第402話 幕間 準妃/その行く先は――。④

 久遠真刃は鍛錬を必要としない引導師だ。

 圧倒的な量の魂力は、常に真刃の肉体を最適な状態にする。

 わざわざ『体』の鍛錬をせずとも最高の状態なのである。

 しかしながら『技』はそうもいかない。

 技量は日々の鍛錬こそがモノを言う。

 真刃はそれをよく知っている。

 だからこそ、大正時代、桜華――御影刀一郎に一目置いていたのだ。


 閑話休題。


 真刃は今日、剣術と共に魂力操作の鍛錬をするつもりだった。

 手には大正時代からの愛刀である軍刀を携えていた。

 朝の会議までまだ時間がある。

 今日はその時間まで訓練場で過ごす予定だった。

 真刃は訓練場に到着した。

 すると、そこには先客がいた。


 ランニングウェア姿の葵である。

 床に座り、何やら小さな箱を開けているようだ。


「葵か? 早いな」


「あ、キング。おはようございます」


 真刃に気付いた葵が頭を下げてきた。

 真刃は「ああ。おはよう」と告げて葵の元へ行く。


『葵ちゃん。一人で訓練っスか?』


 と、真刃のジーンズのポケット内のスマホから金羊が声を掛ける。


「あ、いえ」葵は首を横に振った。


「もうじき芽衣さんも来ます。訓練に付き合ってくれるので……」


 葵は月子や芽衣と仲が良い。

 特に芽衣のことは姉のように慕っていた。


「そうなのか」真刃は双眸を細めた。「時にそれはなんだ?」


 葵の手元の箱を見やる。


「これはこないだ買ったんです」


 言って、小箱から何かを取り出した。

 それはいわゆる口紅だった。真刃は首を傾げた。


「それは化粧用のしなだろう? 何故ここに?」


「あ、違います。これは霊具なんです」


 葵は真刃に目をやって笑う。


「《吸魂霊紅ドレイン・ルージュ》。これを唇に塗ると一時的にある術式が使えるようになるんです。触れるだけで相手の魂力を吸い取れるとか」


『へえ~』金羊が興味深そうな声を上げた。


『術式付与型の霊具っスかね。珍しい』


「そうなのか?」


 真刃がスマホを取り出して金羊に問う。


「いや、確かに強化は多いが、付与というのはあまり聞かぬか」


『うっス。アッシも実物は初めて見るっスよ。そんなレアもの、よく見つけたっスね。百貨店ブラックストアに流れ着いていたんっスか?』


 金羊が葵にそう問うと、


「いえ。ネットのサイトで見つけたんです」


『え?』


「お買い得だったんで試しに買いました」


 言って、葵は口紅を開封する。その色は愛らしいピンク色だ。

 それを、スマホを手鏡代わりにして塗る。


『ちょっ!? 待つっス!? それ、ネットで購入した奴っスか!?』


 金羊が慌てた様子で止めるがすでに遅い。

 葵の唇はピンク色に彩られていた。

 その数秒後のことだった。



【お買い上げどうも~】



 どこからかそんな声が聞こえた。

 女性らしき声だ。

「え?」と葵は目を瞬かせるが、どこにも声の主はいない。

 そもそも葵にしか聞こえていない様子だった。

 声はこう続ける。


【これは自動ガイダンスです~。これが起動するなんて、お客さん、適性値高いっすね~。いやあ、純粋に凄い。正直、百万人いて一人ぐらいの可能性だと思ってたのに~】


(え? 何これ?)


 葵は青ざめて両耳を塞いだ。

 しかし、声はまだ聞こえてくる。


【おめでとうです~。《吸魂霊紅ドレイン・ルージュ》は《淫魔狼獣サキュバス・ウルフ》にクラスチェンジします~。お客さん、マジでラッキーですよ~。遺伝や素質も無視して現状がどんなんであっても、ボンッキュッボンッに成れるんすから~】


