第19話 Route666④

(1)

 

 車から降りたあたしに警官は軽く挨拶すると、すぐに家の前から走り去っていった。心労も含めて酷い疲れでその場に座り込んでしまいたい。そんな衝動に耐えながら中に入り、廊下の電気を点ける。重い足取りでリビングに向かうあたしの耳に、遠くから銃声が数発鳴り響くのが確かに届く。


 虫の報せと言うべき嫌な予感が、胸中で鬱陶しいまでにざわめき立つ。


 不安を打ち消そうとリビングの奥、高さがあたしの腰程の飾り棚の隣にある蓄音機からレコードを流してみる。けれど、気分を変えようとして流した筈のレコードから流れたのは、事もあろうに『暗い日曜日』だった。

 叙情的で美しいながらも不穏で陰鬱な旋律、歌詞の内容(ある日曜日に、亡くなった恋人を想い嘆き悲しむ女が自殺を決意する、というもの)に、こちらの気分までどん底に落とされていく錯覚を覚えてしまう。

 結局、あたしは曲を最後まで聴くことなく、レコードを止めてしまった。


 そうだ、とりあえずシャワーでも浴びてこようか。

 どうして、すぐに思いつかなかったのかと自分に呆れつつ、自室から着替えを取りにいこうと廊下に出たあたしの目に、俄かに信じ難い光景が飛び込んできた。 


 小綺麗に整った顏をぐしゃぐしゃに歪めたロイが、玄関から足早にあたしに近づいてくる。その腕には、全身をブランケットに包まれ、ぐったりと衰弱しているサンディが抱きかかえられていたのだ。


 玄関の鍵はかけてあった筈なのに、どうやって侵入したのか。

 先程の銃声は彼が放ったものなのか。


 次々と湧いては降ってくる疑問は、瀕死のサンディの姿を見た途端全て忘却の彼方に吹き飛ばされていく。


「サンディ!!!!」


 叫ぶよりも早く、あたしはロイに、正確に言えば彼の腕の中のサンディにすかさず駆け寄った。真っ赤な顔したサンディは額だけじゃなく顔中にたらたらと脂汗を流し、ぜぇぜぇと乱れた浅い呼吸を繰り返している。

 どこか身体が痛むのか、苦痛で顔を歪めては小さく呻き声まであげる尋常でない様子に、たちまちあたしの頭のてっぺんにカッと血が上る。


「これはどういうことなんだい?!ねぇ?!サンディに一体何があったんだ!!ちゃんと説明しなよ!!」

 何か言い返してくるかと思いきや、ロイはただただ顔面蒼白となり、今にも泣き出しそうな、頼りなげな表情へと変化していく。

「そんな顔して誤魔化そうたって、そうはいかないよ!!」

 いつになく弱気なロイの姿に、あたしの密かな加虐心が募っていくばかりだ。

「……フランシスさん……。サンディは全身に大火傷を負ってしまって……、瀕死の状態なんだ……。話は必ず聞かせるから……。サンディの手当てを、君にお願いしたくてここに来たんだ……。病院に連れて行けないせいで、今、彼女は死の淵を彷徨っている……。でも、肉親同様の君の手厚い看病を受ければ、もしかしたら奇跡的に回復するかもしれない、と思って……」


 悪戯を見咎められた小さな子供のように、ロイは情けないまでに狼狽えている。

 これが殺人教竣犯かつ脱獄犯でもあり、連続強盗殺人を繰り広げてきた希代の凶悪犯罪者だなんて、一体誰が想像できるだろう。 


「……分かったわ。本当なら、サンディが大火傷を負うのを防げなかったあんたを、一発張り飛ばしてやりたいとこだけど。まずはサンディの手当をしなきゃ……。下手に動かさない方がいいと思うから、サンディはリビングのソファーに寝かせるわ。二階から寝具を持ってくるから、あんたはリビングの飾り棚から薬箱を出しておくれ」


 それだけロイに伝えると、あたしは寝具を取りにさっさと二階へと上がっていった。




(2)


