19. Into the past
玩具屋ふりーだむ。安曇の自宅と併設されているその店舗に入る為に、店の裏側にある玄関をくぐる二人。あちこちに物が置かれた廊下の向こうから、歩幅の小さい足音が向かってきた。
「おう
幸織。そう呼ばれた小学生くらいの少女は、いつかの夜に暴走していたレッダーだった。幸織は驚いているようだったが、無言のまま。機能停止したかのように固まってしまった。
「……元気か?」
恐る恐る刹華が声をかけると、幸織は無言のまま頷いた。花柄のワンピースは、あの時の禍々しさを感じさせない位に可愛らしいと、ファッションに無頓着な刹華ですら思った。
「幸織、喋れねえんだよ。医者に診て貰ったけど、声帯は問題なかった。話し方が分かってねえんだとよ」
まともな教育を受けてなかったのかもな。と続けて、安曇は靴を脱ぎ捨て、幸織の頭を撫でた。
「先生が面倒を見てるんですか?」
「お前が連れてきたんだろうが……なんやかんやあって、今はあたしの養子だ。旦那より先に子供が出来るとはねえ」
「……すいません。そんなつもりはなかったんですけど……」
刹華は過去の自分の行動に申し訳無くなった。
「謝んなよ。幸織が萎縮するだろうが。それに、子供は好きだから構わねえよ」
奥へと歩いていく安曇の背中を、幸織は急ぎ足で追いかける。二人の後ろ姿を追いながら、刹華は安曇が前に話していたことを思い出した。
『子供は良い。可能性に満ち満ちてる』
安曇の実家がお寺だと聞いていた刹華は、時々達観したようなことを言う安曇の一面を思う。
彼女なら、刹華がどうすべきかわかるのではないかと、少しだけ思ってしまった。
「んじゃま、ぼちぼち店開けるか。幸織、おねーちゃんに遊んでもらいな」
突然振られた仕事内容に、刹華は目を丸くした。
「遊ぶって……何したらいいんですか?」
「ん? 流れだよ流れ。最悪、危ないことしないように見ててくれたら構わないぜ。それだけでもだいぶ違うから、よろしくな」
子供ときちんと向き合うようにと安曇に常々言われている刹華は、意図を理解し了承した。
店舗の隣に位置する和室まで辿り着くと、幸織は安曇の後ろを追跡するのをやめ、腰を下ろした。安曇が店舗の方に消えて行くのを見送ると、刹華も幸織の隣に座った。
日頃無口な刹華と、言葉を話せない幸織。当然、その先にあるのは沈黙に他ならない。幸織はちらちらと刹華の様子を伺いながら、カラーボックスの中から絵本を取り出し、それを畳の上に置いた。
絵本は『いきすぎたひとびと』というタイトル。初めて見るモノトーンの表紙が何処か不穏で、もしかすると幸織が読むべきではないのではと、刹華は不安になる。カラーボックスには彼女の年齢に相応しそうな本が他にもいくらか収納されている。他の本を勧めるべきかと悩んでいると、幸織は構わず読み始めてしまった。
そもそも、刹華が幸織くらいの頃に読んでいた本はどんなものだったかと考える。幸織は小学校中学年くらいだろうかと考えたところで、心がずきりと軋んだ。
小学三年生の初夏、刹華は火事に巻き込まれ、家族を亡くし、そして親戚の安曇と出会った。あの時安曇がいなければ、今の自分は存在していないと刹華は思っている。あの頃、安曇は大学を卒業して間もなかったと聞く。五年後、あの時の安曇のようになれる気がしない刹華は、自分の未熟さを想った。
ふと気がつくと、Tシャツの脇腹辺りを引っ張られていた。刹華が振り向くと、幸織は何かを言いたげな表情で絵本を差し出してきた。
「……もしかして、読んで欲しいのか?」
幸織は頷く。言葉を聞いて理解してはいるが、書かれた文字は読めないのだと、刹華は認識した。
「まあ、いいけど……でも、この本で良いのか? 他にも面白い本があるだろ」
幸織は首を横に振りながら、絵本を更に押し出してくる。刹華は少し解釈に戸惑ったが、恐らくこの本が良いのだろうと、畳の上に置いたまま表紙を開いた。
「ええっと……そのまちには、しんせつなひとがたくさんいた。しんせつなひとたちは……」
教師に見放されていたお陰で、刹華にとって音読という行為は慣れない事だった。台詞は棒読み、読み間違いも決して少なくはない。それでも、幸織は刹華の横について絵本を懸命に覗き込んでいた。これは彼女にとって文字を読む練習なのかもしれないと思った刹華は、読んでいる部分を指でなぞることにした。
物語は、一つの街にスポットを当てる形で語られる。親切な人が沢山いるその街で、親切な人々は他人の幸せの為に様々な行動をする。他人の為に街を掃除し、他人の為に挨拶をし、他人の為に仕事をする。他人の為に発明をし、他人の為に人助けをし、他人の為に悪い人を懲らしめる。そうして、この街は発展していく。どんどん、どんどん進んでいく。
絵本は、そこで突然終わった。正確には、突然現れた見開き一ページの空白。その後、見開き一ページに渡る無人の広大な花畑。飛ばしたシーンがあったのではないかと間のページをめくろうとするが、そんなものは存在しない。唐突に、無言のフィナーレを迎えた。
最後の展開があまりに急すぎて、理解が及ばない。なのに、身体の内側からくる寒気を感じる。気味の悪さを感じた刹華は、無意識にほんの少し本から距離をとる。幸織といえば、刹華を気にする様子もなく本を真剣に眺めている。人々が研究室で何かを発明しているシーンを、じっと眺めている。
