3時の夕立ち

@sunahukin

第1話

 セミの声がぱたりと止んだことに気付き、ふと顔を上げた。

 田舎のバス停前にある、小さな駄菓子屋。その一番奥から外を見る。おばあちゃんが入院する間だけ店番を任された小さな駄菓子屋。開け放った土間から見える四角く切り取られた外の世界は、明るさに白くかすんでよく見えなかった。

 それでも目が慣れると、空いっぱいにひとかたまりの勢力を伸ばした白い入道雲が見える。もうすぐ3時。あの人は今日も来るかもしれない。

 室内の静けさがいやに気になり始める。木造の小さな駄菓子屋は、ひんやりとした静けさと、まるで古い箪笥を開けたときのようなこもった匂いに覆われ、ひどく静かな洞窟の中にいるようだった。

 もうすぐ来るだろうか。今に来るだろうか。その時人影がふっと視界をよぎった。

「あ、いらっしゃい」

思わず弾む声で笑顔を向ける。

「こんちは」

風鈴を鳴らす風のようにさりげなく店に入ってきた彼は、笑顔でちょこっと頭を下げた。彼は近くの高校に通う生徒で、夏休み期間中も補習授業のために登校しているらしい。

「いや~、相変わらず誰もいないッスね」

今日も暑いッスね、と同じトーンで彼が明るく言い放つ。古箪笥のこもった匂いはいつの間にか、彼がつけている制汗剤のさわやかな匂いにかき消されていた。外でも再びセミが鳴き始めたようだ。

「おばあちゃんの代で閉めるからね、このお店も」

お客の少なさは聞いていたが、私もここまで暇だとは思っていなかった。彼は少し寂しそうに眉根を寄せたが、すぐにいつもの軽い調子でレジに近づいて来た。

「ラムネ1本」

「はい、100円です」

「え…100円? 100円もしましたっけ? 間違えてないッスか?」

いつもラムネを買うたびに繰り返される茶番だ。同じセリフをもう10回は聞いているというのに、なぜか今日もクスリとしてしまう。

「いい加減値段覚えてくださいよ」

ラムネを手渡すと、彼は嬉しそうにニコッとして、今や定位置になりつつある店内の丸椅子に腰かけた。ここでラムネを飲んで、3時30分のバスを待つのが彼の日課だ。

「いやそれにしてもだるいッスよね、今日数えたら夏休みあと27日なんスけど、補習が20日もあるんスよ。ひどい話だ」

彼は基本、おしゃべりだ。

「伊崎さんは? 補習ないんスか?」

「そっちほど進学校じゃないから、補習とか無いんよ」

こう見えて彼は、県内で一番頭が良いと言われている高校に通っている。まだ高校2年生だが、大学受験を意識し、長期休暇中も欠かさず補習があるらしい。

「それが一番スよ」

彼はニコニコしながらラムネを煽った。


 15分ほどお喋りをしていると、またセミの声がぱたりと止んだ。同時に外の光がふいと陰る。

「夕立ちかな…?」

土間から入ってきた風が、雨のにおいを連れてきた。

「そうみたいッスね。あぁ、見て、すげえ降ってきた」

ざああっという音と共に雨が降り始め、肌にまとわりつくような湿気が立ち込める。彼はしばらく、黙って雨が降る様子を見つめていた。30秒以上黙っている彼を見るのは、冗談ではなく初めてかもしれない。雨の音に耳を傾けながら、彼と2人だけ別次元に閉じ込められたような、不思議な感覚に身を任せていると、彼がつと小さな声で呟いた。

「このままどっかに消えたいな、とか、考えたことあります?」

「…え?」

彼はうつむいて、手に持ったラムネの瓶をじっと眺めていた。どう答えたものか。ただ、確実なのは、いつも冗談ばかり言っている彼が、今は冗談を言っていないということだ。

「…無くはないよ。川辺くんは?」

本当はしょっちゅうあるのだが、ひとまずマイルドに返した。彼はじっと手元の瓶に目を落としたままだ。鼻筋の通った端正な横顔からは、何の感情も窺い知れない。

「俺はありますね」

この人はいつも明るいけど、きっと、ただいつも感情を隠しているだけだったんだろうな、と私はぼんやり考えていた。

「どんな時に消えたくなるの?」

「う~ん……」

彼はゆっくり息を吐きながら、私の方に顔を向けた。目が合った時の視線の強さに少したじろいでしまう。

「親に殴られてる時とか」

思わず息を止めた。同時にふと何かが通じ合ったような気がして、私は彼の目を真正面から見据えた。進学校に通う、明るいイケメンの彼だけど、どこか懐かしい感じがしたのは、何かが私と似ている気がしたのは、こういう事だったのか。

「……私は、殴られるのとは違うけど、でも、似てるね」

思い切ってそう言って、彼の表情を窺う。彼は驚いたように目を見開き、そしてふっと笑顔を見せた。いつもの軽い笑顔とは違う、弱々しい笑顔だった。彼の笑顔にほだされるように私も頬をゆるめた。きっと彼と同じくらい弱々しい笑顔だったことだろう。


「雨、上がりましたね」

いつもの調子で彼が言う。ほら、と促されて彼と一緒に外に出ると、空を覆う分厚い灰色の雲が、今まさに追い払われようとしているところだった。雨雲の向こうには、「ずっと変わらずここに居ましたが?」とでも言いたげな白い入道雲が顔を出している。

「あ、きれい」

灰色の雨雲が途切れる際から、夏の日差しがカーテンのように地上に突き刺さっていた。まぶしい光が、道路のあちこちにできた水たまりをきらきらと照らしている。

「きれいッスか? そうッスかね。何かゴミ浮いてますよ」

近くの水たまりを凝視しながら彼が言う。

「川辺くんは情緒が無いねぇ」

シャワシャワシャワ、と一匹のセミが鳴き出したのを皮切りに、一斉にセミの声が聞こえ始めた。 私が笑うと、彼もどこか安心したように笑う。過ぎ去った夕立ちと共に、あの雨の中の会話も過ぎ去ったかのような雰囲気だった。でもお互いの心の中には、少しひんやりした温度であの会話が残っている。うだるような夏に折れそうになる心を、これからきっと救ってくれることだろう。

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