第312話 蒼い夜②
その時、神楽坂茜は一人で廊下を歩いていた。
その表情は、何かを迷っているようだった。
事実、彼女は悩んでいる。
「…………」
視線を下にして歩き続ける。
(……どうして)
それは彼女にとって想定外そのものだった。
まさか、普通の世界に戻れるような機会をくれるとは……。
(……葵は)
妹もまた困惑していた。
ただ、素直なあの子は
困惑も一般校か、引導師養成校に通うかに向いている。
しかし、茜は違う。
素直に厚意など信じられない。
何か裏があるのではないかと勘繰ってしまう。
そのせいか、彼女は自然と執務室へと足を向けていた。
そうして、執務室の前で止まる。
睨みつけるようにドアを見据える。
しかし、何と問えばいいのか。
そもそも聞いたところで彼が答えてくれるのか。
そんなふうに悩んで立ち止まっていると、
――ガチャリ、と。
(………え?)
いきなりドアが開いた。
茜が目を丸くすると、そこには
ドキンっと鼓動が跳ねる。
「む。茜か?」
恐らく初めて名を呼ばれた瞬間だ。
「は、はい」
茜は思わず直立不動の姿勢で返事をした。
「どうした?
「い、いえ、そんな用というほどでは……」
と、言いかけたところで、茜は気付く。
「どこかに出かけられるのですか?」
「ああ。私用でな」
「
「え? あ、はい……」
茜は思いがけず、彼と並んで歩くことになった。
「用とは学校の件か?」
廊下を進みながら、
茜は困惑しつつも、思い切って聞くことにした。
「あの、どうして私たちに一般校に行く機会をくれたのですか?」
「……余計な真似だったか?」
茜に視線を向けて、
「ふむ。お前たちがすでに
「い、いえ! 違います! 機会をくれて嬉しいです!」
茜は慌てて否定した。
「け、けど、私たちの前のリーダーとかはそんなことを言ったことなんてなくて……」
そう告げて、ギュッと拳を固める。
「結局、私たちは道具だったんです。珍しくて便利な道具……」
茜は唇を強く噛んだ。
「私たちがこんな力を持っていたから、お父さんやお母さんは殺されたんです……」
そう呟く。
「……そうか」
「芽衣の出自もそうだが、どれほど月日が流れてもやはり業の深い世界だな」
言って、彼は嘆息した。
「……
茜も立ち止まり、彼の顔を見上げた。
「私たちはどうなるんですか? いえ、私はどうなってもいいです」
ギュッと両手で彼の服を掴んだ。
「私はどうなっても……けど、葵だけは……」
茜は今にも泣き出しそうな表情で
「葵にだけは普通に生きて欲しいの。あの子にだけは幸せになって欲しいの。普通の世界であの子だけは……」
「……………」
茜の懇願に、彼は静かに耳を傾けていた。
「すまんな」
ややあって、
「お前たちを気遣ったつもりが、返って不安を抱かせてしまったか」
彼は腰を屈めて、茜と視線を合わせた。
「お前たちがいかなる道を選んでも否定はしない。その言葉に偽りはない。だが、今のだけは受け入れられぬぞ」
「………え」
茜が青ざめた顔で目を見開いた。
妹も見逃すつもりはない。
茜はそう捉えたが、
「お前が犠牲になってどうするのだ」
「それで葵が喜ぶのか? 姉を犠牲にして彼女は幸せになれるのか?」
「………え?」
茜は目を瞬かせた。
「お前が犠牲になる未来など論外だ。幸せになるのなら二人ともだ。どうすればいいのか。それを二人で話し合うがよい」
「話し合う……?」
茜は茫然と反芻した。
「妹が大切であるのならば尚更だ。そうして、お前たちが話し合って決めた道ならば
そう告げると、ポンと茜の頭を軽く叩いて、
「案ずるな。
茜は言葉もなく、ただ茫然としていた。
「今はゆっくりと考えよ」
最後にそう告げて、
茜はその背中を追う。巨漢の獅童に比べると、彼の体格はずっと小さいのだが、その背中はとても大きくて広く見えた。
ややあって玄関に到着する。と、
「茜」
おもむろに振り返って、
「は、はいっ」
茜は小さな体を震わせた。
「武宮たちには警告しておるが、
ふっと苦笑いを零す。
「その時はただ潰すだけだな。ここに関しても
「それは……月子さまを守れということですか?」
緊張した面持ちで茜がそう尋ねるが、彼はかぶりを振った。
「そうではない。あの子は今、タチの悪い男につけ狙われているからな。先程会った時もやはり緊張していた。お前たちにはあの子の友人として傍にいて欲しい。それに――」
一拍おいて、
「月子の傍にはエルナたちや六炉もいる。最も安全な場所だ。我ながら、今頃この台詞が出るとはな。やはりお前たちへの気遣いが足りなかったようだ」
「これからは気をつけよう。茜。留守を頼むぞ」
「は、はい……」
茜は頷く。
「では、行ってくる」
「……はい。いってらっしゃい」
そう告げて、茜は自分でも驚いた。
同時にドアが開かれて彼は出て行った。
ガチャン、とドアが閉まる。
茜は、しばしそこで立ち尽くしていた。
そうして、おもむろに、
……ギュッ、と。
自分の胸元を強く掴んだ。
(……「いってらっしゃい」なんて)
そんな言葉を掛けたのはいつ以来だろうか。
唇を微かに噛んで俯く。
うなじ辺りが徐々に熱を帯びていくのを感じた。
と、その時だった。
「あれ? お姉ちゃん?」
唐突な声に、茜の心臓が跳ね上がった。
「玄関なんかで何しているの?」
それは妹の声だった。
慌てて振り向くと、そこにはやはり葵がいた。
ただ妹は茜の顔を見るなり、「え」と目を見開いた。
「お姉ちゃん? どうしたの? 顔が真っ赤だよ?」
そんなことを指摘された。
茜は「えッ!?」と激しく動揺した。
「ち、違うから!」
自分でも訳が分からないまま否定してから、
「そ、それより葵! 月子さまのところに行くわよ!」
そう告げた。
「へ? 月子ちゃんのとこ? なんで?」
キョトンとする葵に、
「いいから!
茜はそう言って、妹の手を取って走り出すのだった。
小さな胸の奥で高鳴る鼓動を誤魔化すように――。
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