20. Into the past
「……今のお前じゃ、あたしに怪我一つ負わせらんねえよ。大怪我する前にやめとけ」
あたしは、今でも鮮明に覚えている。自分が怪物になってしまって、初めて負けた喧嘩のことを。大人の男にでも負けたことがなかったあたしの暴力を、あの人が軽くあしらったあの日のことを。
あたしは地に這いつくばりながら、あの人を見上げていた。
「なんでそんなに怒ってんだよ。ちゃんと話せ。聞いてやっから」
あたしは、身体中の痛みを無視して、あの人に跳びかかった。結果は言うまでもなく、今までと同じように痛みが返ってくるだけ。地面に崩れ落ちたあたしは、苦しみながら喚いた。
「……あたしはっ……もう何もない! 何もないんだっ! 全部あたしが嫌いで! あたしを馬鹿にして……」
泣きながら叫ぶあたしの潰れた声は、あの人にどのくらい伝わっていたのか。今となっては確認する術がない。
「あたしはっ! 生きていても……もう……」
ただ、伝わっていようと、伝わってなかろうと、どうでも良かった。
あの人が、抱きしめてくれたから。
「……お前がどのくらい辛いのかは、全然分からねえけどよ。お前が辛いってことだけは分かってやれる。あたしは味方だ。安心しろ」
怪物になってしまった私は、あの人の胸の中で涙が枯れるまで泣いた。
頭に軽い衝撃を受けて、刹華は我に返った。
「あっ、ごめんな刹華ねーちゃん! でも痛くないよな?」
少年の声と目の前に落下したブヨブヨのソフトバレーボールが、刹華に状況を教えてくれる。
「あ、ああ。大丈夫だ」
気の抜けた返事を聞いたマコトという少年は、悪びれる様子もなくボールを拾い、再び幸織と遊び始めた。
子供二人がソフトバレーボールを投げ合って遊んでいる、通称北公園。その二人の姿を眺めながら、刹華と例の女子中学生は横に長い石のベンチに座っていた。微妙な距離を置いて。
「……安曇さんの知り合いだったんですね。びっくりしましたよ」
最初の言葉は中学生が発した。
「そりゃこっちの台詞だ」
なんて気不味い再会なのだろうかと、刹華は溜息をつく。
「あの……この間は本当にすいませんでした。あの時は私、全然冷静になれてなくて……」
盛大に遅れた中学生の謝罪は、申し訳無いという感情に包まれていた。
「……それはいいけど、お前の名前はなんなんだよ」
「あっ! ご、ごめんなさい!
何かしようとする度に謝っている華珠に、刹華まで申し訳無くなってきた。
「あたしは鬼ヶ島刹華だ。別に、そんなに構えるような相手じゃねえよ」
「えっと、その……本当に、すいませんでした!」
刹華には、この手のタイプの人間と接した事が無かった。故に、どうして謝ってばかりなのかが理解出来ない。
「私、本当に臆病で……あの夜も、鬼ヶ島さんが喧嘩してるのを見てただけで、何も出来なくて。写真撮っただけで……でも、傷ついている人がいるのに何も出来ないのが嫌で、貴方を必死に探して……それで、あんな馬鹿なことを……」
珠珠の泣きそうな声は、刹華にとっても堪えるものだった。
「取り返しのつかないことをしたのは分かっています。だから、今朝貴方を見つけた時も、なんとお詫びすればいいのか分からなくて逃げてしまって、その……」
「別に、気にすんなよ。あたしは気にしないから」
刹華の言葉に、珠珠は涙が溢れそうな目を丸くした。
「確かに多少めんどいことはあったけど、別にあたしは気にしてねえし。それより、お前が申し訳無さそうにしてる方があたしには堪える」
自分の行動を咎められた珠珠は、少しだけ表情が強張る。
刹華は言葉を続ける。伝えたいことを伝える為に。
