越えれば本格的な就活シーズンで、来年度新卒採用者の群れの中に混じり、うろちょろと企業説明会の間をさまよって、社会は厳しいから将来像を思い描いて努力しない人間はクズになると洗脳されかけていたオレに、さらなるトラブルが舞い込んで、オレは夜の山林を歩いていた。
わずかな月の明かりの空に伸びる杉枝が網を掛け、オレの歩く足音は空に届かず時折耳をかすめる風の音に遮られる。春に近い二月の終わりの気候も山の夜は寒さに沈み、肩を抱く指の先はかじかみに震えていた。
「バカ野郎」
オレは信じていた。
「バカ野郎」
オレは信じようとしていた。
「バカ野郎」
オレは信じなければならなかった。
「助けて」
美咲から電話があったのは、企業説明会に向かう途中の電車の中のことだった。
何事かと訊き返すと、電車の音に途切れ途切れの電話の向こうに美咲はとんでもないことをのたまった。
「田中くんの車で集団自殺に行ったんだけど、途中で断わったら帰れなくなっちゃった」
電波が切れた。掛け直した電話は圏外のようだった。
この日ほど、美咲をバカだと思ったことはない。
オレは説明会を蹴っ飛ばし、電車を乗り継ぎ乗り継いで、一県を跨り越えて美咲に言われた場所に着くと、そこは山を背に負う小都市だった。
着いた頃には夕方が近づいて、山は徐々に闇をたくわえ始めている。
オレは駅に自転車を見つけると、鍵を叩き壊してかっぱらい、山につながる林道に向かってこいだ。街の中は当然圏外ではない。携帯電話が圏外になりそうな山林を自転車で探すが、体力はそれに追いつかない。
上る坂道。
「はぁ、はぁ、はぁ」
バカ野郎。
「くっ」
バカ野郎。
「そっ」
バカ野郎。
「どういう」
斜陽。
「つもりだっ」
見つからない。
「あのっ」
見つかるわけがない。
「ばかっ」
こんな、無闇な。
「ぐっ、はっ」
どうする?
「はぁ」
どうすればいい?
「はぁ」
オレは、なんで、こんな。
「はぁ」
夕闇。
「んっ」
苦しい。
「ぐっ」
なんでこんな。
「はっ」
バカ野郎。
「くそったれっ!」
坂を越えた。
「はぁっ!」
林道の脇の黒影に駐車する二台の車。
田中の車。
「はぁ、はぁ、はぁ」
道路の脇から山に向かって獣道が続いている。
足跡。
スーツのオレは、紫色に染まる空に夜を迎える山の闇へ、革靴で踏み入った。
*****
高校の修学旅行。
定番の京都へ向かう新幹線の車内で、オレの隣に座る美咲は窓の景色を眺めていた。
「きしめん」
名古屋でそう呟いた美咲は、次の日の班別自由行動で名古屋にいた。
美咲は変人だった。
友達のいない美咲は強制的な割り振りでオレと一緒の班になり、班長になったオレは美咲の隣の席に座った。
「名古屋に行ってくるね」
自由行動の計画を無視して平然とそう言ってのけた美咲とオレは一緒に名古屋にいた。
きしめんを食べる。
快感だった。
「名古屋駅で看板が見えたの。だから食べてみようと思ったんだ」
そしてまた京都に戻る。
「おいしかったね」
振り向く黒髪の広がり。
美しく、艶やかに、汚れてはならず、触れてはならない、美咲の黒髪。
それからオレは美咲の黒髪に憧れ続けた。
*****
山林の奥に隠れた古い別荘らしき廃屋に飛び込むと、大量の練炭の置かれた部屋に美咲を囲んで田中と他に四人の男女が座っていて、突然の闖入者に驚くこいつらを横目にオレは美咲の手を掴んで夜の山林に逃げ出した。
「秀雄くん」
「このバカッ!」
この声に田中が反応した。
「逃がしやしない」
誰より先に立ち上がった田中は、オレたちの後を追い駆け山林を走り、美咲のなびく黒髪に手を伸ばして、その指が黒髪に届こうとするその間隙。
「美咲さん……うわっ」
オレは田中に飛び掛かった。
「てめぇが、このバカがっ!」
田中の二本の腕をかいくぐって足に組み付き薙ぎ倒し、暴れる田中をマウントポジションに組み敷いて田中の顔面を往復で殴ると、田中の血がコブシに付いた。
「この、くそガキ! くそガキ!」
ゴス。
ガス。
ゴス。
「はぁ、はぁ」
抵抗を失った田中に唾を吐き掛け解放し、再び美咲の手を引いて走り出すと、眼鏡が飛んで顔のひしゃげた田中の切れた口からこぼれる血が、飛沫を上げてオレと美咲の背中に声と飛んだ。
「あなたはボクと一緒に死ぬべきだ! あなたの美しさを知るボクと、その美しさを理解しないこんな世界から脱出するんだ! 待ってくれ! 待ってくれ、美咲さん! 置いていかないでくれ、美咲さん!」
田中はそれでも立ち上がってオレと美咲の後を追おうとしたが、夜に紛れたオレたちを追跡することはできなかったようだった。周囲に人の気配がなくなって、オレと美咲はそこでようやく息をつくことができた。
「ありがとう」
「バカ野郎!」
オレは美咲を怒鳴りつける。
「何が集団自殺だっ! 心配掛けさせやがって!」
「ごめん」
「ごめんで済むかっ!」
「ごめん」
美咲が何度も何度も謝るので、次第にオレも怒りの言葉を失って、謝る言葉もなくなって、沈黙が訪れると、美咲の瞳がオレの瞳の揺れるのを見つめていた。
「泣いてるの?」
闇の深さにわずかに光る美咲の瞳は、オレの瞳の濡れるのを指で触れて確認し、濡れた指先を舌で舐めて、「しょっぱいね」と呟いた。
オレは本気で泣いていた。
