第172話 帰ってきた幼馴染⑤
「その、率直に言うと姉さまは《
重い沈黙の後。
刀真は、訥々と姉の近況を語り始めた。
「詳しい経緯は僕も知らないけど、相手はかなり年上の男性で、姉さまはその人に挑んで負けてしまったそうです。そして、その日の内に
「……………」
剛人は口を開けたまま、硬直していた。
「姉さまが御影家を出たのは、去年の十二月ぐらいでした。その人に呼ばれたのかは分からないけど、姉さまは自分から御影家を出て、その人の所に行ってしまいました……」
刀真は、八歳児とは思えない重い口調でそう告げた。
カフェの一席に沈黙が降りる。
そして、
「俺の修行中に凛々しかった幼馴染がオッサンに寝取られた件ッッッ!」
――ズダンッ!
と、剛人がテーブルの上に崩れ落ちた。
刀真も、店員も、近くにいた他の客もギョッとした。
が、慌てて刀真が「き、気にしないでください!」と周囲にフォローを入れた。
すると、剛人が青ざめた顔で立ち上がった。
「――刀真ッ!」
強く、刀真の両肩を掴む。
「どういうことだッ! 刀歌はどうなっちまったんだよッ!」
ブンブン、と弟分の首を振る。
「男嫌いのあいつが
剛人はさらに青ざめる。
それは、最も恐れていた事態だった。
脳裏に浮かぶのは、破れた服を片手で抑え、屈辱の表情を浮かべる刀歌の姿だ。
誇り高い彼女は自決を考えるが、《
魂さえも屈服させる。それが《
そんな彼女に、下卑た男がゆっくりと迫っていき……。
「
周囲の目に気を掛ける余裕もなく、剛人は叫んだ。
「刀歌ああああッッ! おい! 刀真ッ!」
「あ、は、はい!」
剛人の激情に完全に呑まれた刀真は、反射的に返事をした。
「これから刀歌を助けに行くぞ! そのオッサンの所に連れていけ!」
「え、えっと、それは……」
言い淀む刀真。
「すぐに行くぞ! さあ――」
「ちょ、ちょっと落ち着いて! 剛人兄さん!」
流石に、刀真は叫んだ。
「それは多分、意味がないよ。その、まだ情報があるんだ」
「……なに?」
刀真の台詞に、剛人は眉をひそめた。
「他の情報だと?」
それを言われては、聞かずにはいられない。
剛人はしばし逡巡するが、焦る気持ちを抑え込んで椅子に座った。
刀真は、ホッとした表情を浮かべる。
「それで、その情報ってのは何なんだよ?」
剛人が、険しい表情のまま尋ねてくる。
刀真は嘆息して、
「……それは観た方が早いよ」
そう告げて、自分のスマホを操作した。
そして昨日、送られてきたばかりの動画を画面に出す。
「これを観て」
刀真は、それを剛人に手渡した。
剛人は眉をひそめつつも、その動画をタップした。
『かなた。上手く撮れているか?』
その動画は、幼馴染のその台詞から始まった。
(……おお)
そこに映るのは、星那クレストフォルス校の制服を着た刀歌の姿。
一年前よりも成長し、さらに綺麗になった幼馴染の姿である。
『刀真。今日は、あの人の姿だけでも紹介しておこうと思ってな』
刀歌はそう告げると、長い髪を揺らして、見知らぬ廊下を小走りに進む。
動画は、彼女の背中を追った。
そうして、リビングへと入り、
『主君っ!』
そう告げて、ソファに座っていた人物の首に、後ろから抱き着いた。
アングルが変わる。刀歌の横顔を映し出した。
(………は?)
それは、幼馴染の剛人さえ、見たことのない顔だった。
微かに紅潮した頬。優し気に細めた眼差し。口元も綻んでいる。
そんな表情を見せる彼女が抱き着いた人物は、二十代後半ほどの男性だった。
意外と、凛々しい顔つきの青年だ。
『どうした? 刀歌?』
ソファに座って読書をしていたその男性は、刀歌に尋ねる。
すると、刀歌は顔を近づけて『ん』と声を零し、
『昨夜の私はいっぱい頑張っただろう? 主君の期待にも応えた。だからご褒美をくれ』
『褒美? 何が欲しいのだ?』
『弟に主君を紹介したい。先に主君の姿だけでも見せたかったんだ』
『姿を見せる?』
青年は、視線をカメラに向けた。
『かなた? 何をしている?』
『刀歌さんに頼まれて、動画を撮っています』
聞き覚えのない少女の声も入る。
そんなやり取りが続いた後、刀歌が『刀真』と、カメラに視線を合わせた。
『きちんと紹介するにはまだ時間がかかるかも知れないけど、知っておいてくれ』
刀歌は、とても優し気に微笑んだ。
『私は、とても幸せなのだと』
そう告げて、動画は終わった。
剛人は、コトンと、スマホをテーブルの上に置いた。
しばしの静寂。
「………………」
剛人は、ずっと無言だった。
椅子の背もたれに体を預けて、真っ白になった顔で天井を見上げている。
刀真は何も語れない。屍と化した兄貴分を静かに見つめるだけだ。
その時、スマホが一瞬だけ鳴った。
刀真は、恐る恐る自分のスマホに手を伸ばす。
(……う)
見ると、それは姉から連絡だった。
内容は、先程の青年、そして友人たちと一緒に、週末の三連休に、とある有名なレジャーランドに遊びに行くというモノだった。
「……誰からだ?」