「あとさ、お前はもう臆病なんかじゃねえよ。危険人物をわざわざ探し出して、自分でどうにかしようとしたんだ。やり方がマズかったとしても、その正義感だけは大したもんだと思う。それは否定すんな」
ふと、こんなことを誰かに言うような人間だっただろうかと、刹華は自分に疑問を抱いた。
人間性の変化か、ただの自己正当化か。
「……ありがとうございます。今はまだ素直に受け入れられませんけど、ちゃんと呑み込めるように努力してみます」
目元を拭いながら礼を言う珠珠を見て、思うところがあった。
「……お前は、真面目だな」
自分が受け止められない言葉を、珠珠は素直に受け止めようとしている。刹華の目には、それが眩しく見えた。
沁みるような痛みが、刹華の中に確かに存在した。
五時。見守りの仕事をこなした二人は、遊び終えたマコトと幸織を連れて公園を後にする。珠珠との和解の後に雑談をしたことで、刹華は彼女と少しだけ親しくなった。他にも、遊んでいたマコトからドッヂボールに誘われ参戦することにもなった。結局、二人同士の試合では戦力差の偏りが酷いと指摘され、刹華対他三人のチームで戦うことになってしまった。人数差はハンディキャップにならないという話を聞いたことがある刹華だったが、野暮なことは言わずに加減して戦った。
日が長くなったので、帰り道はまだ明るい。年少二人が楽しそうに前を歩いているのを見守りながら、年長二人はゆっくり後を追う。
「今日は、本当にありがとうございました。鬼ヶ島さんとゆっくり話せて、本当によかったです」
珠珠は穏やかに笑いながら、刹華にお礼を言う。
「やめろ。別に呼び捨てでいいし、礼なんていらねえ」
刹華が切り捨てるように吐いた言葉に、珠珠はそこそこの勢いで食い付いた。
「……お言葉ですけど、あんまり人を突き放すようなことを言わない方がいいと思いますよ。本当は優しい人なのに、勘違いされますから」
予想していなかった珠珠の反応に、刹華は少したじろぐ。
「……お前、本当は臆病でも何でもないだろ」
「臆病ですよ。今日一日で、鬼ヶ島さんを
「お前が人を見る目がないのは分かったよ」
溜息をついた刹華は、隣でどうでも良さそうなことを喚いている珠珠を無視して、数メートル前へと視線を上げた。
マコトと幸織。今日一日眺めていた限りでは、幸織がマコトに危害を加えかねないシーンは見られなかった。むしろ、幸織の方がマコトの投げるボールを取れずに的になっていた気がしないでもない位だ。
「……幸織ちゃん、レッダーなんですよね」
珠珠は喚くのをやめて、刹華に小声で話しかける。
「……まあ。訳ありっぽい感じのレッダーだったな」
「訳ありっぽいって、どんな風に?」
「少し、危なっかしい感じに見えた。あたしが最初に出会った時は、暴走してて自分の意思で動いてる感じがしなかったな」
「暴走って……マジにやべぇやつじゃないですか?」
「ただ、それもあの時だけかもしれないしな」
自分も含めて、ここにいる三人がレッダー。それを理由に、腫物に触るような姿勢をとりたくはない。それが刹華の想いだった。
「うーん。でも、喋れないってのはやっぱ不便だよなー。俺が教えよっか?」
前方の会話が二人の耳に入る。マコトの提案に、幸織は無言で頷いた。
「よっしゃ! 明日から毎日教えに行くからな! 喋れるようになるまで特訓だ!」
はしゃいでいるマコトを見ながら、良好な関係が築けるのであれば問題ないかと安堵した。刹華も、珠珠も。
それがいけなかった。
マコトの腕から、さっきまで遊んでいたボールが転がり落ちる。それが歩道から車道へと転がり、マコトが咄嗟に追いかける。ボールを追いかけることくらい、後ろの二人に予測出来なかったことではない。それどころか、白いワゴン車が向かってきていることまで見えていた。ただ、二人揃って反応が致命的に遅れてしまった。その現状を、時は待ってくれはしない。
