第424話 お妃さまたちのお稽古2(前編)②

 火緋神家には専用の訓練場というモノが幾つかある。

 代表的なものとしては、グランピング施設を有する訓練場などだ。

 余談だが、燦はそこで未来の義姉とたまに訓練をしている。

 だが、そんな訓練場とは別枠で杠葉個人が秘匿して管理している訓練場などもあるのだ。


 例えば、現在すべての妃が集まったこの場所。

 ここは火緋神家の誰も知らない。

 杠葉個人のための訓練場として扱っている場所だった。

 今回、ここが妃たちの合宿の場として開放されたのである。

 壮観なる山の中。近くには休憩や宿泊の場として古風な趣の屋敷が立ち、その一角には温泉も湧くという素晴らしい立地条件だ。五十年ほど前は温泉地であったが、いささか山奥すぎて寂れてしまった土地を杠葉が買い取ったのである。


 言わば、秘境の温泉地。

 妃たちも――特に十代の年少組は瞳を輝かせたものだ。

 しかし、森の一角を広く切り拓かれた訓練場グラウンドに全員が集められて、



「準備運動として百キロぐらい走りましょうか」



 という杠葉の第一声を聞いた時、妃たちは言葉を失ってしまった。


「本格的な修行はそれからね」


 正妃や準妃関係なく揃えたアスリートウェア姿で、杠葉はにこやかに言う。


「百キロか」


 同世代――といより同じ時代を生きた桜華が呟く。


「確かに体を解すには丁度いい距離か」


 杠葉を除く全妃が、唖然とした顔で桜華に注目した。


 ここで一つ、真理を問いかける。

 引導師が力を得るためにはどうすればいいか。


 極論で言えば、その方法は二つしかない。

 一つは、適切な運動量、適切な訓練により、最適な能力を磨き上げる。

 そうして自分に合った呼吸を見つけ、術理へと至るのだ。

 術理を得れば、多くのことにも応用が利くようになるだろう。

 これは現代の教育方法に通じるモノがある。


 しかし、その真逆の考え方もあった。

 それがもう一つの方法。

 一言でいえば『地獄』を経験することだ。

 効率性も上限も度外視し、苛酷すぎる訓練を以て疑似的な地獄に堕とす。それを乗り越えた時、今後いかなる困難があっても『あれよりはマシ』という芯が心に生まれるのだ。

 そうして死に物狂いで得た力は確固たるモノになる。


 だが、この方法は失うモノが多いのだ。

 それどころか、乗り越えることが出来なければすべてを失う。

 乗り越えたとしても力と引き換えに、きっと何かを失ってしまうのだろう。

 これも過去の教育方法の一つかも知れないが、このような強くなるか潰れるかの手段など現代において推奨されないのも当然だった。


 だがしかし。

 久遠杠葉。そして久遠桜華。


 二人の百年乙女はそういった過去の時代に青春時代を送っていた。

 桜華の方は他者に訓練を指導する時は相手を気遣うのだが、自身に課された時は今回のように地獄のような内容でもごく自然に受け入れていた。


 そして杠葉。

 実は杠葉にとって他人に訓練を課すのはおよそ五十年ぶりのことだった。

 だから、彼女は何の疑問もなく訓練には『地獄』を選ぶ。

 天然の『コンプライアンスってなに?』の状態なのである。

 猿忌が危惧していた事態とは微妙に違うが、これもまた由々しき事態だった。


 一方、エルナたちは困惑しつつも、杠葉に従った。

 最初はジョークだと思っていたのだ。

 結果、妃たちは杠葉と桜華を除いて全滅した。

 全員が終わらないランニングの中で倒れていったのである。

 そもそも先頭を走る杠葉の速度は、オリンピックの短距離選手も真っ青になるような速さだった。どう見てもランニングの速さではない。

 エルナたちも必死に食らいついていったのだが、流石に無理だった。


 それはもはやバイクの耐久レースだった。


 まず百メートルの時点で「か、活動限界ィ!」とホマレがダウンした。

 次に一キロメートルで「もうダメェ」と葵が倒れる。

 三キロメートルほどで「ああ! もう無理!」と燦。茜も「……く」と膝をついた。

 四キロメートル時点では「無理無理無理」と芽衣。綾香も五キロメートルぐらいで「う、嘘でしょう、あの人たち……」と倒れた。

 七キロメートルで「……これはもう……」とかなたがリタイヤした。

 エルナは「い、壱妃なのに……」と八キロメートル。

 意外と頑張ったのが月子で「げ、限界です」と十キロメートル。十二キロメートルを少し超えたところで「む、無念だ……」と刀歌がダウンした。

 最後に残ったのは六炉だった。その生い立ちゆえに苛酷な訓練も経験したことのある彼女も三十キロメートルほどで「……流石にもう無理」とリタイヤした。


「あら。みんな意外と体力がないのね」


 最後まで速度を全く落とさずに百キロメートルを走り抜いた杠葉が言う。

 流石に汗をかいて息を少し切らしていたが、まだまだ余力がある様子だ。


「そうだな」


 桜華も百キロメートルを走り抜いて呟く。

 彼女も汗をかいていたが、やはり余力があった。

 ゆっくりとストレッチをしながら、


「今代の引導師いんどうしは高火力で短期決戦が主流らしいからな。持久力はないのかもな」


 そんなことを言う。

 各自、屍と化しているエルナたちは何も言う気力がなかった。


「まあ、いいわ」


 そんなエルナたちにポンと柏手を打って杠葉は言う。


「ただの準備運動だしね。それじゃあ訓練を始めましょうか」


 桜華を除く全員が、ギョッとした顔で杠葉に注目する。


「ああ。そうだな」


 桜華が腕を組んで頷く。


「とは言え人数が多い。計画通り、自分とお前で指導を分担するか」


「ええ。そうね」


 杠葉は自分の隣に移動してきた桜華を見やる。

 桜華は頷くと、未だ腰を下ろしたままの妃たちを見やり、


「自分は刀歌とホマレ。芽衣と六炉。茜と葵を受け持とう」


「それじゃあ、私は燦と月子ちゃん。エルナさんとかなたさん。それと今回、初顔合わせをした綾香さんね」


 そう分担する。

 どちらがマシなのかは現時点では分からない。

 桜華も杠葉に合わせたせいで相手を気遣うことを忘れているからだ。

 いずれにせよ、エルナたちは青ざめていた。


「じゃあ、みんな」


 百キロを走ろうと言い出した時と全く同じ笑顔で杠葉はポンと手を叩く。


「いよいよ訓練を開始しましょうか」


 そうして。

 百年乙女たちの悪夢のような訓練が幕を開けたのであった。



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