第12部

プロローグ

第454話 プロローグ

 ――自分には執着心がほとんどない。

 久遠真刃には、そう思っていた時期があった。

 明治から大正時代の頃だ。

 それも仕方のないことだった。

 父には道具として生み出され、衣服や食料、寝床など最低限の物だけを与えられた。

 衣服に拘りはなく、食事には多少の好みはあったが、別に執着するほどではない。寝床などはどこでも良かった。

 母の愛情も知らず、友もおらず、ただ我霊を狩るだけの虚無的な日々。

 何も持っていなかったからこそ、何かに執着することなどなかった。


 しかし、そんな真刃を変えた者がいた。

 それが彼女だった。

 父の手によって攫われた哀れな少女。

 切っ掛けは父に対する怒りだ。母に行った非道が許せなかった。

 父を退け、成り行きで彼女を助けることになった。


 結果、真刃の世界は一変した。


 初めて友と呼べる男と出会った。

 飄々とした酔狂な男だ。

 酒にはさほど興味はないが、彼と酌み交わす酒は楽しかった。


 初めて愛する女性と出会った。

 煌々と輝く炎を思わす苛烈な少女だ。

 思えば、彼女こそが初めて真刃が失いたくないと願った存在だった。

 それは今も変わらない。


 初めて背中を預けられる仲間とも出会った。

 当時は信頼を。そして遥か先の未来で愛することになる女性だ。

 彼女には本当に永く辛い想いをさせてしまった。心から申し訳なく思っている。

 二度とあのような想いをさせるつもりはない。


 そして始まりの少女。

 彼女は誰よりも真刃の傍にいてくれた。

 来るなと言っても全く聞かずに毎日のように。

 ただ、彼女に対して苛立ちを覚えたことなど一度もない。


 共に食事をする。

 共に街に出かける。

 彼女との時間は真刃にとって安らぎだった。

 些細な積み重ねの日々が尊かった。

 心の奥で、いつしか憧れていた家族の姿がそこにあった。


 彼女は真刃の隷者となった。

 真刃が彼女を抱いて隷者にしたのは、彼女の押しの強さに負けたからだ。

 従霊たちも、もう一人の愛する少女もそう思っている。


 しかし、それは違う。

 それは真刃自身が望んだことだった。

 ――彼女が欲しい。彼女を失いたくないと。

 彼女はそんな真刃の想いに応えてくれただけなのだ。

 あの夜のことは、今でもよく憶えている。


 月が美しかったあの夜。

 彼女が微笑んでくれたあの夜のことは。


 ただ、後に真刃はこうも思っていた。

 ――彼女を求めたこと。

 それは人擬きにはあまりにも過ぎた望みだったのだと。


 触れるべきではなかった。

 愛するべきではなかった。

 そもそも出会うべきではなかった。


 そうすれば、彼女が殺されるようなことはなかった。

 目の前で彼女を失った時、真刃は心の底からそう後悔していた。



(……オレは)


 そうして深夜。

 月の輝く夜空。天雅楼本殿の縁側にて。

 真刃の前には一人の少女が佇んでいた。

 十代半ばの白い和装を纏う少女だ。

 しかし、日本人ではない。

 透き通るような白い肌に、紫色の瞳が印象的な美麗な顔立ち。短い銀色の髪は右耳にかかる片房だけ長く、金糸のリボンを交差させて纏めている北欧系の少女だった。


 ――エルナ=フォスター。

 真刃の愛弟子であり、壱妃と呼ばれる少女である。

 真刃もよく知る少女だ。

 けれど、今の彼女は明らかに別人だった。

 真刃はそれを見抜いていた。

 涙を零すエルナの姿をした彼女が誰であるのかを。

 一瞬、躊躇があった。


 触れるべきではない。

 愛するべきではない。

 出会うべきではない。


 かつての後悔が胸中に渦巻く。

 だが、それは本当に一瞬のことだった。

 それらを一瞬で払うほどに強く熱い焦燥が心を埋め尽くした。

 彼女を求める抗えぬ焦燥だった。


「………あ」


 少女の声が零れる。

 気付けば、真刃は彼女を強く抱きしめていた。


「……紫子なのだな」


 真刃がそう呟くと、少女は体を震わせた。

 そして、


「……はい。真刃さん……」


 少女――大門紫子は小さく頷いた。


「………」


 真刃は彼女を離して、その頬に片手を当てた。

 親指でエルナの姿をした紫子の唇に触れる。

 それから彼女の顔を上げさせて、ゆっくりと顔を近づける――が、


「……それはダメです」


 紫子が手で真刃を止めた。彼女はかぶりを振って、


「この体はエルナさんのモノだから。エルナさんには許可を貰っているけど、やっぱり初めてはエルナさんが筋だと思うから」


 そう告げた。


「今の口付けも《たまむすび》の時の呼吸させるためのものとは違うでしょう?」


「……そうか」


 真刃は双眸を細めた。


「そうだったな。まず聞かねばならんか。この状況は一体何なのか。何故、死んだお前がエルナの中にいるのか。しかしだ」


 一拍おいて、


「エルナを気遣うお前の言い分は分かるが、オレとて抑えられぬモノもある」


 そうして真刃は再び紫子を強く抱きしめた。


「……この程度ならば許してくれ」


 そう願った。

 紫子は瞳を細めて「……はい」と頷いた。

 彼女もまた真刃の背中を強く掴む。その手は微かに震えていた。


「……紫子」


 真刃が彼女の名を呼ぶ。

 真刃の瞳から一滴の涙が零れた。

 これも真刃にとって初めてのことだった。


 百年の時を経て。

 再び月の光が二人を照らす。

 祝福のように、ただ静かに照らしていた――。






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 第12部スタートしました。

 すみません。不定期更新になりますが、よろしくお願いいたします。m(__)m

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