07. Into the deep blue
キャリーケースは羽月の鼻の先をかすめ、美里を中心に弧を描いた。刹華が咄嗟に羽月を引き倒さなければ、抉るようなスピードで側頭部に直撃していた。
「……おい、なんの真似だ。今の当たったら、タダじゃ済まなかったぞ」
刹華が羽月の前に立ち塞がる形で、美里と対峙する。
「あんたらこそ、自分らが何やろうとしてるか分かってんの? ……分かってないか。だからやるんだもんね」
徐に、美里はキャリーケースを地面に立て、腕から先に力を込めた。
「鬼ヶ島ァ、あんたレッダーなんだってね。じゃあ、手加減要らないよね」
すると、美里の腕と脚が徐々に深い青色へと染まっていく。見るからに湿り気があるような質感、丸みを帯びた指先。それは明らかに常人が持ち得ないものだった。
「お前もレッダーかよ……こっちこそ手加減しねぇぞ」
刹華は両腕を獣化させると、ゆらりと構えた。この時、まだ刹華には気持ちの上での余裕があった。中学生の写真のばら撒きの時のように簡単に片付くと思っていたからだ。
少なくとも、羽月の言葉を聞くまでは。
「刹華! 相手の肌に絶対に触らないで!」
「は? なんでだよ」
刹華は意図を理解出来ず、聞き返す。
「あの青色は、多分警告色! 毒持ってるよ!」
刹華は、憤怒に身を任せてキャリーケースを振りかぶる目の前の相手がどれだけまずい相手なのかを、一拍置いてやっと把握した。
「そんなのありかよ……ッ!」
咄嗟に屈んだ刹華の頭上を銀色の鈍器が掠める。大振りな攻撃だが、身体に触ってはいけないという事実が反撃の手を制止させる。
「おい羽月! これどうするん……」
美里から距離を取って振り返る刹華。ただ、そこに羽月の影はなかった。
「……あの女よぉ」
頭を抱えたくなる気分だったが、生憎そんな余裕は無さそうだった。
「烏丸は、あんたをヤってからだ。順番に、落ち着いて……」
目の前の危険分子が、怒りを纏いながら距離を詰めてくる。どう見ても、そこに落ち着いている様子はなかった。
「あぁ、くそっ……やってやるよッ!」
防戦の中で隙を見つける。その道を選ぶことを刹華は覚悟した。
「死ねやオラァァァァッ!」
危険な紺碧が、迫り来る。
羽月は、ただ逃げた訳ではなかった。冷静に思考を巡らせる為に、一時的に現場を離れたのだ。可能な限り早く解決策を手に入れて、早々に刹華のもとに戻らなければならない。手遅れになる前に。少なくとも、本人はそう思っている。
校舎の隅の方へと駆けていき、無人の特別教室へと転がり込む。閉めた扉に寄りかかると、自然に溜息が漏れた。
「落ち着いて……解答を考える……」
そもそも、なんで美里が突然キレたのか。彼女が私と同じことを考えていたとするのであれば、獲物を横取りされると思ってブチキレるのも納得がいく。
本当か? 自分でいうのもどうかと思うけれど、指名手配犯を捕まえようなんて、普通の神経なら考えない。
一度、美里と接触する寸前の会話を思い出してみる。
『しっかし、本当にやる気かよ。未だに正気の沙汰とは思えねぇぞ』
『思えなくてもやるの。私達は明日の明朝、絶対に勝ち取るの。お金の為だもの』
正気の沙汰ではない、明日の明朝、絶対に勝ち取る、お金の為。これらのキーワードから、指名手配犯を捕まえることを連想することは限りなく不可能に近い。
まさか、勘違いでは。そういうことならば、誤解を解いてしまえば問題は解決する訳で……
「……あの状況だと、話聞きそうにないなぁ」
頭に血が上った美里に、何を言っても無駄な気がする。恐らく、この予想は外れていない。自身がレッダーであるとはいえ、二人相手(しかも片方がレッダーだと知っている)に問答無用で攻撃を加えるような精神状況なのだから、きっと対話は難しい。とすると、一度取り押さえるしかないだろう。
「実力行使、好きじゃないんだけどね」
羽月は小走りで窓際までいくと、ジャケットを脱ぎ捨て、開けた窓から徐に飛び降りた。
一方、刹華は苦戦していた。
