第五章 昼下がりのティータイム
第355話 昼下がりのティータイム①
時間は少し遡る。
それは燦たちが火緋神家に訪れた日の昼過ぎのことだった。
「ふっ、ふっ、ふっ……」
一定間隔で息が零れる。
ルームランナーを走る青年の呼吸だ。
ランニングウェアに身を包んだ蒼い髪の青年――扇蒼火である。
ここはホライゾン山崎の九階層の一室。
近衛隊員用に新設したトレーニングルームだった。
真刃は拠点の移転も考えているのだが、滞在する近衛隊も増員され、ホライゾン山崎の九階は今や近衛隊の専用フロアとなっていた。エルナの承諾の元、最上階同様に大幅な改装も加えられているのである。
特にこのトレーニングルームはジム並みに設備が充実していた。
利用者も多く、蒼火と同じくルームランナーを使用する者もいれば、ストイックにウェイトリフティングに勤しむ者もいる。
「……ふゥ」
三十分近く走り続けた蒼火は、ようやくルームランナーを終了した。
流石に汗だくとなり、両膝に手を置いて肩で息をする蒼火。
すると、そこに、
「精が出るな。新入り」
一人の巨漢が現れる。
オールバックの髪に獅子鼻が印象的な人物。普段はサングラスを愛用しているのだが、今はつけていない。素顔だと本当にライオンのような風貌だった。
身に着けているのは蒼火同様にトレーニングウェア。しかし、上半身は裸だ。いや、裸というよりも、まるで岩のような筋肉を着込んでいるとでも言うべきか。
男は右手には五十キロのダンベル。左手には未開封のペットボトルを持っていた。
――獅童大我である。
蒼火が所属する近衛隊の副隊長だった。
「……副隊長」
「だが、あまり無理をするなよ」
言って、ペットボトルを蒼火に投げる獅童。
蒼火は片手で受け取った。
「ここ数日はかなりハードだな。過度なトレーニングは体を壊すぞ」
そう告げる獅童に、蒼火はまずペットボトルから水を補給してから、
「いえ。俺は奥方さまの推薦のおかげで近衛隊入りが出来たんです」
そう答える。
「奥方さまのご期待に添えるためにも、トレーニングはかかせません」
蒼火が言う『奥方さま』とは桜華のことを示す。
他にも妃がいる――その中には火緋神本家の双姫も含まれる――ことは当然知っているが、蒼火が奥方さまと呼ぶのは桜華だけだった。
「……まるで漆妃殿に恋慕でも抱いているかのようだな」
獅童が怪しんでそう勘繰ると、
「それは奥方さまに不敬です。副隊長」
蒼火はムッとした表情で獅童を見据えた。
「確かに奥方さまは女神のごとく美しいお方です。俺も男です。あの方に魅入っていないと言えば嘘になります。ですが、俺の忠誠は
自身の胸を強く打つ。
「
「…………」
「あのお方にお仕えする。それが俺の生きる道です」
だからこそ、蒼火は《
扇家の次期当主と見込まれていた蒼火の唐突な決断に、実家が強く反発して騒然となろうが知ったことではない。たまたまここに顔を見せに来ていた篠宮瑞希に「え? 扇君? ここで何してるの?」とも言われたが、それもどうでもよいことだった。
近衛隊に入って驚いた事と言えば、かつて蒼火を一蹴したあの『六番目のムロ』が
彼女を
流石は我が王だと心服したものだ。ただ、意外にも『六番目のムロ』は以前、背骨を粉砕した蒼火のことを憶えており、「ん。久しぶり」と言われた時は絶句したが。
閑話休題。
「
蒼火は強い意志を込めてそう告げる。
「……そうか」
獅童は双眸を細めた。
「お前の忠義を邪推して悪かったな。思えば俺も若のお力に心酔したクチだ」
力だけを頼りに、獅童は
獅童もまた力の信望者だった。
いや、近衛隊のほとんどはそうだった。
元々 《
しかし、あの日、あの夜に。
その場にて
何気に
近衛隊で忠誠心と無縁なのは、実のところ、隊長である芽衣だけかもしれない。
「お前にも近衛隊の資格はあるようだ」
と、獅童が呟いた時だった。
「……
不意に後ろから声を掛けられた。
獅童と蒼火が顔を向けると、そこには隊服を着た近衛隊員の一人がいた。
元 《獅童組》の組員でもある。
「副隊長と呼べ」
と、告げる獅童に対し、「うっす。すみません。副隊長」と呼び直して隊員が頭を下げた。
「何かあったのか?」
獅童が続けてそう尋ねると、隊員は「はい」と首肯した。
「実は
「来客だと?」獅童は眉をひそめる。「今日はアポなどなかったはずだが?」
「うっす。
「……相手の素性は? 人数は?」
そう問う獅童に、
「素性は分からないっすが、相手は男で一人です。本人は
隊員は神妙な声でそう答える。
「
「……瑤子の方にもか?」
現在ここに駐在している女性隊員である。第一陣の派遣メンバーで獅童の隷者でもある。今回の出張には《
「うっす」と隊員は頷く。
「移動中で携帯を切ってるか、電波の届きにくい場所にいるんじゃねえかと」
「……タイミングが悪いな」
獅童は小さく舌打ちする。
「……それで、その男は今、どうしているんだ?」
と、二人のやり取りを聞いていた蒼火が尋ねる。
隊員は「ああ」と蒼火の方へと視線を移して、
「今は山岡さんがこの
そこで眉間にしわを寄せた。
「山岡さんが凄い険しい顔で言ったんだよ。『恐らく、尋常な相手ではありません』って。このまま追い返して放置すんのも逆にやべえって」
「……あの山岡殿がか?」
その言葉には、さしもの獅童も表情を固くした。
「あの御仁がそこまで警戒しているのか……」
山岡辰彦。あの老紳士の実力は獅童たちもよく知っていた。
体術限定だったとはいえ、獅童も武宮も、そして新入りの蒼火も含めて、近衛隊の全員があの老紳士には打ちのめされていた。
彼が一般人だと聞いた時は心底驚いたものである。
今や山岡は獅童たちの拳術指南であり、近衛隊メンバーには一目置かれていた。
「それほどの相手ということか」
あごに手をやり、獅童は鋭い眼光で隊員を見やる。
「妃殿たちは今、どうしている?」
「壱妃から肆妃まではそれぞれの学校っす。
「……幸いにも
「葵と茜も学校っす。ホマレは部屋で寝てたのを武宮さんが叩き起こして保護しました。最上階にはいま誰もいません」
「……そうか」
獅童は少し安堵して頷く。
準妃隊員もいずれは若に愛される可能性のある娘たちだ。
何かあっては若に申し開きが立たない。
「では、俺も応接室に行こう。扇。お前もついてこい」
「了解だ。副隊長」
蒼火は力強く承諾した。
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