第148話 王と戦士とおしゃべりな猫➄
夢を、見ていた。
とても、古い時代の夢だ。
自分がまだ人間だった頃の夢。
――いや、この国において、自分は一度たりとて人間だった頃などなかったが。
『鬼じゃ! 鬼の子じゃ!』
誰もが、自分のことをそう呼んだ。
自分は、ただこの国に流れ着いただけなのに。
『
自国の言葉で助けを呼ぶが、誰も応えてくれない。
自分を鬼と呼びながら、鬼の形相を浮かべる男たちは、彼女を捕えた。
彼女は必死に抵抗するが、男たちの腕力の前では無意味だった。
彼女は、首だけを残して山奥の地に埋められた。
何度も助けを請うが、誰も聞き入れない。
むしろ、『呪いじゃ! 呪おうとしておる!』と叫んで、男たちは逃げ出していった。
彼女はその状態で、一人取り残された。
彼女は声が枯れるまで叫び続けたが、誰も来ることはなかった。
何日も、何日もだ。
喉が渇き、空腹で苦しむ。
雨が降った日は、少しだけ体力も回復したが、それも気休めだ。
十八日目。月が輝く夜。
彼女の命は、遂に尽き果てた。
途方もない飢餓を抱いて。
強烈な恨みの念を抱いて。
彼女は、死んだ。
受け入れられるはずもない。こんな死など。
『うアあああああああああああああああああああァああああああ――ッッ!』
獣のごとき断末魔を上げて、彼女は我霊に堕ちた。
拘束していた地を砕き、その後、彼女は霧がかかったような思考で彷徨った。
――食べたい。食べたい。食べたい。
その想いだけを抱いて。
森の途中で熊の親子に出遭った。ひと呑みで喰らった。
だが、空腹はまるで満たされない。
さらに森の中を彷徨っていると、大きな怒号が聞こえてきた。
導かれるように、そちらに向かうと、森を抜けた。
そこには大勢の人間がいた。甲冑を纏った人間たちだ。
どうやら、戦場に出たらしい。
その光景を見た時、彼女の心に強烈な憎悪が湧き上がった。
そして、彼女は黄金の髪を揺らして、戦場に躍り出た。
――屍の山が築かれるまで一刻もかからなかった。
彼女は、その屍の山を余すことなく平らげた。
それでも、空腹は消えてくれない。
けれど、人を喰らうと少しだけ心が安らんだ。
思考にかかっていた霧も、少しだけ晴れたような気がした。
彼女は、好んで戦場を襲うことにした。
空腹は満たされないが、喰うことを繰り返すほどに、思考の霧だけは晴れていった。
時々、妙な力を持つ人間が襲い掛かってくることもあったが、それも返り討ちにした。
そうして、彼女の思考は、わずか二十年ほどで知性を取り戻していた。
通常、我霊が知性を取り戻すには、百年はかかるという。
それを鑑みると、まさに異例の早さだった。推測するとすれば、我霊にとって人を喰らう行為とは、知性を取り戻す上での特別な儀式でもあるのだろう。
文字通り、山ほど人を喰らったからこそ、彼女は知性を早く取り戻したのである。
名付きの我霊。《屍山喰らい》の誕生である。
生前の姿と記憶、自らの死に様を思い出した彼女は、さらに深い憎悪を抱いた。
――鬼の子と呼ぶのならば、本当に鬼になってやる。
彼女は、さらに人を喰らった。
が、そんなある日のことだった。
天を突くような髭が特徴的な、商人姿の小男。
一目で、この男は同類だと分かった。
だから、彼女は久しぶりに言葉を紡いだ。
『……誰、だ。お前は?』
『ほう』男は目を見開いた。『これは驚いたな。見たところ、君はまだ五十年程度の若さだと思うのだが、もう知性を取り戻しているのかね?』
『……何の話、だ?』
彼女は、虚ろな眼差しで男を睨み据える。
『意味、分からないこと、言うな。エリーに、この国の言葉、使わせる、な』
彼女は牙を見せた。
『エリーに、関わるな。お前が、エリーと同じでも、容赦しない』
『ふふ。吾輩が同胞と気付き、わざわざ言葉で警告してくれたということか』
男は双眸を細めた。
『優しき娘だな』
『……警告、した』
彼女は男に牙を剥いた。腹部が口を開き、無数の触舌が男を襲う!
しかし、男は、彼女の攻撃を意にも介さなかった。
まるでそよ風の中を歩くように、彼女の元へと近づいてくる。
彼女は舌打ちして爪を伸ばし、接近戦へと切り替えるが、
『フハハ。中々にお転婆であるな』
男は人差し指から刀剣を生やし、爪撃を軽く捌いた。
彼女は冷たい汗を流した。と、
『だが、荒い攻撃だ』
男は一瞬で間合いを詰め、
彼女は青ざめた。あっさりと拘束を許してしまった。我霊には共食いの事例もある。格上が格下を喰らう。このまま男に捕食されると思った。
『しかし、その姿は頂けんな』
だが、男は、どこまでも優し気な声で言う。
そして、トスンと彼女を正面から抱きかかえると、その黄金の髪を撫でて、
『まず身を清めて髪を梳かしたまえ。折角の美しい髪だというのに台無しだ。それから、その
『お、お前、何を……』
彼女は困惑した。けれど、その両手は自然と男の背中を掴んでいた。
それは、およそ五十年ぶりの抱擁だった。
『若き同胞よ』
男は言う。
『君に生き方を教えよう。我らの正しき生き方をね』
「…………」
ゆっくりと。
彼女――エリーゼは瞼を上げた。
そこは森の中。木々が開けた少し広い場所だ。
「……あら?」
エリーゼは視線を落とした。
その先には、倒れ伏す十五人の女がいた。
「退屈で少し眠っていたようね。けれど、やはり今回もダメでしたの」
女たちのほとんどは吐血している。
今までの女たちと同じだ。今回も適合者はいなかったようだ。
「まあ、仕方がないですわね。では」
エリーゼは告げる。
「立ちなさい」
そう命じると、三人の女が立ち上がった。
三人とも虚ろな表情だ。が、すぐに目を見開いた。
全身が膨れ上がり、衣服が破れ、四肢が伸びる。口元は裂け、紅い舌が飛び出した。
三人とも、瞬く間に化け物の姿となった。
「今回は三人でしたか。こちらも不作ですわね」
エリーゼは嘆息する。
三人の変貌は、服用した薬物のせいではない。
三人とも、我霊に堕ちたのだ。
我霊に堕ちる条件は、この世に深い未練を残すこと。
さらに言えば、死の直前に強烈な負の感情を抱いていると、堕ちやすくなる。
愛する男を殺され、強い憎しみを抱いていた彼女たちは、その条件が揃っていた。
だが、哀しいことに堕ちたばかりの我霊は、相性が最もよい生前の肉体に憑依しても、よくて四等級ほどに過ぎない。
そして、その程度の我霊では、名付きであるエリーゼの前では服従するしかなかった。
化け物に堕ちるほどに、愛する男の仇を討ちたいと願った彼女たちの想いは、ただ怨敵に利用されるだけだった。
「まあ、よいですわ。今宵の頭数の補充としては充分でしょう」
言って、エリーゼは歩き出す。
化け物となってしまった三人も、彼女の後に続く。
倒れたままの女たちには見向きもしない。
彼女たちは低級我霊の餌。もしくは自身の間食にでもすればいいと思っていた。
今は興味もなかった。
だからこそ、エリーゼは気付かなかった。
倒れ伏す十二人の女性たち。
その中の一人の指が、微かに動いたことに――。
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今日までは2話投稿しようと思います!
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