第394話 肆妃『星姫』/忍の道は険しくて④

 どうしてこんな場所に我霊エゴスがいるのか。

 そう考える前に、ヒカゲは燦を抱きかかえて、間合いを取っていた。


(――くうッ!)


 歯を軋ませるヒカゲ。

 燦は完全に力尽きていて、まだ意識を取り戻していない。

 出来れば逃げたいが、子供一人を抱えて逃げるのは不可能だと判断する。

 ヒカゲの系譜術クリフォト――影から影へと移動できる《影渡兎ワンダーラビット》が術者本人にしか適用できないことが何とももどかしい。


(ここは戦うしかない!)


 ヒカゲは燦をそっとその場に降ろして、自身は短刀を抜いて逆手に構えた。

 そうこうしている内に、我霊エゴスは水場から上がってきた。

 その姿は皿もなく嘴もないが、河童に似ていた。黒い甲羅を背負い、浅黒い肌に前腕部が異様に長く、腹は膨れあがっている。

 身長は二メートル半ぐらいか。長い舌をだらりとぶら下げていた。


(先手必勝!)


 ヒカゲは懐から数枚の栞を取り出した。

 魂力で強度を上げて我霊エゴスに投擲する!

 クナイのように飛んだ栞は我霊の腕に突き刺さるが、どれも浅い。

 だが、これで我霊の意識はヒカゲに向いたはずだ。

 ヒカゲは川辺沿いに走り出す。


「ガアアアッ!」


 思惑通り、我霊も追ってきた。

 ヒカゲはそのまま水の上を走って対岸に移動する。我霊も追ってくるのだが、同じように水の上を走ろうとして川に足を捕られて「ガァ!?」と困惑しているようだ。

 ヒカゲはさらに栞を投げつける。

 肩や首筋に突き刺さるが、我霊は身じろぐだけだった。


(やっぱり私は弱い……)


 ヒカゲは、ギリと歯を鳴らした。

 この負けられない戦いで自分の弱さが悔しかった。

 一方、我霊は足元の水が煩わしくなったか、一気に跳躍した。

 一足飛びで間合いを詰めて、ヒカゲの目の前で大地を砕く勢いで着地する。

 そのままヒカゲへと腕を伸ばすが、


 ――ヒュンッ!

 彼女の姿が消える。影を渡ったのだ。


 ヒカゲは近くの木の影から現れた。

 そして、


(忍者を舐めるな!)


 右の拳を口に当てると、大きく息を吸いこんで吐き出した。

 直後、巨大な火球が生まれた。

 燦にも見せた忍法・火炎泡かえんぼうの術である。

 火球は我霊にぶつかり、そのまま全身に燃え移った。

 悶え苦しむ化け物。

 その隙に、ヒカゲは一気に間合いを詰める!

 短刀を強く握る。喉をかき切れば、我霊は死を思い出すはずだ。


 しかし、我霊は想定外の動きをした。

 突如、腹がへこみ、代わりに喉元が膨れ上がって大量の水を吐き出したのだ。


(―――な)


 ヒカゲは目を瞠った。

 それは地面に向かって放たれた大砲のような勢いの嘔吐だった。

 水は盛大に飛び散り、我霊の全身の炎を瞬く間に鎮火した。

 ヒカゲは思わず足を止めてしまった。

 対し、間合いを詰めるのは我霊の方だった。


「ガアアアアアアッ!」


 咆哮と共にヒカゲへと手を伸ばした。

 彼女は硬直して動けない。

 ――と、その時だった。


「化け物が」


 唐突にその声が割り込んできたのは。


「薄汚い手で彼女に触るな」


 そう言って、ヒカゲを捕らえようとしていた我霊の巨腕を掴んだ。

 それだけで我霊の動きは止まった。


(――――え)


 ヒカゲは再び唖然とした。

 いつの間にか、ヒカゲの前に一人の青年がいたのだ。

 年の頃は二十歳ぐらいか。大学生のような服装だ。毛先が少し赤い黒髪の短髪に、精悍な顔立ち。身長は百八十にも届くだろう。体格もよく、筋肉質なのがよく分かる。

 我霊の腕を掴むのは右腕だったが、左腕の方には一人の少女を抱きかかえていた。

 気を失ったままの燦である。


「助けに入るのが遅くなって済まない。正直、君の戦う姿に見惚れていた」


「……え?」


 ヒカゲは、ペタンとその場に座り込んで目を瞬かせていた。


「君には妹が本当に世話になったようだ。ありがとう」


 青年が言う。


「だが、普段は人気ひとけが少ないとはいえ、火緋神の私有地に我霊エゴスが紛れ込むとは。これは親父に報告しないといけないな」


「え? あ、あなたは、まさか――」


「ともあれだ」


 青年は双眸を細めた。


「まずは貴様に引導をくれてやろう」


 そう告げた直後、我霊は再び炎に包まれた。

 ヒカゲが放った炎とはまるで違う。骨さえも灼き尽くすような猛火だ。

 我霊は断末魔を上げることもなく崩れ落ちた。

 ヒカゲは言葉もなかった。

 すると、


「どうか教えて欲しい」


 青年がヒカゲを見つめて尋ねてきた。


「君の名前を――」



       ◆



(あれが二つ目の転換期だったなあ……)


