8月9日

きょうはおはかのそうじにいってきました。

お盆ということでお墓の掃除…と言っても母にお願いされて、ほとんど付き添いみたいなものでしたね。草むしりくらいしかやらなかったので。


こういう時、私は江國香織さんの『ウエハースの椅子』という小説の一節を思い出します。


"それは、自分をまるで、紅茶に添えられた、使われない角砂糖であるように感じていたからだ。(中略)役に立たない、でもそこにあることを望まれている角砂糖でいるのが"


私も時々そう感じる時があります。紅茶に添えられた、使われない角砂糖のように、ただそこにあることを望まれている状態。

居てくれるだけで良いというのは、ある種幸福でありがたいことなのかもしれないです。(し、実際この小説の主人公はそうあることを好んでいます)しかし、私はどうも苦手です。役に立たない角砂糖なら、役に立たずとしてそこにありたい。できれば一つで。


私は有り難いことに家族仲も良好ですし、幸運なことに優しい友達がたくさんいます。しかし、その一方で一人でいることがたまらなく大切で好きなことなのです。

元々群れるのが嫌いではありました。中学の時は無意味に連れ立って行くトイレを嫌悪していましたし、高校の時はとあるグループに拒絶されたまま暫く一人でご飯を食べていました。それは苦痛ではありませんでしたが、人とは違うのかもしれない、という意味ではやや不安だったことは覚えています。

何より、体育などで仲間はずれ同士、全然話したことのない子と組まされるのは苦痛でした。


ただそれでも私は自分だけの時間を愛していましたし、それと同じくらいみんなと過ごす時間も大切に思っていました。


私の祖母(母方のです)は九十二歳で亡くなったのですが、ボケてから亡くなるまでずっと施設で暮らしていました。その施設に会いに行くたびに「家に帰りたい」と言っては我々を困らせていました。

祖母のいう家とは家族の住む家ではなく、施設に入るまでずっと一人で住んでいた家のことでした。「一人で住むなんて無理だよ」と母が何度も言っていました。まさにその通りで母の名前も私の名前もあやふやな状態で、一人暮らしなんてできるわけないのです。


でも祖母が亡くなってからふと、思うのです。祖母はひょっとしたら、一人で生きたかったのではなく、一人で死にたかったのかもしれない、と。


死ぬ前に自分の身を隠す猫のように、一人でひっそりと、でもしっかり。私もそうかもしれない。できれば一人で静かに死にたい。それは自殺したいとかそういうのではなく、もし死ぬならそれがいい、とぼんやりと思うのです。


と、まぁ特にオチはございませんが、本日はこれにて…!

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