白いワゴン車は、クラクションを鳴らしながら走り去っていった。残されたのは、無傷のマコトと、蠍の尾が生えた幸織。可愛らしいワンピースの背中から服を突き破り、悍ましく鋭利で太い蠍の尾が生えていた。その蠍の尾が、咄嗟に車道にいたマコトの身体を薙ぎ払うように車道まで引き戻したのを、刹華と珠珠は見ていた。
幸織は我に返ると、すぐに尾を引っ込める。しかし、マコトの目には確実にその光景が焼き付いている。マコトは、震えながら立ち上がる。
「幸織、お前……なんなんだよ、それ……」
普通の人間は、背中から蠍の尾など生えてこない。人はそれを化け物と呼ぶ。そして、それを人として扱わない。幸織とマコトが仲良く遊べる関係も、マコトに言葉を教えてもらう約束も、全部壊れてしまった。幸織もそれを理解しているようで、悔恨の情が滲み出ている。
仕方なかった。刹華は、珠珠を含めてもこのメンバーの中で一番冷静であるのが自分だと悟り、仕方なかったと結論付け、二人に声をかけようとした。しかし、かけるべき言葉がなかなか見つからない。この場を上手く収める為の言葉。或いは、上手く収められずとも二人の傷を浅くする為の言葉。自分がレッダーだと知られた時を参考にしようにも、何の参考にもならない。
マコトはふらつく足取りで、幸織に近づく。幸織は数歩後退りしたが、すぐにマコトに肩を摑まれてしまった。そして、
「めっちゃかっこいいな!」
マコトは幸織を賞賛した。当然、それは誰も予想していない行動だった。
「なんだよあの尻尾! レッダーだっけ? ニュースで見たぜ! なんで自慢しねぇんだよそんなにかっけえのに!」
一同の驚きを他所に、興奮するマコトは困惑する珠珠に詰め寄る。
「えっ? さっきので戦ったり悪い奴をやっつけたりしてんのか? すっげえじゃん! どうやって出したんだ?」
こんな予想外の連鎖に対して、最初に適応したのは意外にも珠珠だった。
「……こーら。幸織ちゃん困ってるだろ。ちょっとは落ち着きな」
珠珠は自分が着ていたカーディガンを幸織に羽織らせながら、マコトを嗜める。
「えー? だってすげえじゃんか! タマねーちゃんは知ってたのかよ?」
「あ、それは……えーっと……」
珠珠が返答に困っている様子だったので、刹華は割って入ることにした。
「そういう奴もいるってだけだ。人にはあんまり聞かれたくないことだってあるだろ」
「そんなもんなのか? かっこいいのになあ……」
マコトは不満そうな顔をするが、刹華は構わなかった。
「ほら、帰るぞ。もう飛び出したりするんじゃねえぞ」
「……へーい」
渋々、マコトは同意の姿勢を見せる。
「ま、いっか。でも、いつか気が向いたら教えてくれよ」
幸織は少し躊躇ったが、恐る恐る頷いた。
「それと、ありがとな。助けてくれて」
四人は、再び帰り道を歩き始める。決して、それは暗い道ではなかった。
「ほお、やるじゃん幸織。よくやった」
マコトと珠珠が帰った後、店を閉めた後、刹華は今日のことを店内で安曇に報告した。
「ただ、あんまりその力を使うなよ。面倒なことになりかねんからな」
安曇に頭を撫でられる幸織は、少しだけ嬉しそうだった。
「しかし、そうか。試したことはなかったが、幸織はちゃんと力を制御出来るのか。だとすると、暴走したのは外的要因か。面倒な連中がいるのかもしれんな……」
幸織は不穏な話題も気にすることなく、住居の方へと消えていった。
「咄嗟にあんなこと出来るなんて、幼いのにすごい判断力ですよね」
「あいつの瞬発力は大したもんだよ。色々と難はあるが、精神面が強くなりさえすれば、もう暴走もしないだろうな」
精神面。その課題は刹華も抱えている。
