第233話 凶星輝く④

 ――深夜。

 神楽坂姉妹は、人気のない公園を走っていた。

 上空から見て楕円状に芝生が広く敷き詰められた公園だ。

 舗装された左右の道には幾つかの店舗。近くには有名な動物園や美術館があり、大小の積み木が寄り添ったような国内最大の商業ビルがそびえ立つのが見える場所である。

 彼女たちは店舗沿いの舗装道を走っていた。

 ……はァ、はァ、はァ。

 荒い息が零れる中、


「急いで! 葵」


 姉の茜が、妹の葵の手を引いて告げる。


「もう無理だよォ、お姉ちゃん……」


 一方、葵は目に涙を溜めていた。

 ぐすっと鼻を鳴らす。


「まだよ!」


 茜も目尻に涙を溜めていたが、勝気な彼女は必死に自分と妹を鼓舞していた。


「あと少しで《崩兎月》の縄張りだから! そこまで逃げれば!」


「無理だよォ……」


 妹の涙は止まらない。


「鬼塚もやられたんだよォ。《崩兎月》もあいつ・・・には勝てないよォ」


 葵の足が遅くなっていく。

 茜は強く妹の手を掴んだ。


「だったら、次は《鮮烈紅華レッドリリィ》の縄張りに逃げ込むわ! 走って葵! 逃げないとあいつ・・・に殺されるのよ!」


「……お姉ちあゃん」


 とうとう葵は足を止めた。

 ひっく、ひっく、とその場でしゃっくりを上げる。


「もう無理だよォ、《魂鳴りソウルレゾナンス》はもう使っちゃったから次は逃げられないよォ」


「……それは……」


 茜は歯を軋ませた。

 彼女たちの《魂鳴りソウルレゾナンス》は一日一度しか使えなかった。

 しかも、インターバルに三日を要する。彼女たちの力の欠点だった。

 それを今朝の《黒い咆哮》の襲撃時に、逃走のため使用してしまった。

 完全に無力になった彼女たちは、どうにか身を隠しつつ、あの場所から最も近かった三強の一角、《崩兎月》の縄張りを目指していた。

 リーダーの千堂と交渉し、保護してもらうためだ。


 なにせ、あの怪物は……。


あいつ・・・、私たちを殺すってェ……」


 葵は声を上げた。


「どこに逃げても殺すって言ったぁ……」


「…………」


 茜はグッと唇を噛んだ。

 彼女たちは、あの怪物に死の宣告をされていた。


「ねえ、お姉ちゃん……」


 葵は茜の肩を掴んで、額を姉の胸に当てた。


「帰ろう。お家にィ。あの神社にィ……」


 ポロポロと涙を零して告げる。


「私、死ぬのならあの場所がいいよォ」


「……葵」


 茜はグッと拳を固めた。


「しっかりしなさい! 葵――」


 と、絶望に打ちのめされている妹をどうにか叱咤しようとした時だった。

 ドンッ、と何かが落下してくる音が聞こえた。

 少女たちは大きく肩を震わせた。

 そして、恐る恐る後ろへと振り向くと、


『……見ツケタゾ』


 彼女たちは息を呑む。

 そこには、やはり怪物がいた。

 白い牙と鋭い爪。全身が黒い獣毛で覆われた狼男である。

 特に首元には毛が多く、まるで鬣を持っているかのようだった。

 身長はニメートル程度と一般的な模擬象徴デミ・シンボルよりもかなり小柄だったが、その小さな体躯でこの怪物は鬼塚の模擬象徴デミ・シンボルさえも凌駕したのだ。


