第240話 雪解けの夜➄

『―――に、《雪幻花スノウ》がいるらしいぞ』


 その噂は、泡沫のように浮かび上がった。

 そして瞬く間に拡散していく。


『マジかよ? またガセじゃね?』


『いや。何か人影が見えたって』


『誰かと戦っているらしい。女っぽい』


模擬象徴デミの姿も見かけたらしい。犬型らしいぞ』


『誰かが女王に挑んでんのか?』


『また返り討ちやろ。瞬殺やって』


『いや。結構踏ん張ってるって話だぞ』


『マジで? こいつはもしかして』


『ああ。いよいよ生まれるのかもしんねえ』


キングがか?』


『そうかもしんねえ。とにかくだ』


『おう。こりゃあ行くしかねえな』


『そうだな。行ってみようぜ! ―――へ』




 …………………。

 ……………。

 場所は移ってヘリポート。

 その時、彼女――天堂院六炉は膝を抱えていた。

 和傘も放り出して、顔を埋めて沈黙している。


(……また言われた)


 俯いたまま、ギュッと唇を噛む。

 かつて研究所で出会った怪物に言われた言葉。

 それをまた言われてしまった。


(……ムロは)


 ずっと考えないようにしていた。

 自分が誰とも結ばれない一人ぼっちの怪物であることを。

 父が自分に男性の隷者をつけようとした時。

 不快感以上に、ゾッとした。

 確かに好きでもない人に抱かれるなんて嫌だ。

 だが、あの時、あの怪物の言葉を鮮明に思い出したのだ。

 もし誰かと結ばれようとしたら、自分はその人を――。


 そう考えると血の気が引いた。

 だからこそ、彼女は暴れてまで出奔したのである。

 それからの旅も、ただ現実を誤魔化すためのようなものだった。

 伴侶を探すふりをして、ひたすらに逃げ続けていたのだ。

 自分が一人ぼっちである現実から。


(……ムロは)


 ピシピシピシ……。

 ヘリポートに霜が降りる。

 それは彼女を中心に広がり、ヘリポートどころかビルまでも凍結させていく。


(……ムロは)


 つうっと涙が頬を伝う。

 人でもない。化け物でもない。

 どうしようもない孤独感が彼女を圧し潰そうとしてた。


「……ムロは……」


 嗚咽も零れようとしたその時だった。

 不意に頭上が明るくあったのだ。

 まるで星でも落ちて来たかのように。


「……え?」


 六炉は驚き、顔を上げた。

 すると、そこには――。


「……………」


 言葉を失う。

 そこには無数の灯火が浮かんでいた。

 満天の空がそのまま降りて来たかのような光景だ。

 彼女が琥珀色の眼差しを瞬かせていると、




「……やれやれだ」




 不意に声が聞こえてきた。

 六炉がハッとして顔を横に向けると、そこには一人の青年がいた。

 帽子を片手で押さえた、灰色の紳士服を着た青年だ。


「……あ」


 六炉は目を見開いた。

 見覚えのある青年だった。

 何度も何度も画像で見た青年だった。

 ただ、彼はとても困ったような表情を浮かべていた。


「本当にやれやれだ」


 そして彼は呟く。


「この街に来てから、どうもオレは女の泣き顔ばかり見ているな」



       ◆



 まさか、こんな形で出会うとは思っていなかった。

 それが真刃の率直な感想だった。

 彼がここに来たのは彼女と会うためではない。

 この場所に巷を騒がす殺人鬼。

 その黒幕である名付き我霊がいると考えたからだ。

 どうにも奴らは高所を好む。

 前回の経験も踏まえて、この場が最も怪しいと睨んだのだ。

 殺人鬼自体は芽衣たちに任せ、真刃は単独で名付きを討伐するつもりだった。

 しかしながらフォスター邸に待機中の従霊たちまで招集して訪れてみれば、そこには名付きの姿はどこにもなく、か細くうずくまる娘が一人いるだけだった。


(……あの小僧の姉か)


 真刃は、双眸を細めて周囲を見渡した。

 ヘリポートは完全に凍り付いている。まるで氷河の世界だ。

 そんな荒涼たる世界で、彼女は一人で泣いていた。


「……天堂院六炉だな」


 状況は分からないが、まずはそう尋ねると、


「…………」


 彼女は、こくんと頷いた。


「……あなたは」


 彼女――天堂院六炉は瞳に涙を溜めたまま問い返す。


「……久遠、真刃?」


「ああ」


 真刃も頷いた。


「久遠真刃だ。お前を探していた。だが……」


 再び周辺を見やる。


「ここに名付きは居なかったのか?」


「……名付き? 名付き我霊ネームドエゴスのこと?」


 ゴシゴシと涙を拭って、彼女は立ち上がった。


「それなら居た。けど逃げた。ムロに、ムロに酷いことを言って……」


 再び涙が零れ落ちそうになる。


「…………」


 一方、真刃は言葉に迷っていた。

 どうやら彼女も名付きの存在に気付いてここに来たようだ。

 だがしかし、相対するも精神を抉られるような言葉を投げられ、その隙に逃げられてしまったといったところか。


(七奈が姉は無垢だと言っていたが、案外事実なのかもな)