もっと強ければ、あたしも前に進めるのだろうか。
「しかし、マコトもやるじゃねえか。あいつが大きくなってもあの調子なら、幸織を嫁に出すのも悪くねえな」
安曇はケラケラと笑っていたが、刹華はいまいち笑えなかった。笑えない理由が、刹華の中にあった。
「やっぱ子供ってのはすげぇよ。可能性に満ち溢れてて。あいつらの可能性を広げて、後悔させないように選ばせてやるのが、あたし達大人の役割なんだろうな」
「……かもしれませんね」
あたしは大人、なのだろうか。ふと、刹華の頭にそんな疑問が過った。誰かが「半分大人で半分子供」と言っていたことを思い出した。
子供は嫌いだ。それはきっと、あたしが子供側にいるからだ。
大人になれる気が全くしない。半分も大人になった気がしなかった。
「……先生。ちょっと、話を聞いて貰えませんか」
二人になった今なら話せそうな気がした刹華は、思い切って打ち明けることにした。何があったのか、全て。
「あ? 悩みか? そういうのは大抵前見りゃ答えはあるんだよ。ちゃんと前見ろ」
「……それが出来ないから、困ってるんですよ」
安曇の軽薄な態度に、刹華は思わず少しだけ感情的になってしまった。いつもよりも強い音を発した刹華を、安曇はじっと見ていた。驚くでもなく、威圧するでもなく、ただ見定めるかのように。
やがて、刹華が感情的になってしまったことを後悔し始めた頃、安曇は笑った。
「なあ、刹華。ちょっとだけ遊ぼうぜ」
玩具屋ふりーだむ裏手。夕日が視界を赤く染め始めた頃、そのゲームは始まる。
「スポーツチャンバラ。お前が突っかかって来てから、随分やったよな。お前がへばるまで、何回も何回も」
発泡ウレタン製の剣、というよりも竹刀型の棒。ふにゃふにゃと曲がる二本のそれを、手持ち無沙汰とでもいうようにくるくると回す安曇。
「……そうですね。あの頃は、なんとか先生に勝ちたくて、何でもした気がします。何度も、しつこく」
対する刹華は、俯きながら五十センチ程度のウレタン棒を眺めている。小太刀というスタイルが、かつて刹華が試した中で一番しっくりくるものだった。
「勝手に反省すんなよ。あたしは楽しかったんだぜ? それに、前から子供は好きだしな。あたしが礼を言うことはあっても、お前が謝るような真似すんのは許さねえ」
刹華が一番荒れていた頃から、白明学園に入るまで、刹華は安曇に何度もぶつかった。最初は敵意という刃で斬りかかった。安曇に本音をぶつけてからは、安曇は越えるべき宿敵になった。心が折れて屈服してからは、安曇は挫折の象徴になった。挫折はいつしか、尊敬の感情となった。
それまでの歴史で、刹華は何をしても安曇に勝てなかった。どんなに策を練ろうと、卑怯な手を使っても、獣化をしようとも。当然、このスポーツチャンバラでも。
「勝手に諦めてねえか? 絶対に勝てねぇって。敵わねえって。敬意とかいうつまんねえもんで、諦めを誤魔化してねぇか?」
見透かすような言葉を、刹華は肯定することしか出来ない。
「来いよ。お前はそんなに弱かねぇんだ」
刹華は無言で一礼し、小太刀を構えた。最初の挫折に立ち向かう為に。
「……お前が虐められるホントの理由、多分火事だのレッダーだのじゃねえよ」
虚を突かれたことを覚えている。
「お前が弱いからだよ。立場が弱いから義父母が調子に乗る。虐めたらビービー鳴くから同級生が面白がる。ははっ、全部自分のせいじゃねえかよ」
あたしは頭にきて、思わずあの人に殴りかかった。結果はそれまでと同じく、虚しく空を斬っただけ。
「強くなれよ。強くなれば、虐められることはない。虐められても、それはただの僻みだと笑えるようになる。お前は強くなれるさ。強くなれるまで、あたしが面倒見たっていい」