単純な戦闘力なら負けていないどころか圧倒的に勝っているのだが、絶対に相手に触れてはいけないとなると話が変わってくる。迂闊に殴ろうとすると、美里の毒に染まった腕が伸びてくる。掴もうとしても同じことで、更には相手が武器を持っている。スーツケースの動きは比較的遅いものの、刹華の腕に比べてリーチが違い過ぎる。おまけに、吸盤のような指で壁や天井に貼り付く動きも混ぜてくるので打撃が非常に見切り辛く、唯一の有効打と考えられるエンジニアブーツでの蹴りも高い天井に貼り付くことで避けられてしまう。避けることに集中しているからこそどうにかいなし続けているが、文字通り手も足も出ない状況が続いていた。
逃げてしまうのが早いのかもしれないが、当然逃げきれる保証など何処にも無く、最悪の場合美里が羽月を追い始める可能性が出てくる。通常の人間がレッダーの相手をするなど、危険極まりない。最悪、命に関わる。
「チョコマカ逃げ回ってんじゃねぇぞ!」
美里の怒声が廊下に響く。
天井から飛び降りながらの鈍器の一撃を、寸前でかわす。潰されれば頭蓋骨くらいなら粉々になるだろうその一撃は、何度かわしても冷や汗ものだった。
美里の激昂は、のらりくらりとした平常時のパーソナリティを完全に変貌させている。タガの外れたレッダーを相手にする行為は、刹華にとってもかなり危険なことであった。
「ぐっ……」
気がつくと、左手に痺れを感じていることに気がつく。いつの間にか、美里の身体に触れてしまっていたらしい。
「……仕方ねぇな」
刹華は思いっきり後ろに飛び退き、美里から距離をとる。助走の為の距離としては若干短いが、毒を受ける覚悟の一撃で美里を沈める作戦に出た。
加速の為の最初の一歩を踏み出した時、刹華は新たな異変に気がつく。脚が縺れ、その場で転倒してしまった。力が思うように入らなくなっている。
「あはっ、烏丸を呼んでくれたら追い討ちかけないであげるんだけどなァ。どうせ、あいつに良いように使われてるだけでしょ?」
不気味に笑う美里がキャリーケースを引き摺りながら一歩一歩近づいて来るのに対して、刹華は腰をついたままゆっくり後ずさる。
それでも、刹華は声を上げなかった。もう助からないと悟りつつも、音を上げる事を拒んだ。
その時だった。
「刹華! 飛び降りて!」
羽月の叫ぶような声がした。声がした場所が妙に近く、空耳だと認識しかけた刹華だったが、美里もその声に反応していることに気がついた。気がついてしまった。
……あいつ、まだ鞭を打つ気か。ここは四階だぞ。
そこから先は、殆ど思考を挟まなかった。美里が声に反応している隙を突いて、刹華は咄嗟に近くに置かれていた消火器を掴み、ピンを抜きレバーを握った。勿論、ホースは美里へと向けて。
勢いのある噴射音と共に、辺りを巻き込みながら美里は消火剤の煙幕に包まれる。十分な量の煙を辺りにぶち撒けると、刹華は縺れる脚のまま窓を開けた。
「ゴホッ、ゴホッ……ってめえ、逃がすかぁッ!」
怒りのボルテージが最高潮な美里の声を背に、刹華は転落に近い形で窓から飛び降りる。
「逃げんじゃねぇぇッ!」
刹華の後を追うように、美里は消火剤で真っ白になりながらも勢い良く窓から飛び出した。キャリーケースと共に。
それが彼女の敗因だった。
突然、美里はキャリーケースが固定されたような感覚を覚えた。片手でキャリーケースにぶら下がる形で咄嗟に指に力を入れた美里だが、そこから先の状況を暫く飲み込めなかった。地面がどんどん遠ざかっているのだ。それも、かなりの速さで。崩れ落ちるように着地した刹華の姿が、どんどん小さくなっていく。
「……なんとか、成功したね」
美里が顔を上げると、そこには羽月がいた。キャリーケースの側面の取っ手を握る羽月の手は、鳥のようなゴツゴツとしたものになっている。そして何より、たくし上げられたシャツの下から生えているのは白い模様の入った黒翼。美里が呆気に取られている間に、二人の高度はどんどんと増していく。
「相談なんだけど、地上に降りて落ち着いて話し合わない? 手を出さないで話し合ってくれるなら、私達も危害は加えないから」
羽月は穏やかな、それでいてはっきりとした口調で美里に交渉を申し出る。美里といえば、混乱しているのかパクパクと口を動かしているだけだった。
「あと、出来たら早い返事がいいかな。霧山さんにとっても。手が疲れてきて、キャリーケースごと落としちゃいそうなんだ」
