第186話 帳が降りて、幕は上がる③
赤い水平線に夕日が沈む。
緩やかに、夜が訪れようとしていた。
その景色を見やり、紳士服に着替えた真刃は、少しばかり黄昏ていた。
バルコニーの傍で双眸を細めている。
――と、
『疲れたのか? 主よ』
傍らで宙に浮かぶ猿忌が尋ねる。
「いや。そうではない」
真刃は、苦笑を零した。
「流石に、今日は圧倒されてな」
そう呟いて、夜となって輝き始めた
今の時代。あの時代と最も違う点は夜の明るさだろう。
あの時代にも
まるで星が地上に降り立ったようだった。
「これがすべて娯楽のためだというのだから恐れ入る」
しみじみと呟く。
『確かにな』一方、猿忌も双眸を細めた。『豊かな時代になったものだ』
と、遠き時代の者たちが哀愁を感じている時だった。
――コンコン。
ドアがノックされた。
真刃は振り返り、「開いている」と告げた。
すると、「失礼します」という声と共に、ドアが開かれた。
部屋に入って来たのはエルナだった。
しかし、いつものエルナとは違う。
真刃が紳士服を着ているように、彼女もドレスを身に着けていた。
肩を露出し、首からの胸元の部位がレース状になった、薄紫色のドレスである。
髪型はいつも通りだ。輝くような銀色の髪に、片房のみに巻かれた金糸の髪飾り。けれど、その唇にだけは、うっすらと紅を引かれていた。
可憐さは残しつつ、大輪の華へと。
とても十五の少女とは思えない艶やかさを纏って、エルナは歩み寄る。
優雅さを放つ足取りだが、彼女の表情は、少し緊張した様子だった。
猿忌が『主よ。分かっておるな』と耳打ちする。
真刃は嘆息した。
「猿忌よ。
そう返しつつ、真刃は告げる。
「よく似合っている。綺麗だぞ。エルナ」
それを聞いた途端、エルナは微笑んだ。
「ありがとうございます。真刃さん」
言って、真刃の顔を見上げる。
「そう言ってもらえただけで、あの戦いを制した甲斐はあります」
食事にはまだ一時間ほど時間がある。
その間の時間を独り占めしたいと言う燦の提案に、妃たちは全員が乗った。
そして行われた壮絶なジャンケン大会を、エルナが制したのである。
燦が地団駄を踏んだことは言うまでもない。
壱妃・エルナ=フォスター。初めての勝利であった。
「うふふ」
勝者の特権として、エルナは真刃の左腕に両手を絡めた。
真刃は邪険にしない。そもそもエルナを邪険にしたことなど一度もない。
「今日は楽しめたか?」
優しい眼差しで、エルナにそう尋ねる。
エルナは笑顔で「はい」と頷いた。
「そうか」
真刃は、目を細める。
エルナが楽しめたことは良いことだ。
だが、やはり気になることがある。
「燦と月子とは、少しは打ち解けれたか?」
そう尋ねた途端、エルナが少しムッとしたように頬を膨らませた。
真刃は、内心で「う」と呻いた。
「やっぱり、今回のこれは、それが目的だったんですか?」
「……む。そのな……」
エルナは真刃の腕を掴んだまま、ジト目で彼の顔を見つめた。
真刃は、少し困った顔をしていた。
そんな彼の表情に愛しさを覚えつつ、エルナは嘆息した。
「まあ、いいですよ。そろそろ態度を改めようと思ってましたし」
「……そうだったのか?」
意外な言葉に、真刃は少し驚く。
それに対し、エルナは「はい」と頷き、
「私は壱妃ですよ。妃の長です。いつまでも拗ねてはいられません。まあ、月子ちゃんは良い子だし、燦の方も悪い子じゃあないようですから。ただ、私としては……」
エルナは、真刃と視線を重ねた。
数瞬の沈黙。
「最近少し寂しいです。真刃さんに少しぐらい甘えたいの」
エルナは微笑んだ。
そうして、
「一つだけお願いがあります」
ぎゅうっと柔らかな胸を押し付けて、おねだりする。
「年功序列順の件は、まだかなたと相談してないから一旦置いときます。けど、私はずっと思ってたんです。私も専属従霊が欲しいって……」
『……ふむ』
その時、猿忌が口を開いた。
『専属従霊か。エルナの場合は
「猿忌って、やっぱり真刃さんの傍にいることが多いじゃない」
猿忌に目をやって、エルナは言う。
「かなたの赤蛇や、刀歌の蝶花とは違うわ。専属って感じじゃないし」
『確かにそうだな』
猿忌は、あごに手をやった。
『妃たちもすでに五人。エルナだけの時ならば我も兼任できたが、やはり、我は従霊の長として主に仕える立場にある。専属は厳しいか……』