頭に血が上ったあたしは、半端な獣化を行いながら怒りに任せて何度も殴りかかる。ただし、何度もかわされ捌かれ、最後は脚を払われ、顔を地面にぶつける羽目になる。
「……ただ、強いってのはそういうことじゃねえんだよ」
その時、呟くように言ったあの人の言葉を、今でも時々思い出す。
「あずみ! 今日こそ泣くまで殴ってやる!」
商店街近くのあの人の実家に現れるようになったあたしは、あの日、正面から啖呵を切っていた。悔しさからくる八つ当たりは、それから暫く続くことになる。
「何度も言ってるけど、あたしは喧嘩はしねえ主義なんだよ。それに、一方的な暴力は喧嘩じゃなくて虐めだ。趣味じゃねえんだ。つまんねえだろ?」
「逃げるのか! 負けるのが怖いのか!」
そんな挑発にもならない何かを、あの人は笑った。
「だからよ。ルールを決めようぜ。ルールがあれば、お前にも少しは勝ち目があるだろ。負けるつもりはねえけどな」
玄関前の傘立てから取り出したのは、発泡ウレタン製の柔らかい棒が三本。
「チャンバラしようぜ。相手の剣に当たったら負け。それなら付き合ってやるよ」
三本の内の一本は、あたしに投げて寄越された。
「なんでお前が二本なんだよ! ズルいだろ!」
「あたしはこの戦い方が好きなんだよ。お前にもう一本使わせてやってもいいけど、多分やりにくいと思うぜ? それとも、単純に手加減が欲しいのか」
「なっ、な訳無えだろ! お前なんか一本で十分だ!」
「元気がいいねえ。ま、かかってきな」
初めてのスポーツチャンバラは、そんな始まりだった。
あの人の実家に家出をするようになって、時間を見つけてはスポーツチャンバラを始め、他のゲームでも勝負を挑むようになっていた。
「勝てねえ! なんでだよ!」
あたしは、チャンバラに使っていた棒を地面に叩きつけた。
獣化を使おうと勝てず、不意討ちは全て失敗に終わり、反則技を使おうとするとルール外の暴力に平伏すことになった。あたしは、相変わらず何をしても勝てなかった。それまでのあたしが常勝だったということではないが、何をやっても全く勝てないなんてことは生まれて初めての経験だった。
「無駄な動きが多過ぎるんだよ。勿体ねえ。ポテンシャル高い癖に、そういうとこに学びがねえんだよなぁ……」
「うるせえ! あたしを馬鹿みたいに言うな!」
「へーへー。ま、勿体無いってのは本心だけどな」
地面に倒れ蒼空を仰ぎ見るも、あの人に勝つ方法は書かれていない。
強くなりたい。あたしの中にあるのは、その気持ち一つだけだった。
「……なあ。もし、あんたがあたしに戦い方を教えてくれたら、あたしはもっと強くなれるのか?」
気がつくとあたしは、そんなことを口にしていた。
「なれねえな」
「……なんでだよ」
「お前の背負っちまった弱さは、その程度でどうにかなるもんじゃねえよ」
馬鹿にするような風でもなく、あの人はあたしの横に座りながら言った。
「だから、色んなことを教えてやる。強くなる為に。強くなるまで。もし、望むならな」
穏やかな言葉だった。
「……っていうか、なんで強くなりてえんだよ」
「あんたに勝ちたい」
「シンプルで悪くねえけど、そりゃ無理だな。あたしに勝てる奴なんてこの世に存在しねえ」
「……どんな自信だ。やってみなきゃ分からないだろ」
あの人は溜息をついた。ただ、穏やかな姿勢は変わらなかった。
「いいぜ。あたしは歓迎する。デカい宿敵を倒そうぜ」
差し出された手を、あたしは掴んだ。
中学に入ってからも、あの人から様々なことを教わった。あの人の実家は寺で、そこの広間でやっている拳法を少し齧ったり、近くの保育園にボランティアに行ったりもした。ボランティアについては、あたしは戸惑ってばかりだったのを覚えている。