 ヒカゲは小さく嘆息した。

 そこは火緋神家本邸の一室。

 とある人物の私室である和室だ。

 そこでヒカゲは正座をして待っていた。

 黒いブラウスに紺色のジーンズ。歳も十九歳になった彼女は大学生になっていた。


(私の人生設計ってあそこで完全に崩れたんだよなあ……)


 と、そうこうしている内に部屋の襖が開かれた。

 そこに立っていたのは二十三歳になる灰色の甚平姿の人物。

 あの日、ヒカゲを助けてくれた青年だった。


「……たけるさま」


 ヒカゲは青年の名を呼んだ。

 彼の名はがみたける

 ――そう。彼は三人いる燦の異母兄の一人。

 火緋神家の次期当主である火緋神巌の長子だった。

 すなわち『炎雷の若君』である。


「………」


 猛は不機嫌そうな顔でヒカゲの前に座った。


「……猛さま」


 ヒカゲがもう一度名を呼ぶが、彼は返答しない。

 ヒカゲは嘆息して、自分の腿をポンポンと軽く叩いた。

 猛は無言のまま反転すると、ヒカゲの膝を枕にした。

 ヒカゲは青年の髪に触れて、その顔を見つめた。


「……結局」


 ややあって猛が口を開く。


「御前さまに押し切られてしまったよ。燦と月子はあの男に預かられることになった」


 ヒカゲは何も答えない。静かに聞き役になっている。


「一応は山岡さんが付くことになったが、やはり不満だ……」


 猛はヒカゲの顔を見つめた。


「ヒカゲ。お前に調べて欲しい人物がいるんだ」


「ええ。いいですよ」ヒカゲは少し皮肉気に笑った。「ただし、私を筆頭隷者ドナーの座から降ろしてくれるのでしたら」


 ヒカゲは、今やたける隷者ドナーだった。

 第二段階の隷者。しかも筆頭隷者である。

 あの日の後、彼に口説き落とされたのである。


 最初は『ご、ご冗談を……』と濁したのだが、その後、猛は毎日のようにヒカゲの元に押しかけて来た。容姿は似てなくともこの押しの強さは燦の兄だった。それはともかく、立場的にも断りきることが出来ず、結局、ヒカゲは受け入れた。


 ただ、これはとても評判が悪かった。

 明らかに若さまの火遊びだったからだ。珍しい一族の娘に食指が動いただけの話。誰もがそう思ったのである。ヒカゲの両親でさえ『守ってやれず済まない』と言っていた。

 燦も相当にご立腹だった。


『猛お兄さまなんて大っ嫌い!』


 と、直球で猛を非難した。それでも異母兄の意志は変わらなかったが。

 当時のヒカゲもこんな風に考えていた。

 初めての相手が若さまだったことは人生設計として想定外だったが、所詮自分は魂力も平均以下の二流引導師ボーダーだ。きっと抱き飽きたら早々に捨てられるに違いない。

 それまで若さまの道楽に付き合えばいい、と。

 皮肉と自嘲と込めてそう割り切っていたのだが、猛は本気だったのだ。

 それは三年も経った今でもだ。


「それはダメだぞ」猛は即答する。「ヒカゲは筆頭だ。俺の正妻になるんだからな。俺は今も昔も本気だぞ。だからこそ燦に嫌われてでもこれだけは押し通したんだ」


 そう語る猛に、ヒカゲは微かに頬を赤く染めた。

 今となっては理解している。

 一時の火遊びではなく、彼が本気で自分を愛してくれることも。

 諦観から受け入れた関係も、今ではまるで変わってしまったことも。

 ただ、根が日陰者の自分としては、筆頭という立場は中々に重いのだが。


「私みたいな下っ端女に手を出すから惚れっぽいとか誤解されるんですよ」


「……ヒカゲも含めて八人も隷者がいるんだ。誤解とも言えないさ」


 そんな台詞を返す猛に、ヒカゲは瞳を細める。


「まあ、いいです。分かりました。私はあなたの女ですから。少しぐらいの我儘は聞いてあげます。それで調べて欲しいのは例の男性ですか?」


「……ああ。頼むよ」


 ヒカゲに膝枕されたまま、猛は頷く。


「燦たちの傍には山岡さんもいるしな。いきなり大事に至るようなことはまずないと思うが、出来るだけ急いで頼むよ」


「構いませんが……」


 ヒカゲは猛の前髪を撫でて微笑んだ。


「そこまで燦さまが心配なら正直に言えばいいのに」


「……むむ」


「あの日もこっそり隠れて燦さまの様子を見に来るぐらいなのに」


「……一つ言っておくぞ」


 猛はブスッとした顔でヒカゲに言う。


「あの日にいたのは俺だが、初日と二日目はそれぞれ弟たちがいたんだからな」


「え? お三方が全員ですか?」


 三年も経って知る事実に、ヒカゲは目を丸くした。

 どうやら火緋神家の三兄弟は揃って異母妹が可愛いくて仕方がないらしい。


「まあ、三日目に当たった俺はおかげでヒカゲの凛々しい姿を見れた。うん。あいつらよりも遥かに幸運だったな」


 ふふんと鼻を鳴らす猛。

 ヒカゲとしては苦笑を浮かべるだけだった。


(やれやれだわ)



 九重ヒカゲは日陰で暮らしたい。

 そんな人生設計はもう叶えられそうになかった。



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次話『肆妃『月姫』/青い世界』

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