二章 出会ってしまった二人

第5話 出会ってしまった二人①

 恋に落ちる瞬間ってヤツを目撃したことがあるかい??


 見ず知らずの他人でしかなかった男と女が、お互いの目と目が合った瞬間、雷に打たれたような衝撃が走る――、あぁ、あたしなんかじゃ、陳腐でありきたりな例え方しかできないわね……。


 あたしは目の前で見ちまったんだ。一目で激しい恋に落ちた男と女を。

 

 思い返せば、あの二人に破滅を齎すきっかけを神さまから与えられた瞬間でもあったんだけど――









(1)


 一筋の光すらも差し込まない。視界も足元も全く見えない。

 漆黒の色すら最早感じられない暗闇、というより、無の空間をあたしは一人きりで走っていた。ほんの僅かな凹凸すらもない、気味が悪いまでに平坦な地面(地面といっていいのか分からないけど)に違和感を覚えながら。

 ひょっとして、ここは地の底――、冥界と呼ばれる場所なのだろうか、という事は……、とうとうあたしは死んでしまったのか――、否――


 あたしはまだ死んではいない

 あたしはまだ生きている

 あたしはまだ生きているに違いないんだ!


 生きたい。かつて、これ程までに強く切望したことがあっただろうか。

 あたしは無限に続く闇の中、挑むようにつぶらな瞳を大きく見開いて空(くう)をきつく睨み据える。

 突然、真っ暗な世界から眩いばかりの閃光が眼前に拡がった。あたしは腕を顔に押し当て目を瞑る。瞼の裏で、ちかちかと小さな星が忙しなく明滅している。

 光の世界に少しでも早く目を慣らさなきゃ。あたしはもう一度、今度はゆっくりと目を開けていく。


「…………」


 暗闇から一転、明るい――、無機質で真っ白な空間にはあたしと距離を置いて対峙する女が一人。

 のっぽで痩せぎす、ジンジャーブロンドの髪。でも、流行りの膝丈ワンピースを着て、髪も肩上のボブカットに切り揃えている。女は、あたしの視線に気付くと俯かせていた顔を上げた。


「……えっ……」


 化粧で美しく武装されていたが、濃緑の瞳といい、魔女みたいだと揶揄されるごつい鷲鼻といい――、紛れもなく、女はあたし自身だった。

 訳が分からずただ立ち竦むあたしを、もう一人のあたしが見下げるような目で一瞥し、唇の両端を持ち上げてニヤッと笑いかけた。


『さようなら、テイタム』


 もう一人のあたしが、あたしに別れを告げる。

 直後、世界は瞬く間に闇の中に飲み込まれていった。








(2)


 意識を取り戻して最初に見たものは、やけに染みの痕が目立つ茶色い天井板だった。

 視線だけで周囲を見回してみる。天井と同じ素材の板壁と床、あたしから見て左側の壁際に沿って、木製の飾り棚が二つ並んで置かれているだけの、至って簡素な内装の部屋のベッドであたしは寝かされていた。

 現在の自分の状況を把握した途端、あたしの記憶が次々と蘇り始める。


 ロイによってカルディナ山中の銀杏林に捨て置かれたあたしは、夜の間中国道を徒歩で下り続けて――、夜が明けると共に力尽き、昏倒してしまったんだっけ……。


 記憶が蘇ったからか、たちまち倦怠感や疲労、主に下半身が軋むような鈍い痛みがどっと押し寄せ、つい小さく呻き声を上げる。


 それにしても、ここは一体、誰の家なのか――


 茫洋とする意識が正常に戻れば戻る程、言い知れぬ不安が胸中で募り始める。その矢先、静かに部屋の扉が開く音がした。

 水を張った洗面器を手に部屋に入ってきたのは、柔らかい金髪の巻毛を肩で切り揃えた大層小柄な少女だった。


 少女がベッドへと視線を移したのと、あたしが少女に視線を向けたのはほぼ同時。少女はあたしが意識を取り戻したと理解するなり、零れんばかりに大きな空色の瞳を目一杯瞠り、花のように微笑んだ。


「あぁ、やっと目を覚ましてくれたのね!良かったぁ!!」


 少女はベッドの傍まで駆け寄り、小脇に抱えた洗面器をサイドテーブルに置くと、あたしの顔をまじまじと見つめてくる。

 赤ん坊のようにつるりとした白い肌、薔薇色に染まった血色のいい頬、やや童顔の愛らしい顔立ち、ふわりと揺れては輝く金の髪――、本物の天使が舞い降りたのかと錯覚しそうなくらいの美少女だ。

 天使のような少女に見惚れていると、彼女はあたしの痩せこけた頬をそっと撫で――、あたしはぎょっとすることとなる。少女が大きな瞳を潤ませ、今にも涙を流しそうだったからだ。