年上の人に敬語を使い始めた同級生を見て、内心違和感を覚えていたあたしだったけど、気が付くとあたしも敬語を使っていた。たった一人の相手にだけ。それは、あたしの中では例外のような存在だった。当初は大変気持ち悪がられたが、程無くして受け入れてくれた。
三年の夏、稽古の休憩中の会話だった。
「初めて会った時より、だいぶマシになってきたな」
ビニール袋に入ったアイスキャンディを二つ持ってきた彼女は、片方をあたしに投げて寄越した。
「……ありがとうございます」
受け取ったアイスキャンディもありがたかったが、何より褒められたことが嬉しかった。
「最初は周りに歪められてたからなぁ。今はだいぶ真っ直ぐになってきた。拳も、心も」
真っ直ぐなのかは分からなかったけど、自分でも心がだいぶ落ち着いてきたと思う。
「そういえばお前、高校行かねえの?」
広間に座り、桃色のアイスキャンディを気怠く舐めながら、あの人は私に聞いた。
「行けないですね。勉強も出来ないし、そもそも学費を払って貰えないし」
ソーダ味のアイスキャンディはあたしに噛み砕かれ、口の中で溶けていく。
「そうじゃねえ。お前がどう思ってるかだよ」
最初は意味が分からなかった。
「……行った方が良いと思ってます」
「じゃあ、行けるように努力するのが筋だろ。勉強できてねえなら出来るようになるまでだ。喧嘩の練習してる場合じゃねえよな。あたしが教えてやる」
突然立ち上がってあたしの腕を引っぱり始めたあの人に、かなり困惑した。
「本気で言ってるんですか? あたし本当に勉強駄目だし、お金の話がどうしようもないじゃないですか」
「金なんかどうにでもしてやる。それより、一朝一夕でどうにもならねえ学問の方が優先だ。高校か……あんまり半端なとこに行っても仕方ねえし、白明くらい目指しとくか」
「白明って……白明学園ですか? 無理ですよ! めちゃくちゃ頭悪いんですよあたし!」
白明学園は、近くの高校で上から数えた方が早いお嬢様学校だった。
「最初から無理って決めつけんな。お前なら出来る。あたしを信じろ」
この頃には、あたしはあの人にあまり口応えをしなくなっていた。それからというもの、あたしはあの人の実家に通い続けて勉強をすることになる。ゼロからのスタート、残された時間は約半年。こんなに必死に勉強したのは、後にも先にもこれっきりにしたいという認識は、一生変わらないと思った。
入学式。受験勉強で燃え尽きたあたしでも、努力が実るというのは嬉しいものだった。合格したという事実そのものよりも、あの人が一緒に喜んでくれるのが本当に嬉しかった。
「ま、頑張ったからな。精一杯学生生活をエンジョイしてこいよ」
朝、一人であの人の実家に挨拶に行くと、ジャージ姿で応対してくれた。
「勉強もお金も、本当にありがとうございました。お金は時間がかかっても絶対返しますので」
「株で当てたあぶく銭だ。気にすんな。気にしたらあたしがキレるぞ」
そんな冗談みたいな稼ぎ方で、あの人は商店街に自分の店まで構える予定らしいので、苦笑いしか出なかった。
「……本当に感謝してもしきれないです。あたしは、安曇さんのことを先生みたいに思ってます」
「は。中学校まで先生舐め腐ってたお前にとって、先生ってなんなんだよ」
「茶化さないでください。本当に感謝しているんですから。勝手に先生って呼びますからね」
「へーへー。こっ恥ずかしいったらねえなあ」
一陣の風が吹き、桜の花びらが舞った。寮に入ることで、これから先生と会う機会が減る。そう思うと、感極まって涙が零れそうになった。
「……先生。本当にありがとうございました」
涙を誤魔化す為に、あたしは深々と一礼した。
「ああ。たまには顔見せに来いよ」