剛人の呟きに、「ね、姉さまからです」と答える刀真。
「今週末、さっきの人、それとお友達と一緒に『ドーンワールド』に行くそうです」
「……そっか」
剛人は、かはあっ、と大きく息を吐き出した。
「……それって、ホテルもある有名な大レジャーランドだったよな。《
「姉さまは、さっきの人のことを、運命の人だと言ってました」
刀真は辛そうに続ける。
「愛する人だとも」
「……そっか」
剛人は、額を方手で覆った。
「刀歌の奴は、マジであのオッサンに惚れてんだな」
「……剛人兄さん……」
「なら、俺は幼馴染として、あいつの未来を祝福してやるべきなんだろうな」
そう呟く剛人。
刀真が「……剛人兄さん」と、声を掛けようとした時だった。
「なんて言えるかアアアアアッッ!」
突如、剛人が立ち上がって叫んだ。
刀真はギョッとして、周囲に目をやる。店員も他の客もやはり驚いている。
「に、兄さん! 落ち着いて! ここ店内!」
「これが落ち着けるかアアアッ! 俺が何年刀歌を想い続けたと思ってんだああッ!」
剛人は、ダンッと、両手をテーブルに叩きつけた。
「それにホントはすっげえ悩んだんだぞ! セイラもラシャも綺麗で魅力的でさ! 空港の時なんか、ここで童貞を捨てるべきかと顔には出さずに必死に悩んだんだッ!」
「ご、剛人兄さんっ!? 何言ってるのっ!?」
「こっちの話だッ! とにかくだッ!」
剛人は叫ぶ。
「このままじゃあ全ッ然、納得いかねえッ! 刀真ッ! お前だってあんな歳の離れたオッサンが
「う、うん。よく知らない人だし」
幼い刀真は素直に答える。剛人は「そうだよなッ!」と勢いに乗った。
「あのオッサンを見定めなきゃなんねえ! 刀歌に相応しい男かをな! そんでだ!」
剛人は、グッと拳を固めた。
「もし、刀歌に相応しくねえ奴なら、刀歌が騙されてるっていうんなら、俺があいつを取り戻す! あのオッサンをぶちのめして、俺があいつを奪ってみせる!」
「ご、剛人兄さんッ!」
兄貴分の宣言に、刀真は目を見開いた。
「刀真ッ! 俺たちも行くぞ! 今週末、ドーンワールドに!」
剛人は告げる。
「そこが決戦の場だ! そこであのオッサンをぶちのめして刀歌を取り戻すぞ!」
「は、はいっ!」
コクコクと頷く刀真。何やら、目的が『見定める』を飛ばして『ぶちのめす』にすでに確定していたが、兄貴分の意気込みは凄かった。
店員も、他の客も、その気迫に呑まれて、パチパチと拍手するぐらいだ。
こうして。
金堂剛人。御影刀真も週末に向けて準備をすることになったのである。
ただ、そこで待ち構えるモノは――……。
◆
キラキラ、と。
世界が、煌めいている。
あらゆる遊具がライトアップされ、その輝きは、夜空の星さえも塗り潰す。
まさしく
光の世界の中で、様々な人間が笑みを零している。
そんな中を、一人のピエロが進む。
頭にはとんがり帽子。風船を片手に持った手足の細長いピエロだ。
カラフルな燕尾服が目立つピエロだが、この場においては自然な存在だ。
誰も彼を気にする様子はない。
むしろ、若い女性たちと一緒に写真も撮っているぐらいだ。
女性たちと手を振って別れて、ピエロは再び歩き出す。と、
「……ヒック」
不意に、下から声がした。
視線を下げると、そこには五歳ぐらいの少女がいた。
「ピエロさん」少女は潤んだ瞳で言う。「パパとママがいないの……」
小さな手で、ぎゅうっと燕尾服を掴む。
どうやら迷子のようだった。
ピエロは頷いた後、少女を自分の肩の上に乗せた。
細い腕とは思えない力強さだ。ピエロは安定した足取りで進む。
目立った状態で、少女は「パパぁ! ママぁ!」と周囲に叫んでる。
ピエロも、キョロキョロと周辺を確認していた。
ややあって、何かを見つけたのか、ある方向に歩き出した。
すると、
「文香っ!」
ピエロの歩く先にいた女性が、駆け寄ってきた。
二十代後半ほどか、少女によく似た顔立ちの女性である。
その後に「文香ッ! 良かった!」と、三十代の男性も現れた。
「ママぁ! パパぁ!」
少女の顔が華やいだ。
少女は、ピエロの肩から女性の腕の中に移動した。
女性は娘を少し叱った後、男性と共に、深々とピエロに頭を下げた。
ピエロは、何も語らず、パタパタと片手を振った。
次いで、未だ少し涙目の少女に、自分の風船を手渡した。
「ありがとう! ピエロさん!」
満面の笑みで感謝を告げる少女に、ピエロは手を振った。
そうして親子は、三人仲睦まじく去って行く。
少女は、いつまでも、ピエロに手を振っていた。
ピエロもまた、親子の姿が見えなくなるまで手を振り返していた。
親子の姿が、完全に人込みの中に消えた後、ピエロは再び歩き出す。
ご機嫌な様子で、ふらりふらりと。
夢と希望、輝きに満ちたこの世界を歩いていく。
そして、
『日が昇る綺麗な世界かあ』
ピエロは呟いた。
『うん。いいね。ここなら、オイラもゆっくり羽を伸ばせそうだよ』
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