『鬼ゴッコハ終ワリカ?』


 怪物がそう尋ねてくる。

 葵はその場にへたり込みそうになるが、


「走りなさい! 葵!」


 茜が一歩前に踏み出して叫んだ。


「ここまで来たらもうそこだから! 早くッ!」


「お、お姉ちゃん……」


「ここは私が時間を稼ぐから! 千堂を連れてきなさい!」


「む、無理だよォ、私たちは戦えない……」


「いいから早く行きなさい!」


 茜の叫びに、葵はビクッと震えながらも走り出した。

 茜は、妹の方を振り向いたりはしない。

 目尻に涙を浮かべつつも、怪物を見据えていた。

 その決死の眼差しだけで怪物の動きを抑え込んでいた。 


「……あなたは」


 茜は言う。


「女は犯してから殺すのでしょう? 私は女よ」


 細い肩を震わせる。


「だから私を犯しなさい。相手をしてあげるから」


 茜は勇気を振り絞って怪物を挑発した。

 すると、




『――エクセレントッ!』




 突然、声が聞こえてきた。

 怪物の鬣に覆われた喉元辺りから女性の声がしたのだ。


『素晴らしいよ君は! 妹を逃がすためにまさしく体を張るなんて!』


 声は随分と興奮していた。


『感動した! 嗚呼! 私の怪物君にカメラをお願いしてよかったよ! 本当にナイス判断だったよ! おかげで素晴らしいモノが見れたよ!』


「え?」茜は困惑した。「何を言っているの? あなたは誰?」


『私が誰でも君には関係ないさ! けど、ありがとう! 君の妹愛に満腹だ!』


『……満足シタカ?』


 と、怪物が自分の鬣に話しかける。

 女の声は『うん!』と嬉しそうに答える。


『けど、彼女とエッチはなしだからね。時間稼ぎに付き合ってあげたいのは山々だけど、流石に自分の男が他の女を抱くところを中継されるなんて堪ったもんじゃないしね』


 と、うんざりしたような声色で告げてから、


『彼女の勇気に敬意を表してあっさり殺してあげて。それと寂しくないように妹ちゃんもすぐに殺してあげるといいよ』


『……分カッタ』


 怪物はそう答えると、一瞬で間合いを詰め、茜の肩を両手で掴んだ。

 茜は「ひッ!」と声を零すが、もう逃げることも出来なかった。

 大きなアギトが開かれる。

 茜は目を見開いた。


 ――が、その時だった。

 唐突に怪物の腕の中から茜が消えたのだ。


『――――何ダト?』


 流石に怪物も驚いた。

 そうして、


「もう大丈夫だから」


 声がする。女の声だが、先程の少女たちの声とは違う。


「よく頑張ったね。うん。君はお姉ちゃんだ。よしよし」


 そう言って赤い髪の少女を抱きしめ、頭を撫でる女がいた。

 猫のような耳と尻尾と体毛。芝生には爪棍を突き立てている。

 怪物の知る女だった。


『……《ナイトウォーカー》カ』


「……君は」


 女――芽衣は哀し気な眼差しで怪物を見据えた。


「……グレイ君だね」


 芽衣の腕の中で茜が「え?」と目を剥いた。


「君に何があったの? その姿は模擬象徴デミ・シンボルなんかじゃないよね?」


『……オ前ニハ関係ナイコトダ』


 言って、ズシンと芽衣に向かって歩き出す。

 が、次の瞬間、

 ――ズドンッ!

