09. Into the dawn

 刹華がブラックマートから出ると、店の横の喫煙所から声がした。

「おう、コーヒー飲むか。奢りだ」

 ビニール袋を提げたさっきの男は、青いコーヒーの缶を片手で摘むような持ち方で差し出している。刹華は一瞬躊躇い、歩み寄ることなく、

「いらん」

 と返すのだが、

「そうか。だったら捨てるか。俺はコーヒー飲めないからな」

 という返答を聞き、無言で近づき缶を奪い取った。

「結構素直なんだな」

 刹華がプルタブを引いて口をつけるのを確認すると、男は持っていたビニール袋からコーヒーの缶をもう一つ取り出して開けた。

「……警察が嘘ついていいのかよ」

 口に広がる砂糖の甘味を感じながら、ほんの少し苛ついて問い質す。

「警察じゃなかろうと、嘘は出来るだけつくべきじゃない。ただ、俺がそれを飲めないことは本当だ。甘いのは前に飲めなくなっちまってな」

 男はポケットから煙草を一本取り出すと、口に咥える。

「煙草も吸うべきじゃねぇだろ」

 刹華がそう指摘をすると、男は笑った。

「タバコなんて、好きで吸い続けてるヤツの方が少ないだろ。病気みたいなもんだ。臭いかもしれんが、マナーを守る他の喫煙者は虐めないでやってくれ。臭けりゃ離れてもいい」

 そう言われて、刹華は匂いがする前に後退る。

「素直な奴は好きだ。そういう奴が馬鹿を見ないように、俺達は働いてるんだよ」

 素直と言われて、その珍しい評価に刹華は若干戸惑った。

「俺にも君くらいの歳の娘がいる。ピアノが大好きでな、明るい素直な子だった」

 煙草に火を着ける男の姿を見て、刹華は過去形の文末が気になった。

「『だった』って、死んだのか?」

 しかし、その答えはノーだった。

「勝手に殺すなよ。生きてる。明るさを失くしちまっただけだ」

 男は虚空に煙を吐き出した。刹華にはそれが溜息と重なっていたように見えた。

「喧嘩したんだよ。下らない理由だったと思うが、もう何が原因だったか覚えてない。それで娘は、泣きながら家を飛び出しちまった」

 無を眺める男の横顔から、悔恨の情が滲み出ていた。

「次に会ったのは病院だったよ。夜道でレッダーに襲われて、右腕がなくなっちまった。最近この辺で暴れてた奴が、犯人かもしれねぇな」

「……分かんねぇだろ。そいつが娘さんをやったかなんて」

「分かんねえな。ただ、分からねえから確かめたい。この前のが娘をやった奴なのか、そうじゃないのか。レッダーってのは、みんな誰かを傷つけるような奴なのか……」

 違うと言いたかったが、刹華にその権利はなかった。

「……ああ、話が逸れちまったな。だから夜中に歩き回るべきじゃねぇって話だよ。命は大事なもんだ」

「ほっとけよ。あたしにはあたしの大事なもんがある」

 刹華は甘いコーヒーを一気に飲み干し、空缶を近くにあったゴミ箱に投げ込んだ。

「それはいいさ。ただ、君が無事ではなくなった時に、悲しむ人間が必ずいることは覚えておいてくれ。きっとその人は、その時に自分が守れなかったことを死ぬまで悔い続ける。もしかすると、壊れてしまうかもしれない」

 刹華には、目の前にいる男が数分前の印象と比べて同じ人間だとは思えなくなっていた。

 自分が死んで悲しむ人間。そんなものはいないと結論を出しかけたが、片手に収まる程度の顔が思い浮かぶ。悲しむ人、悲しむかもしれない人、霧山辺りは微妙だな、などと。

 ただ、この男はきっと悲しむだろうな。会ったばかりの相手に、刹華はそんな事を思っていた。

 だから、こんなお節介を焼くのだろう。また同じ後悔をしない為に。今も続ける後悔を上塗りしない為に。

「……おっさん、あたしが言えた義理じゃねぇだろうけどさ」

 刹華は、湧き上がる想いに押されて口を開いた。

「自分のこと、許してやってくれないか。あんたは多分悪くねぇよ」

 それは不器用な言葉だった。ただ、それが刹華の精一杯の本音でもあった。

 男は煙草の火を灰皿で揉み消しながら、

「……ありがとう。君は優しいな。ただ、俺はまだそういう気持ちになれそうにない」

 大抵のことが上手くいかないのは分かっていたが、それでも刹華にはこの虚しさが苦痛だった。

「……よし、そろそろ君の友達を探すとするか。友達がいそうな場所の検討はつくか?」

 急に話題を戻され頭がついてこない気がした刹華は、一回深呼吸をして気分を無理矢理切り替えた。

「……わかんねぇよ。もうさっさと帰った方が良いかもしれねぇ」

 刹華は最早、さっさと帰って羽月の小言を聞いてから再出発した方が、時間の節約になるような気がしていた。この男の手をあまり煩わせたくない、という気持ちもあった。

「それでいいのか?まあ、友達も先に帰ってるかもしれないしな……」

 終わりが萎むような言葉に、刹華が何かを言うことはなかった。というのも、二人揃って同じものに目を奪われていたからだ。コンビニに面した道路を、何かが這いずるように蠢いている。ザラリ、ザラリ……と、硬い何かが地面を擦れるような音。その姿は、刹華の目にははっきりと映っていた。

 高さ二メートル程の甲殻、それに巻き込まれるような形でぶら下がっている幼い少女。その姿は、まるで十字架に磔にされた死体のようでもあった。

 不気味な影は、ザラリ、ザラリ、と音をたてながらゆっくり進む。

「……なんだ、アレ」

 男は不穏なそれを警戒しながら、独り言のように呟く。

「レッダー、なのか。しかしあれは……蠍か?」

 細長い多脚に、反り返るような鋭利な尻尾、両脇から伸びるハサミ。攻撃性を感じさせるそれらは、穢れのような感情を刹華の中に生み、距離を縮めることを躊躇わせる。

「……あれ、警察としてはどうするんだよ」

「とりあえずは様子見だな。今のところ、まだ害がない」

 冷静な判断を下す男の顔からは、冷静さが欠けているような印象すら覚える。

 穢れなのか恐怖なのか分からない感情を押し殺し、刹華はゆっくりとそれに近づく。確かに、現状は害がない。それでも、あれから漂う異様さを無視できない。

「おい、やめろ。近づくな」

 もう少し情報が欲しいと思い、男の警告を無視して、刹華はゆっくりゆっくり忍び寄る。

 しかし、その忍び足は無駄に終わる。蠍の脚が路上の空き瓶を蹴り飛ばした。瓶は派手な音と共に砕け散り、その瞬間、吊られた少女が目を見開いた。

「キャアアアァァァァァァァ!」

 それこそ破裂するような少女の鳴き声。それと連動するように、思考を挟む様子もなく暴れる甲殻。その姿は、生き物というよりも小さな災害のようにすら見える。

 やがて、それは二人の方向へと蛇行しながら迫ってくる。刹華は装甲との接触を覚悟し、身体に力を入れて構えた。

 この男を、守らなければ。

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