落ち着き払った羽月の言葉に、美里はかつて感じたことのないような寒気を覚えた。既に二人は、転落すれば例えレッダーであろうとほぼ確実に死亡するような高さに来ている。刹華の影など、もう既に見えなくなっていた。
「……助けて」
震える声で命乞いをする美里を見て、羽月は安堵の溜息を漏らした。
校舎の裏で倒れている刹華の近くに、二人は上空から降りてきた。美里はスーツケースと着地するや否や、力が抜けたらしくヘナヘナと座り込んでしまった。真っ白に汚れたままへたり込む美里の姿を見て、刹華は少しだけ笑ってしまった。
「あの黒い羽根、お前のだったんだな」
羽月はバツの悪そうな顔をしながら、翼を収納した。
「……なんていうか、その場の流れでね」
服の乱れを整えると、ゆらりと美里の方へと向き直る。
「さて、確認なんだけどさ。霧山さんも指名手配犯を追ってるの?」
その問いに対して、美里は意味が分からないようだった。
「えっ? ……ごめん、も一回言って?」
「霧山さんも、指名手配犯を追っかけているんですか?」
少し強めに、はっきりと発音すると。美里はしばらく時が止まったように静止してから、二人の顔を見た。
「……もしかして、ウチの勘違い?」
やっぱりかと、羽月は溜息をつき、刹華は片手で額に手を当てた。
「この度は、本ッッ当に申し訳ございませんでした!」
スイーツビュッフェが美味しいと噂のハピネスシンフォニー。この学生には少し高めな価格帯の飲食店にて、傍目も気にせず土下座をする美里。周囲の視線が集まるお陰で、どちらかといえば羽月と刹華の方が気まずかった。ここに来る前のどこかでシャワーを浴びてキャリーバッグの中にあった私服に着替えたらしく、体中消化剤まみれの惨めな姿ではないのが多少の救いかもしれない。
「ま、まあまあ。誤解も解けたんだし、土下座はやめようよ。刹華の痺れも抜けたみたいだしさ」
羽月は気まずさに耐えられず、美里へのフォローを試みる。
「そう? そう言ってもらえるとありがたいんだけどね。いやー大概なやらかしだわー。今日はピリピリしてたもんなー」
フォローを受けた美里はここぞとばかりに立ち上がり、二人と向かい合う形でどっかりと座った。
「……まさか、転売目的だと間違われて殺されかけるとはな」
頬杖をつく刹華の視線の先には、羽月の携帯電話。画面には今日新しくオープンしたマルサの開店セールの広告。明日の目玉のブランドバッグは、かなり数が絞られているようだ。
「当たり前じゃん? 数が少ないから手に入るか怪しいし、大好きなメーカーだから手に入らないならせめて大事にしてくれる人に買われて欲しいなって思ってたら、転売するみたいなこと言ってる奴がいたんだもん。少なくとも健康で文化的な最低限の明日を失わせるでしょ」
「色々突っ込みたいけど、すごいつっかかりようだよね。あの断片的な会話でそんな風に勘違いするって」
羽月も、流石に呆れが隠せていない。
「セールで並ぶことしか考えてなくてピリピリしてる時に、お金が要るとか明日の明朝とか言ってるの聞いて、しかも片方は暴力沙汰起こすようなレッダーだって知ってんだから、何らかの手段で不正に横取りされるって勘違いしても仕方なくない?」
「あ、ちょっと待て。お前なんで知ってたんだよ。あたしがレッダーだって」
色々あって忘れていた疑問を思い出す刹華。
「ん? ああ、それはこれ。ええっと……これだわ」
美里は携帯電話を弄ると、それを二人に向けてテーブルの上に置いた。
大型掲示板の白明学園スレッド。そこには先日の写真が貼り付けられており、様々なコメントが並んでいた。
『先日の暴行事件の画像だけど、これ二年のKじゃね?』
『ソースは?』
『草。あいつレッダーなのか』
『他のスレで見つけたけど、元が削除されてる。ガチっぽいね』
『ワーレッダーコワイヨー』
頭を抱える刹華に反して、羽月はいつもの様子でスイーツを食べている。
「お、その様子だとはつきんは知ってたの? 黙ってるなんて人が悪いねぇ」
先ほどまでの行いを一切悪びれる様子もなく、美里はおちょくる。
「はつきん言うな。お昼頃見たから、多少は擁護もしておいたよ。こんなの、刹華に伝えてもマイナスしかないでしょ」
小さなケーキを載せたフォーク片手に、画面を下方向へとスライドさせる。
『これ、奥の男が持ってるやつナイフでは?』
『凶暴レッダーKちゃん夜道で憂さ晴らし説』