涙が零れ落ちる前に、あたしは新しい学校に向かうことにした。
それから、程なくして気がついてしまった。あたしには、次の目標がないのだと。やりたいことが無いのだと。我武者羅に走り続ける過程で、倒すべき宿敵はいなくなってしまった。私は空っぽなのだと、自覚してしまった。
最後に残ったそこそこに高い成績も、底を突くのは早かった。
柔らかい棒が身体に当たる感触が何度目なのか、刹華には思い出せない。夕日など、とっくに見えなくなっていた。
「……まだやるんだろ。お前はまだ勝ってねえ」
「はい」
自然と出る返事に迷いがないことを、刹華自身も不思議に思っていた。
安曇の剣は、鈍ってなどいなかった。何度やっても、刹華の攻撃は捌かれる。二刀流の小太刀は捌く為にあると、刹華も知ってはいる。だが、安曇の小太刀により突かれた回数も少なくない。長剣によりリーチ差が生まれ、小太刀が振りの大きさを補う。
実際の刀と違い、このスポーツでは剣が曲がる為、受けるのが難しい。故に、フェンシングのような試合になりがちである。リーチ差は致命的だ。その上、リーチ差は長身の安曇の長い腕によって広がることになる。それでも何故か、小太刀が一番勝気があると刹華は思っていた。
「相変わらず、お前は真っ直ぐだな。良くも悪くも」
仕切り直しの際に安曇が口にした言葉は、かつて聞いた覚えのある言葉だった。その時は、慣れない攻め方を一通り試した挙句にそれらを全部潰され、刹華の心が折れてしまった。
自分には何が出来るのか。勝つ為に何が出来るのか。刹華は遠い間合いで構えて考える。そして間もなく、考えることを終えた。
いつしか、始めの合図は不要になっていた。
刹華は、突然走り始めた。脚だけ獣化することで、その速度は通常の人間のものを優に超える。当然、安曇はその動きに反応し、迎え撃つ為に長剣を前に構える。
そして、刹華は跳んだ。
長剣の間合い外からの大跳躍は、安曇の虚を衝く。間もなく着地した刹華の手には、小太刀の先が何かにぶつかった感触が残っていた。安曇の頭上をすれ違う際に、小太刀の刃は安曇の肩を捉えていた。
勝ったのだ。刹華は通常では行われない頭上からの一閃で、勝利をもぎ取った。
「ようやく、負けちまった。今日はめでてぇな」
安曇はゆっくりと振り返り、穏やかな笑顔で刹華の勝利を讃えた。
勝利の実感は安心感として、ほんの少しだけ遅れてやってきた。
「……ありがとう、ございました」
力が抜けてしまい、刹華は両の膝をついてしまった。
「優勝者、話があるんだったな。あたしが聞いてやるよ」
安曇は、両手に持っていた棒を放り投げ、刹華に目の高さを合わせた。
忘れた訳ではなかった。
「……はい」
懺悔するような想いだった。日が暮れる前に話そうとした話を、刹華は頭の中で組み立てる。
「この前、指名手配犯を捕まえたんです」
安曇は、ポケットに手を入れて聞いている。
「その指名手配犯が、本当は冤罪だって、逮捕される寸前に分かったんです。その人は、この前自殺しました……あたしが、追い詰めて……殺したも同然じゃないですか……」
惨めだった。こんなに良くしてくれる先生に、なんでこんな酷いことを話さなければならないのかと、刹華は自分を責めた。責めながら、暗闇の核心を吐き出した。
「……人殺しは、生きていても良いんでしょうか」
醜悪な問いを、刹華は恩師にぶつけた。
それに対して、恩師は刹華の頭を掴んで応えた。
「当然だろ。むしろ、生きなきゃならねえ」
恩師は真剣な表情で続ける。
「お前が人殺しだとは思わねえ。仮に人殺しだとするなら、それでもいい。なら、殺した奴の分まで生きなきゃなんねぇだろうが。生きなきゃ償いなど出来やしねぇ。人を殺して生きることをやめるのは、間違い無く罪を償うことからの逃げだ。甘えんなよ」