 黒い巨拳が、黒狼を殴打した。

 掬いあげるような一撃で黒狼は吹き飛ばされた。


『……この感触』


 巨拳の主――黒い獅子の獣人、獅童が呟く。


『確かに模擬象徴デミ・シンボルではないな。まさか生身なのか?』


『マジかよ。あいつマジモンの化け物になったのか?』


 そんな呟きと共にさらにもう一体、怪物が現れる。

 全身が緑色の鱗で覆われた蜥蜴男リザードマンだ。


「……あ」


 茜はその蜥蜴男リザードマンを見て青ざめた。

 怪物の左腕に「ひっく、ひっく」と泣く妹が抱きかかえられていたのだ。


「葵を離せ!」


「ああ~、安心してェ」


 芽衣は苦笑を浮かべて、茜の頭をポンポン叩いた。


「確かに一見すると怪物に捕まった女の子だけど、あのトカゲ君も一応味方だし、妹ちゃんも保護しただけだからぁ」


「え? ほ、保護? 味方……?」


「うん。そうだよォ」


 芽衣は、その豊かな胸の中に茜の顔を押し込んだ。

 そして、


「君は本当によく頑張ったから。後はウチらに全部任せておいて」


 母のように優しく目を細めて茜の頭を撫でる。

 茜は「ふぐっ……」と声を詰まらせて、しゃっくりを上げ始めた。


『おい。芽衣』


 葵を抱きかかえた蜥蜴男リザードマン――武宮が近づいてきた。


『あいつとは俺と獅童がやる。お前はこいつら連れて下がってろよ』


「そうもいかないよォ」


 茜を抱きしめたまま、芽衣は苦笑いを浮かべた。


「流石にあれはウチが抜けるとキツイでしょォ」


 と、芽衣が告げた時、怪物が跳躍し戻ってきた。

 両足で着地する黒狼の姿に、ダメージを受けた様子はない。

 熱い呼気と共に黒狼が口を開いた。


『……マサカ、オ前タチト再ビ会ウトハナ』


『そうだな』


 ゴキンッと拳を鳴らして獅童が言う。


『奇しくもブラマンで戦ったメンバーが勢揃いか』


『けどよ、こんな形でリベンジマッチするとは思わねえよ』


 と、武宮も葵を降ろして言う。「やあ! やだあ! トカゲさぁん……」としがみつく葵を、武宮は『大丈夫だ。下がってな』と言って優しく頭を叩いていた。


『……結果ハ同ジダ』


 黒狼が言う。


『ダガ、オ前タチヲ喰ラエバ、オレハサラニ強クナレル』


「……そこまで」


 芽衣は悲痛な眼差しを見せた。


「そこまで君は堕ちてしまったの? それじゃあ我霊エゴスじゃない」


『……知ッタコトカ』


 黒狼はそう言い切った。

 すると、




「……流石にその台詞は聞き捨てならへんな」




 またしても新たな声が参入してきた。

 黒狼が、鋭い眼光を声の主の方へと向けた。

 そこには目の細い和装の男がいた。

 傍らには、双子らしき二人の女性を従えている。


『……千堂カ』


「いかにも」


 千堂は、手に持った扇子をパンと開いた。


「《崩兎月》のリーダー。千堂晃や。話すのは初めてやな。グレイ君」


『……フン』


 黒狼は、鼻を鳴らした。

 それから芽衣たちを見やり、


『ナルホド。コイツラハ、オ前ノ軍門二降ッタトイウコトカ』


「ああ~、それはちゃうよ」


 千堂は扇子を扇いだ。


「軍門に降ったのはむしろボクの方や」


『……何?』


 黒狼が眉間をしかめた。


「ボクはね」


 千堂は、細い目をさらにすぼめて告げる。


「三強の立場上、ブラマンでは煽ったけど、ホントは覇権なんてどうでもええねん。ボクと、ボクの愛しい琴音ちゃん。そんでボクの仲間と弟子たち。その子らを守れて、後はボクの趣味兼仕事に没頭できたらもう言うことなしやね」


 一拍おいて。


「だから静観しとってん。情報収集に徹してたんや。誰が勝ち馬になるか。それを見極めようとしとったんよ」


 ふっと苦笑を浮かべた。


「まさか本命の一人の西條ちゃんが攫われるとは思わんかったわ。けど、おかげで勝ち馬は見えたし、パイプも出来た。ここに来たのはボクの株を上げるためでもあったんやけど」


 そこで表情を消した。


「流石におんどれみたいな外道は放置できんわ。おい。ワンコロよ」


 パシンッと扇子を閉じる。

 すっと開かれた瞳には、まるで蒼い炎が映っているようだった。

 そして三強の一角、千堂晃は告げる。


「この腐れ外道が。何十人も殺しくさって。この落とし前はつけさせてもらうで」


 ――と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る