美咲が生きていてくれたから。
だから美咲に掛ける言葉も本気の涙に濡れていた。
「よかった……」
美咲は黙って涙を拭いてくれて、オレの気持ちが落ち着くまで拭いてくれて、オレの声の震えがようやく止まると、美咲はオレの質問に答えてくれた。
「なんで自殺になんか行ったんだよ」
「田中くんがね、集団自殺に行こうって言ったの」
美咲はいつもの調子でとんでもないことを淡々と話す。
「自殺する人って、どんな人たちか見てみたかったの」
ある老人は介護をしていた妻に先立たれたと言う。
あるおじさんは潰した会社の借金で首をくくらねばならなくなったと言う。
ある少年は居場所がないために死ぬと言う。
ある少女は生きる理由が見つからないために死ぬと言う。
ある青年は人間の醜さと愚かさに愛想が尽きたために死ぬと言う。
「ボクたちはこんなくだらない世界から自由になるんだ」
自殺志願者サイトを開いて、バブルに売れ残って廃屋となった別荘に彼らを集めた青年の田中は、みんなの主張を総括してそう宣言した。
「え?」
その宣言に美咲は疑問を口に差し挟む。
「自由になっちゃうの? それじゃ自由じゃないじゃん」
田中くんはそのとき何を言われたのかわからなかったのか、かなりマヌケな顔をしたらしい。
「やめた」
「は?」
「自殺」
一人では死ねないから集まった面々は、だから一人でも「生きる」と言われると途端に動揺を広げたが、死ぬと決めてここまで来た手前、「気持ちが揃わなかったからまた次の機会にしましょう」と今更中止にすることもできず、かといって一人だけ生きて帰るとなると残った奴の自殺の決心が鈍るので、美咲が帰るのを黙って見過ごすこともできず、結局みんなで仲良くあの世に旅立つためにいかに死ぬことに意義があるかの説得を、延々と美咲に向けてすることになってしまった。
田中を始めとする五人の自殺志願者は、「生きていたっていいことは何もない」とか、「年齢を取れば身体も思うように動かなくなる」とか、「死ぬなら若くてきれいなうちだ」とか、「老いの衰えは本人にも、周囲の人にもつらいものなんだ」とか、「生きれば生きるほど人間一生金に追われて人生が尽きるということがわかるんだ」とか、「人は他人の不幸を喜んで暮らすんだ」とか、「みんな最後にはどうせ死ぬんだから自殺も自然死も変わらない」とか、「少子高齢化に地球温暖化、資源の枯渇に人口爆発、食糧不足に水不足等、問題は山積みで人類の将来に希望なんて欠片もないんだ」とか、「人は所詮みんな一人なんだ」とか、「みんな自分がかわいいから、本当に困ったときは、誰も助けてなんかくれない」とか、「人は人を殺すんだ。こんな醜いものが他にあるか」とか、様々な説得で口々に美咲に迫る。
けれど美咲は首を縦に振らない。
「自殺をするのにも理由がたくさんいるんだね」
この長丁場の議論に疲労が溜まった自殺志願者の面々は、一時休憩を入れてからもう一度美咲を説得することにして、渇いた喉を潤すためにみんなで揃ってお茶を買いに一度山を下りたのだが、その合間に美咲はオレに電話を掛けてきたらしい。
マヌケな話だ。
それで午前中に集まったにもかかわらず、日が暮れてもダラダラと説得を続けていたところに、オレが突入してきて美咲を助け出したということらしい。
「なんでこんなに自由じゃないんだろう」
暗闇に呟く美咲の声は悲しみに満ちていた。
「何ものでもない何かになりたいのに」
黒髪は闇に溶け、美咲の瞳だけが夜を見上げる。
「自由ってなんだろう」
言葉は不自由だった。
「もういいよ」
「えっ?」
「もういい」
俺の指が美咲の髪を捕らえ、俺の腕が美咲の背中を抱いた。
「好きだ」
俺がこいつのことを好きだということは、もうだいぶ前からわかっていたことで、ただそれを言葉にしなかっただけなんだが、言葉にするとそのことがこうもはっきりと意味を持ち、こうもあからさまで露骨であけすけでいとおしいものになるなんてことは思いもしなかったし、想像することもできなかった。
俺は美咲を捕まえて、俺の言葉で女に変えて、俺は男になって、美咲の身体を抱きしめる。自由な美咲はそこにはいなく、自由からすら自由であろうとした美咲はそこにはいなく、あたたかい熱だけがそこにあって、意味に埋まった男と女だけがそこにいて、そこのすべてが俺を動かし、そこのすべてで俺は動いた。
そしてどうでもよくなった。どうでもよくなったのだ。もう、どうでもいいのだ。どうでもいい。どうでもいいのだ。だから女の胸に顔をうずめ女の肌に指を走らす男の舌は女の唇を強くふさぎ、女の手が男の頭を抱いたので、男は最後まで最後まで女を抱きしめ離れなかった。
「また泣いてるの?」
女の声に頬を濡らす男の心は、罪悪感と幸福感に壊れながら、それでも優しく女の髪を撫でていた。だから女は男の涙を優しく舐めて、小さく笑ってこう言った。
「あたしも好きだよ」
男も小さく笑った。
「もう、どうでもいい」
「うん」
二人だけだった。
不自由な言葉は、それだからこそ安易で、それだからこそ強靭で、それだからこそあたたかく、それだからこそ抱きしめ続けていたかった。
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