「え? え?」


 葵は混乱していた。

 真刃が心配して「どうした? 葵?」と声を掛けるがそれも聞こえていない。


【まあ、使いこなせるかはお客さん次第ですけどね~。そんじゃあまたのご愛顧を~】


 脳に響く声はそう告げて途切れた。

 葵は未だ混乱していたが、突然、ドクンと心臓が鳴った。


「―――うああっ!」


 心臓を抑えて前屈みに倒れる。


「葵!」


 流石に真刃も顔色を変える。

 が、続く現象に真刃は目を瞠った。


「なん、だと……?」


 思わず唖然とする。葵の体が変貌し始めたのだ。

 怪物に……ではない。それは言うなれば、時間が加速していくようだった。

 四肢が伸び、元々大腿部辺りまでだったウェアは繊維が千切れるほどに肥大する。二の腕もだ。さらには髪も伸びていく。そして最も大きく変化したのは胸部だった。驚くほどたわわに成長していく。圧迫が苦しかったのか、葵自ら指で大きく胸元を引きちぎるぐらいだ。

 腰ほどに伸びた青い髪がザワザワと逆立った。

 その髪は頭部で狼の耳のような形へと変わった。


「ハァ、ハァ、ハァ……」


 大きな胸を揺らしつつ、四つん這いになって葵は唾液と共に荒い息を零していた。

 ほんの十数秒のことだった。

 たったそれだけの時間で、葵は二十歳ほどの女性に成長してしまった。

 流石に真刃も金羊も言葉が出ない。

 すると、


 ――ダンッ!

 葵が勢いよく跳んだ。


 真刃から五メートル離れた場所で着地する。

 両手をフロアにつけて、ぶるんっと大きな胸を揺らす。獣のような構えと眼差しで葵は真刃を睨み据えていた。明らかに獲物を見る眼光だった。

 牙のように鋭くなった歯も見せて、「グルゥ……」と唸り声を上げている。

 月子以上に穏やかな葵らしくない。正気を失っているように思えた。


「…………」


 真刃は眉をしかめた。


「これはどういう事態か分かるか? 金羊」


『たぶん霊具が原因だと思うっスけど、流石に霊具を調べてみないと分かんないっス』


 葵の唇に塗られた霊具の口紅は、すぐそこに落ちている。

 だが、この状況でのんびり調べている暇はなさそうだ。

 葵が腕を振り上げて跳びかかって来たからだ。

 真刃は半歩、体を逸らして回避する。

 すると、葵はさらに加速した。

 壁、天井、床と縦横無尽に室内を跳躍する。

 葵の魂力の量では考えられないほどの速さだった。


 しかし、


「やれやれだな」


 真刃は嘆息するだけだった。

 そうして、


「~~~~っっ」


 三十秒も経たない内に、獣と成った彼女は真刃に両腕を捕らえられていた。

 両手を上げた状態で辛うじて立っているが、彼女にすでに力強さはない。

 瞳を隠すほどに深く俯き、時折、ビクンッと全身を震わせている。


「触れた相手の魂力を吸収するというのは虚偽ではなかったようだな」


 葵が倒れないように支えながら、真刃は言う。


『そうっスね。おかげで怪我もさせることなく無力化できたっスね』


 と、金羊も言う。

 その時、葵の両膝がカクンっと崩れた。

 真刃は「おっと」と呟き、咄嗟に彼女の腰と後頭部を支えた。


「……~~~~~っっ」


 彼女の表情は恍惚としていた。口元からはわずかに唾液も零している。

 豊かな胸を上下させて荒い呼吸をずっと繰り返していた。

 真刃の魂力を吸収した結果だった。

 要はキャパオーバーした魂力酔いの状態である。

 現在の真刃個人の魂力は14000越えだ。缶コーヒーの愛飲だけはどうしても止められないので今も日々増えている。その上、今は臨戦態勢のため、常に従霊たちと魂力を繋げていた。《魂鳴りソウルレゾナンス》を扱える葵のキャパも相当なモノなのだが、流石にこればかりは海を呑み干そうとしたようなものだった。