 手当てのためにサンディの衣服を脱がしたあたしは思わず言葉を失った。

 サンディの首から胸、腹、両手足、つまりは全身が――、赤茶けた血糊と真っ黄色い膿で汚れた包帯でぐるぐると巻かれていたからだ。


「……台所の出窓の傍にアロエの鉢植えがあるから、三、四本千切って持ってきて。あぁ、持ってくる前に、鍋で湯を沸かしてよく煮沸しておくれ」

 ロイは幼子のように大きく頷いてみせると、言われるがままに台所へ向かう。

 その間、サンディの汚れた包帯をゆっくりと慎重に取り外していく。

「……いっ、た、い!いたいたい、いたい!!いたいよ―!!!!」


 いくら気を遣いながらそっと包帯を取り外していても、焼け爛れた肌に布がくっついているから、ちょっとでも引っ張られれば苦痛を伴う。当然サンディは身を捩って泣き叫ぶ。

 絹のようにきめ細やかだった白い肌は、ぐじゅぐじゅに潰れた水泡だらけで見る影もない。皮膚の表皮は破壊され、剥き出しになった肉にはところどころに黄色い膿が入り混じって熱を帯びている。 

 唯一幸いだったのは、顔にはほとんど火傷跡が残っていないこと。でも、顔以外の全身が見るも無残な状態に。


 ――サンディはもう、長くないかもしれない――


 警鐘のように頭の中で響く最悪な言葉を振り払おうと、あたしは必死にサンディの火傷跡に化膿止めの軟膏を塗りたくっていく。サンディは傷に薬がひどく染みるせいで大声で泣き叫び続ける。


「サンディ、辛いけど我慢しておくれ。あたしも、あんたが苦しんでいるのを見るのは何よりも辛いんだ……」

 薬を塗り終わった直後、煮沸させたアロエの葉を五本手に、ロイがリビングに戻ってきた。ロイの手からアロエの葉を引っ手繰る。外皮を手早く剥いていき、中の白いゼリー状の果肉を剥き出しにさせる。

「一体何をする気……」

「アロエは火傷治療に効くからね。ただし、ここまで酷いと効果はないかもしれないけど……」


 アロエの外皮を剥くあたしの手の動きを、ロイは訝し気に覗き込んでいる。上流のお坊ちゃんには、この手の民間療法なんて縁がないから珍しいんだろう。

 五本とも外皮を剥くと、サンディの火傷痕に絞った果肉の汁を軽く振りかけていく。サンディは絶えず痛がってみせるが、心を鬼にしてあたしは治療を続けた。


「……で、何がどうなって、サンディはこんな目に遭ったんだい??」


 火傷跡に油紙をあて、清潔で真新しい包帯を巻き直しながら、あたしはロイに尋ねた。全身の苦痛に加え、泣き叫ぶのに疲れたサンディは半分意識をなくしかけている。

 サンディへの治療をただ見守っているだけで、すっかり手持無沙汰だったロイの周辺の空気が一瞬にして変わる。丁度、ロイに背を向けている状態だったので、表情こそ見えないものの、情けない顏だったのがさぞや締まりを見せたことだろう。


 そして、ロイは語り出した――


 アリスタット州の北西に隣接するカマロ州及び、アリスタット州の州境に程近い場所――、カマロ州からアリスタット州へ続く高原地帯で、ロイはサンディを乗せたアーリー・フォードV8のエンジンをフル稼働させて走行中だった。遥か後方には、保安官二名が乗った車が二人の車を追跡している。

 一旦州境を越えてしまえば、とりあえずはカマロ州の警察からの追跡は逃れられる。眼前に迫っているあの橋を渡れば、すぐにでもアリスタット州へ入境できる。


「……でも、橋が修理中で、通行不能だったんだ……」


 気付いたものの、時すでに遅し。猛スピードで車を走らせていたため急停止することもできず、橋に激突。

 ロイは車外へ放り出されたが、サンディはひしゃげた車体と座席の間に挟まれて身動き一つ取れない。そして、引火したガソリンによる爆発が起こり、車は炎上。

 突如訪れた死への恐怖に泣き叫ぶサンディを、ロイは死にもの狂いで何とか救出したが――


「……サンディを助け出している間に、保安官達が僕達に追いついてきて……」


 ロイはサンディを抱えて、燃え盛る車から発せられる煙を利用して姿を隠すと、炎に近づいてきた保安官達に発砲し、殺害。

 保安官の車を奪ってカマロ州を抜け、アリスタット州に入境したところで小さな集落の農家でサンディの手当をしてもらうも、正体がばれて家の主人を殺害。再びサンディを連れて、その家のトラックを盗んで逃走。