 酷く落ち込んでいる彼女にそんな感想を抱く。

 目の前の彼女は燦や月子よりも幼く見え、それ以上に危うさを感じた。

 触れれば崩れてしまいそうな雪の儚さだ。


(聞きたいことがあったが、まずは落ち着かせることが先か)


 そう判断する。

 予定とは違ったがこうして会えたのだ。

 一旦、彼女を連れ帰って落ち着いてから話を聞けばいい。

 そう考えていた矢先だった。


「……あなたのことは知っている」


 六炉が口を開いた。


「ああ。妹から聞いておるのだな」


 真刃がそう告げると、六炉はかぶりを振った。


「七っちゃんはあなたのことを三代目だって言ってた。けど違う。『久遠真刃』に三代目なんていない。あなたは唯一の人。本物の久遠真刃」


 一拍おいて、


「私たち八人の兄弟姉妹が生まれる切っ掛けになった存在。百年前、帝都という街を滅ぼした本物の《千怪万妖骸鬼ノ王》」


「……な、に?」


 その台詞に、真刃は大きく目を見開いた。

 同時に夜空に浮かぶ灯火の群れも明滅する。従霊たちもどよめいていた。


「……何故それを知っている」


 表情を鋭くして真刃が問うと、


「鳥さんが教えてくれた」


 六炉はそう返してきた。

 真刃にとっては充分な回答だった。


(やはりあの鳥擬きが暗躍していたか)


 ますますもって彼女から話を聞かねばらない。

 そう思っていると、


「……あなたが本当に本物の久遠真刃なら……」


 六炉はグッと両手を固めて告げる。


「……ムロと戦って」


「なんだと?」


 真刃は眉をひそめた。


「どうしてオレがお前と戦わねばならんのだ?」


 もっともな問いかけをする。

 すると、六炉は泣き出しそうな顔をして。


「伝承通りならあなたは強いから」


 ギュッと唇を噛む。


「きっとムロよりも強いはずだから。だからお願い。ムロにその強さを見せて」


 それは明確な宣戦布告だった。

 聞きようによっては戦闘狂の台詞のようにも思える。

 しかし、彼女の琥珀色の眼差しはずっと涙で溢れていた。


『……主よ』


 灯火の一つ――猿忌が声を掛けてきた。


『この娘が何を抱えておるのかは分からぬ。だが……』


「……分かっておる」


 真刃は小さな声で返した。


「何かオレと戦わねばならぬ事情があるのだろうな」


 あの鳥擬きに何かを言われたのか。

 それとも彼女の個人的な事情なのか。

 詳細は分からないが、この無垢なる娘は必死の想いで懇願しているのだ。

 ――自分と戦って欲しいと。


「……それが」


 真刃は問う。


「お前の救いとなるのか?」


「……うん」


 六炉は頷いた。


「今ここでか? 場所や日は改められないのか?」


 続けてそう尋ねると、六炉はフルフルとかぶりを振った。


「今がいい……」


 大粒の涙を零す。


「今すぐがいいの……」


 言って、祈るように胸元で両手を重ねた。

 真刃は帽子を押さえて視線を伏せる。

 数秒ほどの沈黙の後、小さく嘆息した。


(やれやれだ)


 以前、金羊が言っていた通りだった。

 どうも自分は幸薄い娘には本当に甘いらしい。


「……仕方あるまい」


 真刃はそう答えた。

 六炉は涙で濡れた瞳を見開いた。


「……い、いいの?」


 不安そうな顔でそう尋ねてくる彼女に、真刃は苦笑いを零した。


「事情は分からんが、それがお前の救いとなるのだろう? ならば致し方あるまい。その程度ならば付き合ってやろう。ただし……」


 そこで真刃は双眸を細めて。


「全力で挑んでくるがよい」


 そう忠告する。

 六炉は驚くように目を瞬かせた。

 それに対し、真刃は不敵な笑みを見せてこう告げた。


「心して臨むのだな。こといくさにおいてオレは本当に強いからな」

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