「しかし、これはどうすればよいのだ? 元の葵に戻せるのか?」


『分かんないっスけど、とりあえず口紅を落とせばどうっスかね?』


「……ふむ」


 真刃は葵の腰を強く抱き寄せる。

 葵は「んくっ」と声を零した。

 それから真刃は右手で葵の頬に触れた。

 親指で彼女の唇に触れてやや強く擦る。それを繰り返した。真刃に腰を支えてもらわなければ立ってもいられない葵は「ん、くゥん……」と呻くだけだった。

 そうして、


「……だいたい落とせたか?」


 真刃がそう呟いた時、葵の体に変化が訪れた。

 みるみる小さくなっていくのだ。髪も短くなっていく。

 十数秒後には元の姿の葵がいた。

 葵は数瞬ほど茫然としていたが、


 ――カアアアアアっ、と。


 顔を一気に真っ赤にした。

 先程までの記憶がはっきりと残っていたからだ。


「キ、キング! わ、私……」


「……よい」真刃は双眸を優しく細めた。


「どうやら元に戻れたようだな。怖かっただろう?」


 そう告げる。途端、葵の胸の奥がキュウっと鳴った。

 同時に先程の自分が自分でなくなるような感覚を思い出して震えてくる。


「……キ、キングゥ……」


「とりあえず、お前が落ち着くまで傍にいよう」


 と、真刃は言う。

 葵は「……くゥん」と呟くと、真刃にしがみついた。

 そうして今に至るのである――。



       ◆



「葵が使った霊具。あれって『魔女の竈ウィッチ・クラフト』製品だったそうよ」


 一時間後。

 茜は自室のベッドの上で横になる葵にそう告げた。


「……魔女の竈ウィッチ・クラフト?」


 葵はシーツで顔を半分隠しながら小首を傾げた。


「何それ?」


「悪名高い霊具工房よ」


 ベッドの傍らで椅子に座る茜は嘆息した。


「腕は抜群だけど、タチの悪い試作品とか実験品をばらまいているのよ。というより葵」


 茜はポカンと妹の頭を叩いた。


「そんなのネットで購入してるんじゃないわよ。ネットでの霊具の購入はリスクがあるのよ。確かに掘り出し物もあるけれど、大外れもあるんだから。量産されている市販品や消耗品ならともかく、命を預ける霊具の購入は現物確認が鉄則よ」


「そ、そうだったんだ……」


 葵は恥ずかしそうに呟く。茜は「はあ」と溜息をついた。


「けど、どうしていきなり霊具なんて購入しようと思ったのよ?」


 そう尋ねる茜に、葵は少しの間、無言だった。


「……葵?」


 茜が眉をひそめると、


「……茜お姉ちゃん」


 葵は顔を隠しつつ尋ねる。


「お姉ちゃんは、キングのことが好き?」


「…………」


 茜は一瞬、言葉を詰まらせるが、


「……好きよ」


 はっきりとそう答えた。


キングの正妃になれば将来が安泰とか考えてもいたけど……」


 一拍おいて、


「どうしようもなくときめいちゃったのよ。あの人の傍にいると凄くホッとするの」


「……ふふ」葵は笑った。「あのね、私、お姉ちゃんがキングのお嫁さんになるのなら、私は独り立ちしないといけないと思ったの」


「…………」


「じゃないと、お姉ちゃんが安心してお嫁に行けないって」


「そのための霊具?」


 茜の問いに葵はこくんと頷いた。


「強くならないといけないと思ったの。そう思ってたんだけど……」


 そこで葵は視線を逸らした。その耳は真っ赤だった。


「あの霊具って本能を解放するみたいなの……」


 妹の呟きに茜は耳を傾ける。


キングに襲い掛かって負けちゃって、捕まちゃって、いっぱいいっぱい魂力を注がれて、頭の中が真っ白になって――」


 葵は「くゥん……」と呻いた。


「私、理解しちゃったの。うん。私の本能が……」


「……葵」


 茜は額に片手を置いた。

 そしてポンとシーツの上から葵のお腹辺りを叩いた。

 シーツはビクンッと跳ねた。


「お馬鹿。お子さまの癖に女の本能を発揮してんのよ。しかもチョロすぎ」


「ち、違うよ。だけど……」


 葵は顔を隠したまま言う。


「夢心地みたいな気分で思ったの。ああ、引導師ボーダーならこれ・・もありなんだって」


「……はあ」


 茜は盛大な溜息をついた。


「結局、私たちって双子の姉妹なのね。男の趣味も同じだったってことかあ」


 そう呟く。葵は「あうゥ」と呟いた。

 茜はふっと笑った。

 そして、


「なるわよ。葵。正妃ナンバーズに」


「うん」


 葵はシーツから顔を出して笑った。


「二人でなろう。頑張ろうね。茜お姉ちゃん」


 そう答えるのであった。


 こうして。

 神楽坂姉妹は共に準妃隊員として目標と覚悟を掲げたのである。

 まあ、その道程が今後どれぐらいのモノになるのかはまだ定かではないが。

 ともあれ、共に同じ未来を歩くことを決めた巫女たちだった。



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 次話『伍妃/犬猿の友』

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