 行く先々でサンディの手当てをしてもらうが、その度に恩を仇で返す形で世話になった人々を殺傷する……を、繰り返しながら、この家までやってきたという。


「……あんたねぇ!……」


 ロイが話終えると、あたしは濃緑の瞳を怒りで燃え滾らせて立ち上がり、立ち竦んだままのロイの胸倉に掴みかかった。その時、あたしのスカートの裾をサンディが弱々しい力でそっと掴んできた。サンディは苦痛で歪む空色の瞳で何か訴えかけてくる。あたしは掴んでいたロイのシャツを乱暴に突き放し、再び床に膝をついてサンディの唇に耳を近づける。


「…………フ、ラン…………。喧嘩はやめて…………」

「……っつ!…………わ、分かったよ…………」


 ロイに対する憎悪は全く消えないが、サンディが嫌がることはしたくないからね。色素がくすんでしまったサンディの髪と、綺麗なままの額を優しく撫でてやる。すると、ホッとしたのかサンディの表情が見る見るうちに緩んでいく。

 もう一度だけ額を撫でてやるとサンディは目を閉じてみせた。


「サンディ、あんたは何も気にせず、ゆっくり休みな」

「やっぱり、フランシスさんのところに連れて来て正解だったかな……」

 あたしはロイの言葉を無視して立ち上がると、彼の傍に近づいていく。

 先程殴られ掛けたためか、ロイはあたしからさりげなく距離を取ろうとした。

「……案外そうでもないけどね」


 ロイにだけ聞こえるように小さく言葉を返す。

 意味を察したロイの、萌黄色の瞳に動揺が走る。

 あたしはサンディに聞こえないよう気を配りながら、ロイに、あたしが警察に尋問を受けた事などを全て打ち明けた。


「あたしはあんた達について一切吐かなかったけど、それでも今後、特にこの家周辺の警察の張り込みが前にも増して厳しくなると思う。だから……、悪いけど、あんたにはこの家から今すぐ出て行って欲しい」

「サンディを……、置いて行け、ということ??」

「狭い車内で常に緊張を強いられる極限生活に、重傷を負ったこの子が耐えられると思うのかい??」

「…………」

「それに、さっき聴こえてきた銃声は、あたしを家まで送ってくれた警官の車にあんたが発砲した音なんだろ??だったら、下手したらもう、すぐにでもこの家に警察が押し入ってくるかもしれないよ??」

「でも、そしたら、サンディが……」

「あんたねぇ!もう、こうなっちまったら仕方ないじゃないか!大体誰のせいでこんな状況になったと思ってるんだ!!あたしだって、サンディが捕まるのは嫌だよ!でも、こんな衰弱した状態で過酷な逃亡生活を送るよりはうんとマシだろ!!例え、一日でもいいから、サンディがより長く生きるにはどうしたらいいのかって考えれば……、分かるだろ?!」


 今度はロイが黙る番だった。

 ロイは唇を捻じ曲げてあたしを軽く睨んでいたが、やがてあたしに背を向ける。


「……フランシスさん。サンディの事……、よろしくお願いします……」

 あらゆる感情を抑えた声でそう言い残すと、ロイは静かにリビングから出て行こうとする。

「……表から出て行くと目立つし、裏口から出なよ……」

 ロイは驚いたようにあたしを振り返る。

「言っとくけど、あんたの心配してる訳じゃない。サンディの為にも……、あんたに死なれちゃ困るからさ」

 ロイはあたしの言葉が余程意外だったのか、数秒程あたしの顔をじっと凝視したまま立ち竦んでいた。

「……ありがとう……」


 ロイはぎこちない笑顔で礼を述べると、廊下の突当たりにある裏口の扉に一人向かっていった。

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