厳しい口調だった。考えたこともない死生観だった。
「あたしは……弱い人間です。いつか、いつかきっと、この重さに耐えられなくなって、それで……」
刹華は、この悲痛な声で何を話すべきなのか分からなくなっていた。
恩師は、そんな刹華に溜息をついた。
「……そういえば、丁度七年前の今日か。お前とあたしが出会ったのは。それから、あたしに挑み続けて七年。初勝利まで、本当に長かったな」
目を瞑って、安曇は懐かしむように微笑んだ。
「安心しろ。お前は弱くなんかねえよ。このあたしに勝つまで挑んできた馬鹿は、お前が初めてだ。それは、誤魔化しようもなくお前の強さだ。お前の強さがもぎ取った、お前の勝利だ」
涙を堪えることは、もう不可能だった。
「それに、お前にはもう友達がいる。なんなら、あたしだっている。泣いたって人殺したって構いやしねえけど、そいつらを心配させんなよ。ルームメイトの子なんか、お前が凹んでるせいで、道連れにしたことを後悔してたぞ」
自分の感情が何と表現されるものなのか、刹華はよく分からなかった。
「生から逃げんな」
ただ、感謝していた。
「……ありがとう……ございます」
暫く、涙が止まることはなかった。
「ちゃんと胸張って生きろよ、刹華」
傷が癒えたとは言えなかったが、やっと前を向けそうな気がした。
すっかり日も暮れてしまった頃、刹華はようやく自室の前、正確には自室の窓の前に立っていた。これは、寮の門限を過ぎている為である。
安曇が寮に来た時に対応したのが羽月で、その時に安曇は羽月から一連の話を聞いたらしい。「刹華を元気にしてから返す」と断言しておいたと安曇から聞かされた時は、刹華もだいぶ複雑な顔をしてしまった。
ともあれ、心配させる訳にはいかないので、刹華は両頰を叩いて気合を入れた。私物の入った紙袋はともかく、安曇から貰った肉じゃが入りのビニール袋がひっくり返らないように、少し軽めに。こんな風に気合を入れるのが有効なのか、初めて行う事なので分からない。分からないまま、いつも通りの振る舞いを頭の中で五回程度シミュレーションし、刹華は窓をノックした。間もなくカーテンと窓が開き、羽月が現れた。
「悪い。心配かけたな」
シミュレーション通りに、羽月に謝る刹華。羽月は少し不機嫌そうだった。
「遅い。窓の前で十分くらい迷ってたでしょ」
「……見てたのかよ」
「そんな気がしてカマかけただけだよ」
「……何度言ったか覚えてねえけど、お前ほんといい性格してるよな」
刹華は窓枠を乗り越える際に、エンジニアブーツを脱いでから部屋に入った。
「篝坂さんに挨拶したんだけど、強烈な人だったね。あまり見ないタイプだと思う」
「あんな人がゴロゴロいたら、間違い無く生態系がぶっ壊れるだろ……あと、あの人から肉じゃが貰ってきたぞ」
「ほんとに? ちょうど食べたいなって思ってたんだよ。お礼の連絡しとくね」
羽月が携帯電話を取り出したのを見て、刹華は気づいたことがあった。
「……先生の連絡先、知ってるのか?」
「うん。会った時に連絡先交換したよ。教え子が迷惑かけたら叱りに来るから、その時はよろしくって言ってた」
「お前ら……」
同居人が更に厄介な存在になったことに、刹華は深い溜息をついた。
羽月はその様子を見ながら、言い忘れていた言葉を口にする。穏やかに。
「おかえり、刹華」
刹華も、少しだけ違ういつも通りが、少しだけ心地よかった。
「ああ。ただいま」
――青暦二四三六年
カクレシマハイエナ、発見直後から少数個体であったが、最後の個体が保護施設で死亡。
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