「お姉さんがこのまま二度と目を覚まさなかったら……、って、何度も考えちゃってたから……。目を覚ましてくれてホッとしたわ……」。

 少女は涙を流すことなく、すぐに笑顔に切り替えてあたしに向き直る。

「あ、紹介が遅れたわね。あたし、サンディ・ハッチャーっていうの。サンディって呼んで」

「あ、あの……、あたしは……」


 テイタム・キャッシュ、と、名乗りかけたあたしだったが、その名前をサンディの前で口に出すことはしなかった。


「……フランシス、わたしの名前はフランシス・キャッシュよ……」


 そう、あたしは咄嗟にフランキーの名をもじり、全く別名を名乗った。


「フランシスっていうのね!じゃあ、これからお姉さんのことを、フラン、って呼んでもいいかしら??」

「もちろん!良いに決まっているわ」


 偽名をすっかり信じ込んだサンディの無邪気さにほんの少しだけ罪悪感が胸に突き刺さったけれど、これでいいんだ、と自分に言い聞かせる。

 テイタム・キャッシュはあの夜、カルディナ山中の銀杏林で死んだけど、生まれ変わってフランシス・キャッシュとなり、サンディ・ハッチャーの前に姿を現したのだ。

 もうフランキーを一人侘しく待ち続けるのも、食堂でラナや店主に無駄に気を遣って働くのも。ママの干渉に神経をすり減らしながら暮らしていくのも。この際全部捨ててしまって新たな人生を送って行こう。

 固い決意を胸に、あたしはベッドから起き上がろうとした。すかさず、サンディがあたしの背中に手を回して支えてくれる。


「ありがとう、サンディ。ところで、確認しておきたいことがいくつかあるの」

 テイタムからフランシスに変わると決めたからか。これまでなら相手が誰であれ、話し掛ける際には必ずどもり癖を発症していたのに、今のあたしは流暢に言葉が口を突いて出てくる。

「ここは一体どこの街で、貴女は何者なのか。わたしは一体どういう経緯をもってして、あんたの元に保護されたのか……、教えて欲しいのよ」






(3)


 以下が、サンディから聞かされた話だった。


 ここは大都市ダグラスに隣接するスウィントンという小さな街。サンディは、ダグラスの中でも官公庁や大聖堂などが集まる中心地のカフェで働く二十歳のウエイトレスだという。

 父親を幼い頃に病気で亡くし、母と上の兄弟達とで支え合いながら生活していたが、他の兄弟達は皆自立して家を出て行き母も昨年他界。時々、兄弟達が様子を見に家に寄ることはあれど、基本は気ままな一人暮らしを満喫しているとか。

 昨日今日と二日間仕事が休みなので、仕事上がりの一昨日の夜から昨日の朝方にかけて友人達とカルディナ山にドライブに出掛けていたところ、二合目辺りの国道で行き倒れているあたしを発見したらしい。


「最初にフランを見つけた時、もしかしたら死んじゃってるんじゃないか、って怯えていたの。そしたら、貴女を抱えて車に乗せた男友達が、『大丈夫、息があるから死んではいない』って……。朝一番に病院に連れて行こうかと思ったけど目立った怪我も無いし、何だか訳有りっぽそうだし、って思ったから、ひとまずはあたしの家に運んで様子を見ることにしたのよ」

「……そうだったの。それは、貴女やお友達にとんだ迷惑掛けてしまったね……」

 すまなかったねぇ……、と謝るあたしに、サンディは大袈裟なくらい頭をぶんぶんと振ってみせる。

「全っ然、いいのよ!気にしないで!!それよりもフラン、気分が悪いとか、頭が痛いとか、身体でおかしいと感じる所はどこもない??もしあるようなら、ちゃんと言ってね!すぐに病院に連れて行くから!!」

「……あ、うん。夜の間中歩き通しだったから、筋肉痛はまだ残っているけど……、特に身体に異常はなさそうかしら……」

「本当?!」

「うん、本当だよ」

「そっかぁ……。それなら良かったぁ!!」

 大袈裟に胸を撫で下ろすサンディに、あたしは薄っすらと苦笑を浮かべてみせる。

「でも、これ以上サンディに迷惑かけるのも申し訳ないから……、今日か明日中にはここから出て行こうと思……」

「そんなの絶対にダメよ!!」

 言葉の続きを皆まで言わせないぞ、と、言わんばかりに、サンディは声を張り上げた。その剣幕にたじろぐと、サンディは更に言葉をたたみ掛けてくる。

「いーい、フラン!人から受けた厚意は素直に受けておくべきなのよ!どうせ、他に行く当てもなければ、お金だって手元にないんでしょ?!それじゃあ、乞食生活まっしぐらよ!」

「……う……」


 確かにサンディの言う通り、ここを出て行ったところで財布も持っていない一文無しのあたしに、この先生活していく糧など皆無。運良く住み込みの仕事が今すぐに決まる、などという虫の良過ぎる話など、滅多に転がっている訳でもないし……。


「仕事なら、あたしが友達や知り合いに口利いて何とかしてあげる。だから、しばらくこの家に居てくれても構わないわ。一人じゃ寂しい時もあるし、むしろあたしの方がフランに家にいて欲しいのよ」


 サンディは先程とは打って変わり、またもや瞳を潤ませてあたしをじっと見つめてくる。くるくるとよく動く彼女の表情と、ころころと変わる感情に振り回され、あたしは「わ、分かったよ……」と答えてしまった。



 こうして、奇しくも、あたしとサンディとの共同生活が始まった。

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