そこで主に目をやった。
『エルナの希望はもっともだ。燦と月子の専属従霊も決まっておらんしな』
「……専属従霊か」
真刃は、腕を掴むエルナの顔に目をやった。
どこか懐かしさを感じるその紫色の瞳を見つめつつ、
「
「ええ~」エルナが少し不満そうな声を上げた。
「私の専属従霊の話なのに、燦たちも貰うことになってる」
「……そう言うな。エルナ」
真刃は苦笑を浮かべた。
「
『はいはァい! なら、月子ちゃんにはアッシが立候補するっス!』
その時、真刃のスマホが騒ぎ出した。金羊の声である。
『愚かなことを申すでない』
しかし、その意見を従霊の長が一蹴する。
『お
『う。なら分身体で……』
なお食い下がる金羊に、
『分身体では、護衛としては力不足だ』
猿忌は、容赦なく却下する。
『赤蛇も蝶花も、180にも届く高い
「え? 赤蛇たちってそんなに
エルナが、驚いた顔をした。
「ああ。その通りだ」真刃が補足する。
「元々、赤蛇には
と、告げてから、少し眉をひそめた。
「しかし、そうなると現時点で、赤蛇や蝶花に並ぶ者、もしくは凌ぐ者を挙げるとすれば、猿忌、金羊、刃鳥……」
『それから新入りの
と、呟いてから、金羊は困ったように笑った。
『ちょっと癖の強い子たちばかりっス』
『確かに、あやつらは縛られることを嫌う性格だからな。その中では、刃鳥が最も適任ではあるが、刃鳥は金羊同様に主の側近。専属には出来ぬぞ』
猿忌が言う。
すると、真刃の胸ポケットから『ええ。そうですわ』と女性の声がした。
そこに差し込まれたペーパーナイフ。刃鳥の声だ。
『お妃さま方の専属従霊は大変光栄ではありますが、わたくしは、いざという時のための真刃さまの剣。真刃さまのお傍を離れる訳には参りませんわ』
「……ふむ。どうしたものか」
真刃はエルナの顔を見やる。
彼女は、不安そうな顔をしていた。
その表情に、真刃は不意に気付いた。
(……ああ。そうか。そうだったのか。エルナは……)
遠き日を思い出して、真刃は彼女の頬に手にやった。
エルナは「あ」と呟き、微かに頬を朱に染めて、猫のように瞳を細めた。
その様子に、とても懐かしさを感じる。
(燦はまるで小さな杠葉のようだ。だが、エルナは……)
かつて愛した――いや、今でも愛してるもう一人の女性を思い出す。
容姿的にいえば、かなたの方が彼女には似ている。
けれど、こうして頬に触れて、自分などに安堵してくれる表情を見ると……。
(紫子はもういないというのに)
胸の奥が、強く痛む。
初めてエルナと出会った時、彼女を見捨てられなくて当然だ。
(まったく。
無論、エルナを、彼女の代わりにするつもりはない。
エルナと、紫子は血の繋がりさえない別人だ。
エルナを失いたくない。
エルナを守りたいと願う想いもまた、紫子に対する想いとは別物だった。
(ともあれだ)
真刃は、気持ちを切り替えた。
(エルナ、燦と月子にもだ。護衛を担う従霊は――)
と、考え始めた時、
『……ふむ。思い返せば、最初に専属従霊を務めたのは五将であったな』
おもむろに、猿忌がそう呟いた。
『まあ、あやつの場合は、いささか特例的ではあったが』
「え? ごしょうって?」
真刃に頬に触れられたまま熱く見つめられて、「も、もしかして、私ってここで初めてを迎えるの?」と、内心では緊張した様子を見せていたエルナが、猿忌の言葉を反芻する。
真刃は「……猿忌?」と眉をひそめて、最古の従霊に目をやった。
『ふむ。主よ』
猿忌は、続けてこう告げた。
『エルナたちの専属従霊も、前例に倣って従霊五将から任命してはどうだろうか』
「……何を言っておる」
真刃は、表情を険しくした。
「今代において従霊五将の座はすべて空席だ。それはお前もよく知っておろう」
『……許せ。主よ』
一拍おいて、従霊の長は言う。
『秘匿にしていたことは深く詫びよう。まだ時期ではないと判断していたのだ。だが、主も今の世の暮らしに慣れてきた。金羊を始め、世の仕組みに精通した従霊も多くなった。ならば、ようやく、あやつらを目覚めさせる時が来たのではないかと思ってな』
「……猿忌?」
真刃がさらに眉をひそめた。
と、その時。
――コンコン、と。
おもむろに、ドアがノックされた。
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