第9部 『百年乙女―天照紅炎―』
プロローグ
第336話 プロローグ
六月初旬のある日。
涙のように雨が降りしきる日に、その訃報は雷鳴の如く轟いた。
かの火緋神家の長が
その長は『御前さま』という名で呼ばれる女性だった。
その本名は誰も知らない。
けれど、長年……それこそ、百年以上にも渡って火緋神家を支えてきた偉人である。
その御前さまの
正確には、御前さまらしき遺体である。
常にベールで覆われていた彼女の素顔は、本家の者でさえ知らない。
ただ、事実として、まるで命を使い果たしたように老衰した遺体がそこにあった。
その離れは、普段、御前さまが生活に使っていた場所である。
朝から一向に連絡が取れない御前さまに嫌な予感を覚えて、お叱りを受けることも覚悟の上で離れに向かったところ、彼女は寝室で眠るように亡くなっていたそうだ。
見つかった遺体が御前さまである可能性は極めて高かった。
『……御前さま』
『……なんということだ』
火緋神巌を筆頭に、御前さまの側近たちは揃って後悔した。
ここ最近、御前さまの体調不良が重なっていたことには気付いていた。
特に火緋神家の次期当主――いや、今や現当主となった巌としては、無理を通しても医者や給仕を常時お傍に置きたかったのだが、それは御前さまご自身が拒否された。
恐らく相当な高齢であった彼女は、自分の死期を悟っていたのだろう。
そして火緋神巌を自分の後継に考えていたようだ。
部屋に残された遺書にはそう記されていた。
御前さまに可愛がられていた『双姫』も、この訃報にはショックを隠せなかった。
急ぎ駆けつけたが、月子はずっと哀しげな表情をしていて、燦の方は上手く表情が作れなかったのか、くしゃくしゃとした顔を見せていた。
不仲である父が、珍しく娘の頭にポンと手を乗せた。
葬儀は大きく行われた。
火緋神本家や分家のみならず、他家からも多くの名家が参列した。
例えば、北の地からは
さらには
南の地からは
長年無法地帯であった西の地を平定したと聞く
そして、同じ東の地からは、かの天堂院家の当主の姿さえもあった。
これほどの当主たちが一堂に会することなどない。
それほどまでに、火緋神家の御前の影響力は絶大だったということだろう。
火緋神一族は、偉大なる母の死に悲しみにくれた。
それが御前さまとの別れだった……。
……………………………。
……………………。
それは月が美しい夜だった。
御前さまが亡くなる前夜のことである。
「…………」
彼女は一人、声を発することもなく縁側に腰を掛けていた。
年の頃は十八ほどか。
長い黒髪が美しい女性だ。
その身には着物を纏っている。
まるで死に装束のような白い着物だった。
――火緋神杠葉である。
「…………」
とても静かな夜だった。
この離れは、杠葉以外は立ち入れない場所だ。
例外は二人の孫娘たちだけである。
しかし、あの子たちも、こんな時間に訪れたりはしない。
「…………」
杠葉は無言のまま顔を上げた。
雲のかかる月を見上げる。
と、そこに影が生まれた。
ゆらり、ゆらりと。
月を背に、影はこちらに降りてくる。
それは黒い龍だった。
そして、その頭部には一人の青年が立っている。
灰色の帽子に、
――久遠真刃だった。
黒い龍――九龍は主である真刃を乗せたまま、ゆっくりと宙空を進み、ややあって離れの庭園にまで降りて来た。鎌首だけを地面へと近づける。
――トン、と。
真刃は、庭園へと降り立った。
同時に九龍は首を上げて、再び空へと昇っていった。
離れには真刃と杠葉だけが残された。
しばし見つめ合う二人。
そして、
「……久しぶりね」
最初に口を開いたのは杠葉だった。
「百年ぶりになるわね。真刃」
「……そうでもなかろう」
真刃は小さく嘆息してから異論を告げる。
「再会ならすでにしておる。この火緋神家でな。あの場では、よもや、お前が
真刃は一度、火緋神家の御前の間に招待されている。
その時に二人は再会していた。
「……そうね」
杠葉は、ふっと笑った。
「私も、まさかあなたが来るなんて思ってもいなかったわ」
「……まったく」
真刃は小さく嘆息した。
「よく咄嗟にあれだけ嘘がつけたものだ。昔のお前からは考えられん
「……これも年の功よ」
少し視線を伏せて杠葉は言う。
「動揺はしたけど言葉は出てきたわ。無駄に長生きなんてするものじゃないわね」
「……そうか」
真刃は神妙な眼差しを見せた。
「けど、燦と月子ちゃんを助けてくれたことには本当に感謝しているの」
杠葉は顔を上げた。
「ありがとう。真刃。あの子たちを守ってくれて」
「……ふん」
すると、真刃は仏頂面を見せて、
「それは当然だろう。
そこで双眸を細める。
「燦はお前によく似ておったからな。見捨てられるはずもない」
「…………」
視線を逸らして杠葉は沈黙する。
「……辛い日々を歩いたのか?」
真刃は問う。
しかし、彼女は答えない。
「……幾度となく死と別れを見てきたのか?」
「…………」
この問いかけにも彼女は答えない。
「……
真刃は一拍おいて独白するように問う。
「絶望に、苛まれてきたのか……」
「…………」
やはり杠葉は答えない。
だが、沈黙ほど雄弁なモノもなかった。
(……杠葉)
真刃は強く拳を固めた。
目の前の彼女は、あの頃と全く同じ姿だ。
――百年乙女。
老いることもなく、永遠を生きる乙女。
その定義でいえば、桜華もまた百年乙女ではあるが、杠葉とは違う。
桜華は望めば、緩やかだと思うが老いることは出来るのだ。
完全に『時』に見捨てられた訳ではない。
だが、杠葉の方は……。
「……私は」
ようやく杠葉が唇を動かした。
「永遠にこの姿よ。神刀が私の意志とは関係なく魂力を注いでくるから」
「……そうか」
沈黙の幕が夜の庭園に降りる。
ややあって、
「杠葉」
真刃は彼女の名を呼んだ。
そして、
「
そう告げた。
「…………」
杠葉は未だ沈黙していた。
雲の間から、月の光が二人に注ぐ。
虫の声だけが庭園で囁かれた。
そんな静かなる夜の中で、
「ええ。そうね」
杠葉は微笑む。
そうして彼女は答えた。
「お願い。私を殺して。真刃」
――と。
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第9部、プロローグを先行投稿しました!
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