『ナイフ持ってるならこれ悪いの男の方では』
『スパッツ!』
『ウケる。まあレッダーとか知られてないだけでちょこちょこいるし、騒がれる程でもないでしょ』
『夜遅くに出歩くのが悪い』
羽月の発言の後に有象無象のコメントが書き込まれているが、辛うじて一方的な悪役にはなっていない様子だった。それよりも、レッダーがちょこちょこいるというのは、羽月にとって初耳だった。真偽の程は置いておいて。
あとは、そのお祭り騒ぎの中に、
『Kさん意外と優しい人だから好き』
というのが紛れていて、素行が良くなれば刹華は同性からモテそうだと思ったが、それは黙っておいた。
「ってかさ、そっちの目的もっかい聞いていい?」
美里は羽月を指差しながらニヤついている。
「……指名手配犯を捕まえてお金を得ることだけど?」
「ぷっ……さすがにギャグでしょ。出来るわけ無いじゃん。いざとなった時にリスクも高いし」
「出来る出来ないじゃなくて、必要だからやってるんだよ」
最初は笑っていた美里も、羽月の真剣な顔つきを見て笑うのをやめた。
「……ふうん? ほんとにマジなんだ。ワケアリって目ぇしてる。そういうやつって、だいたいロクな結末に辿り着かないんだけど」
「そうだとしても、私にはお金が必要だから。手段を選んでる暇はないよ」
美里はしばらく腕組みをして、羽月の目を見ていた。羽月にはその意図が全く掴めず、見つめ返す視線も美里の頬辺りに向けられていた。
「んよし、わかった。その指名手配犯の写真見せてよ。横取りしたりしないからさ」
美里が思い立ったようにそんなことを言うので、少し警戒しながらも羽月はポスターの写真を見せた。
「ん。こいつねぇ……よっしゃ分かった。ダチ連中に、見つけたら知らせるように言っとく。横取りしないようにも言っとくからさ」
その返答に虚を突かれた羽月は咄嗟に言葉が出てこなかった。
「ああ、わかるわかる。疑ってんでしょ? 本当に大丈夫かって。勿論無理はしないし、過度な期待はされても返せないけどさ。一応、今日のお詫びってことで。ね?」
ウインクを混ぜて押してくる美里。
「羽月、やっぱこいつ苦手だわ。胡散臭ぇ」
羽月だけに聞こえるように、小声で呟く刹華。しかし、それが聞こえていたらしく、
「大丈夫大丈夫。ウチもあんた苦手だし。お互い様ってやつ?」
と、おちゃらけた返答をする美里。渋い顔をしている刹華を横に、羽月はしばらく考える。
考えて、答えた。
「わかった。お願いするけど、絶対に無理はしないでね」
「承知! 気遣いを忘れない辺り、はつきんは優しいねー。ま、そんな訳よ。ウチら同じレッダーなんだし、仲良くやってこ? あっ、PIPEやってるでしょ? 交換しようぜー」
おちゃらける美里に対して、羽月はPIPEという連絡用アプリで連絡先を教えることにした。連絡先の交換が終わると、美里は携帯電話を刹華に向けて首を傾げる。
「やってねぇよ」
刹華がぶっきらぼうに返しても、美里は全く動じない。
「あー、まあ時々いるよね。せっちんに用がある時ははつきんに言うわ。んじゃ、ウチはそろそろ並ばないとだから。捜索、頑張ってね」
二人分のお食事無料クーポンをテーブルに置いて立ち上がり、キャリーケースを引きずりながら手をひらひらと振る美里。
「あっと、訂正」
と、美里はふいに立ち止まり、振り返った。
「さっき、せっちんのこと苦手っつったけど、それ前の話。今は嫌いじゃないよん。それじゃね」
それだけ言い残すと、美里はガラス扉の向こうへと消えていった。
「……台風みたいな人だね」
羽月は疲れから、背もたれに身を預けながら携帯電話をテーブルに滑らせる。液晶には、鮮やかな青色のカエルが映っていた。
「まあ、飯代が浮いたから良いことにする。お詫びってことらしいし、せいぜい食わせてもらうか」
欲張り気味に甘いものを敷き詰めた皿に、刹華が手を付ける。
「もしかして、葛森さんの話忘れてない?」
「あっ」
二人の視線の先には『食べ残し禁止』と書かれたポップが威圧感を放っていた。
――青暦二四四◯年
グンジョウヤドクガエル、ペットとしての需要により密猟が相次ぎ絶滅。
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