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 水のような寛容で、アルセイアスを包み込みながら、亡夫との思い出の中に生きる【命】アロウの家のセルクシイル。

 炎のような激情で、アルセイアスに恋焦がれ、抑えきれぬ妬心に苦しむ【力】キリスの家のパキラリウム。


 そして、【心】イオスの家のマリアセリアは――。

 対照的な二人の妻の狭間で、煩悶していたアルセイアスの胸に、いつからともなく忍び込んでいた、秘めたる恋の相手に似ていた。


「お待ちしていました、吾兄」

 おとなわれた室の垂れぎぬを分けて、ほっとしたような表情を隠さずに、夫を迎えた幼い妻を前にして、アルセイアスは慎重に心を鎧った。


「今晩は、セリア。待たせてしまいましたか?」

「はい、あの、いえ……少しだけ」

「正直ですね、あなたは」


 先頃十四を越したばかりのマリアセリアは、朝と同じように目を逸らしがちにしてはにかむように微笑んだ。本来は朗らかで快活な少女のはずが、昨夜迎えたばかりの新婚の夫を前にして、大人しやかに恥らう様子が愛らしくいじらしい。


「今朝、お休みになったままでいたことは、皆様にばれませんでしたか?」

「いえ、それが……、お母様には全てお見通しでした」

「やはり、巫女の直系の方の目はごまかせませんでしたか」

 物柔らかな笑みを返しながら、アルセイアスは寝台に腰掛けた。


「わかっていらっしゃったんですか? 意地悪ですね」

 青と紫の色違いの目を大きく見開いて、詰め寄るマリアセリアの小柄な身体を、アルセイアスは攫うように引き寄せた。銀色の髪がさらさらと流れて、アルセイアスの視線を奪う。


「……セイアスは」

「何ですか、セリア?」


 マリアセリアの背を覆う長い髪を掬い、そのひんやりとした滑らかな感触を愉しみながらアルセイアスは促した。指の間をすり抜けてゆく真っ直ぐな髪は、決して触れることの許されないかの人のそれを思い起こさせて、アルセイアスには切なくいとおしい。


「……花の香りがしますね、甘い匂い」

 いきなり抱き寄せられたことに狼狽し、アルセイアスの腕の中で華奢な身体を強張らせながら、マリアセリアはようやくに告げた。

 アルセイアスの脳裏に、ふと、セルクシイルの言葉が蘇る。


 ――女はね、他の女の香りに敏感なものよ。

 ――少女でも幼女でも女は女なのよ。


 この幼い娘もまた女――か。思いながらもアルセイアスは正直に答える。

「私の衣服は、セルクシイルが調えてくれたものですから、おそらく彼女の香りが移ったのでしょう」

 セルクシイルに戯れかかってきたことは黙っておいたが。


「染色も機織りも仕立ても、全てセルクシイル様がなさったんですか?」

「ええ、そうです」

「今朝取り換えて頂いた上襲も?」

「はい」

「あちらも綺麗でしたが、こちらもまた、とても美しいきぬですね……」


 言いながら、アルセイアスの胸に顔を近づけると、マリアセリアは夫の上襲のあちこちに触れ、その織り目や縫い目、刺繍の文様や、色の使い方までをも食い入るように確かめた。

 アルセイアスの身体に沿うように仕立てられているのはもちろんのこと、着付けた後の襞の流れや、所作までも考慮に入れた、ほとんど完璧といってよい素晴らしい仕上がりである。


「お上手な方だとは伺っていましたけど、本当にお見事ですね」

 惚れ惚れと溜め息をつきながら顔を上げたマリアセリアは、間近にあった夫の顔と鉢合わせして、そこで初めて自分の大胆な行動に気付き頬を赤らめた。

 アルセイアスの衣服に当てた指先から、その下にある男の肉体が急に生々しく伝わるように感じられて、思わず手が引けてしまう。


「このようなものを目にしてしまったら、私が作ったものなんて、恥ずかしくてお出しできません」

「私の為に何か、用意して下さったんですか?」

「婚礼の日の晴れ着を……。お母様に、手伝ってもらいましたけれど。あの、私、筋は悪くないって言われているんですよ」

「そうでしょうとも」


 アルセイアスはマリアセリアが胸元に引っ込めた小さな手を取ると、自分の手のひらに重ねてそっと広げさせた。手のひらの肉厚が薄く手相が浅く、尖ったような指先がすらりと長い神経質そうな手は、不思議と彼の妻たち三人に共通した特徴である。


「あなたの手は、シルヴ氏族の女性の手です。この手を持つ人はみな手先が器用ですから、あなたもおそらく名人におなりでしょう」

「素敵な予見ですね、そうなると嬉しいわ」


 花が綻ぶような笑顔を浮かべて、マリアセリアは声を弾ませた。深い左目の青は変わらず平常な印象を与えるが、右目の紫は彼女の心を反映しているのか、眩しいほどに鮮やかである。


「ゆっくり慣れて下さればいいんですよ。機織りも裁縫も、私のことも」

「はい」


 従順に頷くマリアセリアの顎に手を添えて、アルセイアスは新妻を怯えさせないようにそっと口付けると、額を合わせて揶揄するように言った。

「こういったことにも」

「嫌だわ、セイアスったら」


 羞恥心は拭えないようだが、じゃれ合ううちにマリアセリアの緊張はほどけてきたらしい。乱暴に扱えば壊れそうな細い身体を、アルセイアスはおもむろに寝台に横たえた。



「……セイアス」

「はい? セリア」

 自分の上に覆い被さり、見下ろすアルセイアスの青い双眸を、恐れながら焦がれるように見つめて、マリアセリアはおずおずと夫の頬に両手を伸ばした。


「同じお父様とお母様の子供なのに、お姉様たちのように大神の花嫁となれる、イオスの同眸どうぼうに生まれなかったことを、私はずっと悲しく、引け目に感じてきたんです。でも……」

「でも?」


「イオスの瞳だけでなくて、あなたと同じ、シルヴの瞳も持つ異眸いぼうだったから……、私はこうして、あなたの吾妹になることができた。機織りも上手になるって言っていただけた。今はそれが、とても幸せで誇らしいんです」

「ずいぶん可愛らしいことをおっしゃってくれますね」


 ことりと、音をたてるようにして――。

 アルセイアスの心の中で何かが動いた。叶えられぬ恋の身代わりとしてではなく、マリアセリアという幼い妻自身に、アルセイアスは湧き上がるような愛しさを覚えた。


「私は誠実な夫にはなれません。私にはあなたの他に、セルクシイルとパキラリウムがいますから。それでも構わないと?」

 マリアセリアの顔を縁取る髪を愛撫し、指に絡めてその房を唇に寄せながら、アルセイアスは確かめるように問いかけた。


「ここにいらっしゃる間は、私だけを見て下さいね」

 マリアセリアは切なげに眉を寄せ、囁くように答えた。その表情は驚くほどに大人びて見えた。


「ええ、吾妹――」

 誓うように唇を重ねて、アルセイアスは昨夜とは違った気持ちでマリアセリアを求めた。

 いつか、この妻を真実愛することができたらなら、彼の迷走する想いは、ようやく安寧を得られるのかもしれない。

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