「この本、好きなのか?」
刹華が尋ねると、幸織は首を横に振る。
「なら読まなくていいだろ……」
幸織はその意見にも首を振る。そして、絵本を眺め続ける。何を考えているのか分からない幸織が、刹華には少しだけ不気味に思えた。
暫く眺めた後、幸織は最初のページへと戻る。街の風景を少し眺め、徐に文字を指でなぞり始めた。
「……つぉのまち……みは、ちんちぇつ……」
そして、ほんの少しだけ音読をしようとしたが、間もなく詰まってしまった。発音が不完全な上、平仮名の『な』が読めないらしい。
「『な』だ」
「ぬあだ」
刹華の指導により『な』が『ぬあだ』と認識されてしまった。これはまずいと、刹華は修正を試みる。
「な! な!」
「ぬあ! ぬあ!」
子供を育てる親御さんの気持ちが分かったような気がした。腰を据えて向き合う必要を感じた為、刹華は気を取り直し、幸織を向いて座りなおした。
「そのまちは、しんせつなひとがたくしゃんいた」
数十分後、幸織は一文だけなんとか読めるようになったが、刹華に溜まった疲労はかなりのものだった。体感では、ボウリングなどよりもよっぽど疲れる作業だった。幸いにも、幸織はその辺りで飽きてしまったようで、最初のフレーズを何度か口にした後、続きを読もうとはしなかった。
その代わりに、先程の研究室のページを開いて、再びそれを眺め始めた。
「……そのページが好きなのか?」
刹華が尋ねてみても、幸織は黙ったまま。無理矢理コミュニケーションを取ろうとするものも違うだろうと見守っていると、幸織がポツリと呟いた。
「……きょーじゅー」
刹華は耳を疑った。
「……幸織、今なんて言った?」
「きょーじゅー」
突然の出来事に、寒気が走った。
「赤い饗獣のことを言ってるのか?」
聞き間違い、或いは言い間違いを願って、刹華は再度問い質す。しかし、幸織は首を縦に振った。
「……嘘だろ」
どうして、『饗獣』という単語を口にしたのか。どうして、この絵を見て『饗獣』と口にしたのか。
不気味な影が潜んでいる。別のことに没頭して紛らわせようとしていた傷が、再び疼く。
「……お前は、どこから来たんだ」
幸織は応えない。ただ、首を傾げるだけ。遠くの喧騒が耳に障るまでに、二人のいる和室は静かだった。
「おじゃましまーす! さおり、遊ぼうぜー!」
不意に近くから聞こえた子供の声に、刹華は我に返る。声のした方角、つまり店舗側から幸織と同程度の年齢と思しき少年が入ってきた。が、少年は刹華を見て、一歩引く。
「……ど、どうも」
わんぱくそうな少年は、刹華に向かって辿々しくお辞儀をした。それを見て、刹華もとりあえずの会釈を返す。
「……あの、さおりちゃんと公園で遊んできてもいい?」
何故自分が聞かれているのかと思ったが、程無くして自分が保護者か番人か位に思われていることを悟った。
「あたしは構わねえけど……」
幸織の様子をちらりと伺うと、彼女は刹華を見ながら頷いた。どうやら彼女としては問題無いらしい。
刹華は考える。幸織の相手をしなくて済むのは助かるが、子供達だけで外に出た時に、もし幸織が獣化して暴れたら不味いのではないかと。幸織は本来大人しい性格のようだが、あの時も暴走していたような状態だった。何が暴走の引き金になるのかさっぱり分からない。しかし、あの状態になると刹華一人に止められるような話でもない。だとすると、今の状況ですらかなり危険なのではないかと今更ながら思うが、だとすると何が正解なのだろうか。そのくらいまで考えたところで、刹華の頭は限界を迎えた。ので、真の保護者にお伺いを立てることにした。
「先生、幸織を子供だけで遊びに行かせて大丈夫なんですか?」
店舗を覗くと、遊びに来た子供達の中に安曇はいた。
「構わねえよ。心配なら、お前もついていけばいいだろ」
子供達とテーブルを囲みながらカードゲームをする安曇は、手札から切ったカードで向かい側の子供を屈服させながら話す。
「てんちょー強すぎるんだよー! 大人気ねえよー!」
「お前だって弱い相手をいじめてんだろうが。手加減して欲しかったら、自分より弱い奴には優しくしろ」
安曇のテーブルを挟んだ教育に、刹華は苦笑いするしかなかった。安曇はゲームとつくものにすこぶる強い。少なくとも、彼女がゲームで負けた姿を刹華は見たことがない。どんなゲームであれ、だ。
それは置いておいて、幸織の件。安曇が良いと言うのだから問題無いのだろうが、それでも刹華は不安だった。一緒についていくべきだと思うものの、幼いとしても二人は男女である。もしそういった関係だった場合、自分がその空間にいるのは邪魔ではなかろうかと。
不安定な時期は二の足を踏みがちなのかもしれない。そんなことには気が付けない刹華は、考え続けても答えを出せなかっただろう。
少なくとも、一人では。要因が増えるまでは。その要因は、玩具屋の入り口を勢い良く開き、息を切らしながら転がり込んできた。
「安曇さん! 遅くなりました! 遅刻してすみませ……」
それは今朝、刹華が交差点の向こう側に見た姿。いつか、刹華に突っかかってきた中学生。
「……ん?」
彼女と刹華は、互いの顔を見て固まってしまった。
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